第2話

 トウヤは陰町かげまちの帰路を軽い足取りで進んでいく。

 道はコンクリートが敷かれているが、補修していないためあちこち剥がれている。

 100年前の田んぼは水が抜かれないまま放置され、腐った水をたたえる沼となった。

 ぼうっと立っている街灯はほとんどがその役目を終えていた。


 この町は暗いな、と思う。

 生まれた時から住んでいる町。なのに今日は一段と暗く感じるのが不思議だ。

 それはトウヤの心に燦々さんさんと陽が注いでいるからなのだろう。

 そんな自分と対比すると町の暗さが際立って見える。

 まだ耳の奥で鼓動が鳴っているようだ。

 胸を押さえてみると心臓の動きが手のひらに直に伝わってくる。

 次にマナに会うのは月曜日、学校で。

 想いを伝えようと決めた。決めただけでまだ何もしていないのに、自分はまるで偉業を成し遂げたかのような高揚感に包まれていた。

 少し上を見上げてみる。そこに空はない。

 空岩ソライワのゴツゴツとした焦茶色の岩肌が見えるだけだが、今日は上を向いて歩きたかった。


 トウヤは築100年以上は経つであろう、今にも崩れ落ちてしまいそうな住宅の前で足を止めた。

 錆びついたトタンの隙間から濃いオレンジのスレート屋根がところどころ肩身が狭そうに顔を覗かせている。

 竣工当初は当時の流行を取り入れた瀟洒しょうしゃなデザインの二階建てだったのだろう。

 オレンジやクリーム色など暖色を基本とした邸宅だったことが、ツギハギの中から伺える。

「ただいま」

 ここがトウヤの生まれ育った自宅である。

 ガタガタと歪な音をたて、力を微調整しながら戸を引く。

 玄関ドアは建付けが悪く素直に押し引きできたためしがない。

「おい」

 慣れた手つきで引き戸をドア枠に押し込んでいると、奥から中年男性がのっそりと顔を出した。

 奥は居間となっているが、ゴミで溢れかえっている。

「父さん。ただいま」

「酒、買ってきてくれ」

 肩から提げていた通学バッグを下ろす間もなく飛んできたセリフがそれである。

 父親である久志ひさしの手には金が握られている。

 トウヤは大きく溜息をつき、それを受け取る。

 こうして酒を買いに行かされるのは週に3~4度ほど。一日中家にいるのだから自分で買ってくればいいのに、とは思うが、何度言っても無駄だった。

 それにトウヤが不本意ながらも素直にお使いを頼まれてやるのには他に理由があった。

 久志をあわれんでいるのだ。

 この街は常に暗く、陽が当たらない。

 暗がりで生活している人間もまた、どうしてか鬱々うつうつ陰気いんきな性質の者がほとんどだ。

 故に陰町には無職者が多い。

 気力がなく、働かないのだ。この父親も例外ではない。母親もかつては久志と同じく酒をあおって日がな過ごすような人だった。3年前に病に倒れ帰らぬ人となってしまったが。

 このような陰者いんじゃたちは国から最低限の保障を受けながら日々を無為むいに過ごしている。

 トウヤにはこの親や陰町の人達が可哀想に見えて仕方がなかった。

 自分は毎日元気に学校に行くことができる。体が動く。気力もある。

 同級生のユウジを見ていても、やはり彼も町の人たちのようになっていくのだろうと思う。

 同じ陰町で育った彼らと自分に何の違いがあるのだろうと突き詰めると、幼い頃から支えてくれる存在がいたかどうかという違いなのかもしれない。

 トウヤは彼らを憐れむのと同時にマナの存在に感謝せずにはいられなかった。

 だからこの父親を無下むげにすることはできない。

 自分は恵まれているのだから。

「これで買えるだけ買ってきてくれ」

 久志はトウヤの手に何枚もの札を握らせる。

 トウヤは目を丸くした。

「1、2、3……5万? なんでこんなに?」

 何本買ってこいと言うのだろう。いつもなら3千円分程度のものだ。

「てか、電気代払うのもギリギリなくせにどっからこんな金……」

「電気代なんてもう払わなくていい」

 久志は中身がほとんどない焼酎の瓶をグラスに傾け、ぶっきらぼうに言った。

「払わなくていいって、なんで?」

 トウヤはゴミだらけの居間に入り父親に詰め寄る。

 電気代を払わなかったらいずれ電気は止められ生活ができなくなる。

 それが困るから少ない保障金のなかなんとか払ってきたのではないか。

 そんな意図を察してか、久志は違う、と軽く手を振る。

「対価だ。明日から電気水道ガス代は免除。保障金とは別に月5万の給付金も出る。その5万がさっそく今月の分だ」

「うちだけ、なんで……?」

 そんな美味しい話が世の中にあるというのだろうか。

「うちだけじゃねえよ。陰町全世帯だ」

「陰町全世帯……?」

 不思議な話だ。忌み嫌われているはずの陰町がなぜ急に優遇されるのだろう。

 そう言えば、対価と言っていなかったか?

「対価、って。なんの?」

 その優遇措置に値するほどの価値など、陰町にあったか?

 独自の産業もなければ特産品も観光客もないこの町に。

 久志は渋面じゅうめんを作り、吐き捨てるように言った。

「厄介払いだよ。俺達は陰町から出られなくなるんだ」

「陰町から出られなく……?」

 言葉の意味は理解できるが、まるで自分には関係のない話のように聞こえた。

 あまりにも飛躍した話だ。トウヤは表情ひとつ変えないどころか、笑いすら込み上げてきた。

「ははは、そんなことあるわけないじゃん。町から出られなくなったら俺学校通えないし、町外で仕事してる人も困るよ。そんなあり得ない話……」

 久志はグラスを煽った。

「陰町町外外出禁止令。風深市かざみしの条例で明日の朝7:00施行だ。陰町には店が無ぇからな。ありったけの酒買ってきといてくれ」

 そうだ、もともとこの父親は言葉が多い方ではないし、冗談すら聞いたことがないではないか。

「本当、なのか……?」

 トウヤは頭から一気に血が下がっていく感覚がした。全ての血が足元に集まってしまったかのようで、爪先がじんじんとひりつく。

天美あまみが水面下で推し進めてたんだろうな。陰町の町長も昨日知ったぐれぇだってよ」

「もちろん町長は抗議してるんだよな!?」

「どうだか。あの町長が天美の滝重たきしげに噛みつけると思うか?」

 陰町の町長もやはり陰町の人間らしく、覇気もなければやる気もない。

 天美町あまみちょうの滝重町長に言われるがまま頭を下げている姿が容易に想像できた。

「じゃあこのまま大人しく明日から陰町に閉じ込もれってのか!? 大体そこまで陰町を嫌う理由はなんなんだよ! たまたま空岩の真下にあって陽が当たらないってだけじゃないか!」

「そこが大問題なんだとよ。俺たちは生まれた時からここにいる。ゴミもカビもきったねえ沼も、あって困るもんじゃねえんだ。だろ?」

「ああ、別に……そんなの普通だろ」

 自分たちはこの環境で生きている。生きていられている。何が問題なのだろう。

天美そとの奴らは綺麗好きの集まりだからな。汚ねぇゴミにはまるごと蓋したいんだろ」

「そんな理屈が通るのおかしいだろ……父さんはそれでいいのかよ」

 明日からの生活に備えているくらいだ。答えは分かりきっているのだが。

「俺達にできることなんて何もねぇさ」

 それより早く酒を、と促すように久志はしっしと手首を振り、トウヤを居間から追い出す仕草をした。

「父さんや大人が行かないなら、俺が滝重のところに行く」

 トウヤはそう吐き捨てると、酒代だけ握りしめ玄関を飛び出した。

「無駄なことしてねぇで酒買ってこい」

 久志の耳には遠ざかるトウヤの足音だけが届いた。




 辺りはすっかり暗くなっていた。

 トウヤは陰町の色濃い闇を抜け、天美町へと駆ける。

 滝重町長の家までは走って10分ほどと言ったところだろう。

 滝重と面識などはない。訴えを聞いてもらえるかもわからない。

 だがこのまま黙って明日の7:00を迎えてやる気はない。

 トウヤは夜の天美町を足がもつれるほどに走った。


 天美の町人は――マナはこのことを知っているのだろうか。

 いや、マナのことだ。

 知っていたら黙っているはずがない。

 陰町から出られなくなればマナに会えなくなってしまう。

 その想いだけが、トウヤの足をひたすらに動かしていた。




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