ソライワ
大路いつき
第1話
それは100年前からそこに浮いている。
言い伝えによると突然空から飛来し、
いびつな卵型をした大岩――のように見えるもの。
人々はそれを
6限目終了のチャイムが鳴り止むと、軽快なテンポのクラシック音楽が校内に響き渡る。
無遠慮な音量でスピーカーから流れるそれは聞く者によって表情を変える。
ある生徒には憂鬱を加速させるメランコリーマーチ、またある生徒には自由を彩るラグジュアリーミュージックと言ったところか。
一斉清掃の時間である。
生徒がぱらぱらと席を立つ。
教室後ろの掃除用具入れに列を作るが、それは一定数の生徒だけだ。3分の2ほどの生徒は掃除用具入れに目もくれない。
女子は群れを作り中身の無いおしゃべりに花を咲かせ、男子は教室を広く使い野球ごっこを始める。
箒を手にした生徒が無秩序に散らばるクラスメイトを避けながら床を掃く。
ぞうきんを持った生徒は黙々と窓を拭く。
各学年7クラスあるが、どの教室でも同じ光景が見られた。
「あ! やべ!」
パリン! と小気味よい音を立てて、自分が拭いていた窓を突き破る野球ボール。
大きなガラス片がガラガラと床に落ち、細かな粉塵がトウヤの黒い学ランを白く汚した。
「春田わりぃー! ちょうどそこにいるしお前割ったことにしといて! な!」
男子生徒は両手を顔の前で合わせ、形だけの謝罪をしている。悪びれていないのは声音でわかる。
「嫌だよ。ちゃんと先生に言ってこいよ」
トウヤは気が強い。間違ったことは間違っていると主張できる人間だった。
もちろん全員参加しなければいけないはずの一斉清掃に一部の生徒しか参加していない事実も入学当時から教師に訴えたが、現状が変わることはなかった。
それを仕方ないと飲み込まなければいけない大きな事情があるからだ。
「言ってもいいけどさー、"
何がおかしいのかゲラゲラと仲間内で笑う一団に、トウヤは強い目線を返した。
「陰だから何だって――」
反論しかけた時、制服の袖を誰かに引かれた。
「やめとこうよ春田くん……」
「ユウジ」
同級生のユウジだ。彼も箒を手にしている。
彼のか細い話し声を聞き取るには耳に神経を集中させねばならない。
この高校に入学して2年半。ずっと同じクラスで付き合ってきたトウヤも最初は彼との会話に難儀したが、今となっては自然と彼の声を聞き取ることに長けていた。
「やめとこうって……いつも何かあるたびに俺たちのせいじゃねぇか」
トウヤは教室の端からニヤニヤとこちらを見ている一団を
「そうだけど、何言ったって無駄だよ……」
そうだ、どうせ何を言ってもねじ伏せられてしまう。
トウヤやユウジが"普通の"学生ならこんな勝ち目のない争いは起きないのに。
「クソが……」
これ以上争っても無駄に気をすり減らすことにしかならない。
腹の底でふつふつとしていたものが温度を下げていく。
一団は
自分はまだいい。
たとえ10対0で相手が悪くても、こちらが100%非を
なぜなら今黙々と清掃活動を行っている生徒達は、空にどっかりと浮かぶ大岩――空岩の広大な影に包まれた"
「ケガはない?」
リンと鈴が鳴るように耳に心地よい声の持ち主は星野マナ。
クラス委員長であり、トウヤの幼なじみである。
彼女はトウヤの住む陰町在住の身ではないが、陰町の者――
彼女のように差別意識を持たない者も、決して多くはないがゼロではない。
自分よりも15センチほどは背丈が低いであろうマナが、上目遣いでトウヤを気遣う。
さっきまで闇雲に大太鼓を打ち鳴らしていた鼓動は、祭りのときの浮かれ調子の小太鼓に早変わりした。
強張った顔の筋肉がゆるんでいくのを感じる。
「あ、ああ大丈夫。それより……」
マナの背後にちらりと目を向ける。
先ほどの男子が仲間とはしゃぎ騒いでいる姿が見えた。
俺と話すと周りの目が。そう言おうとした矢先、
「あれ~? 委員長やっさしー!」
「からかわないで!」
毅然と
マナに一喝された男子はヘラヘラとまた群れに戻っていった。
帰りのHRが終わり、誰もいなくなった教室でトウヤは帰り支度をしていた。
先ほどのガラス片を片付けていたため下校が遅くなった。
HR中、担任が割れた窓に視線をやったが一瞬言葉を止めただけで、何があったのか、誰がやったのかなど一切触れることはなかった。
理由はわかっている。
「俺たち陰者のせいって決めつけてるからだろうな」
腹の底をくすぶらせたまま生徒用玄関に向かっていると、職員室を後にしようとしているマナを見つけた。
「失礼しました」
一礼して戸を閉めたマナがトウヤを見つけると、一瞬驚いたような顔をしたあとニコリと笑みを向けてくれた。
「まだ残ってたんだ」
マナが駆け寄る。
「ああ。ガラス、片付けてて」
「あ……手伝えなくてごめん!」
自然と並んで玄関に向かう。
「いや、俺の仕事だし」
俺の仕事か? 言ってから思ったが、今更もうどうでもいいかと思い直す。
「それより、委員会の報告かなにか? 職員室」
委員長だし、トウヤにはわからない仕事があるのだろう。
「あ……ううん。さっきのガラスのこと。トウヤじゃないって」
「わざわざ言いに行ってくれたのか?」
トウヤが目を丸くする。
マナはいつもそうだ。トウヤの知らないところでトウヤを庇ってくれている。
陰者であるが故に
学校の備品を壊した。粗暴な男子生徒が誰かを殴った。花壇の花が荒らされた。
本当の加害者が一言「陰者がやった」、そう言えばそれがまかり通ってしまうのだ。
そのたびに身に覚えの無い罪を責められ、心の無い謝罪をする。
陰者にとってはそんな理不尽な日常が当たり前だ。
マナが今回のようにこっそり口添えしてくれていても教師から
さっきまでくさくさしていた気持ちが嘘のように晴れていることに気がつく。
いつの間にか口角が上がりきっている自分が少し気持ち悪い。
「なに? なんかニヤニヤしてる?」
顔を覗き込まれ、慌てて口元を隠す。
「なんでもない! 見るなよ」
「やだ、やっぱりボールで頭打ったんじゃない?」
クスクスと鈴の声を転がすマナ。
他愛ない会話を交わしながら、2人は肩を並べて校門を後にした。
ここは
見上げてみると、少々の雲を抱えた薄青色の空が遠大に広がっている。
ここから陰町までそう距離もないのに、空のないトウヤの町からは見ることが叶わない景色だ。
100年前に突然現れたという空に浮かぶ岩。
何かを降らせたり地上に干渉することはなく、ただそこに鎮座し続けているだけの存在。
強い風がマナの肩にかかる黒髪を乱した。
風の中にかすかに土の匂いが混じっている気がする。
コンクリートに覆われた町ではなじみのない匂い。
それはもしかしたらあの土山に覆われた、空に浮かぶ大岩から匂ってきているのだろうか。
確かめる術はないが。
「あの岩さ……」
手ぐしで髪を整えながらマナが呟く。
「ああ、空岩?」
2人は校門を背にし、足を止めて空岩を仰いだ。
「どうしてあそこに浮いてるんだろうね」
2人が生まれた時にはもうそこにあった光景。なにも不思議なことはない。
「あれが空から降ってきた100年前は大変な騒ぎだったみたいだな。そりゃそうだよな。今までなかったもんが突然現れて、しかも真上に留まられたらな。あの岩から宇宙人が降りてきて襲撃されるかもーとか大慌てだったらしいぜ」
トウヤは語尾に笑いを混ぜ、あっけらかんと答える。
「トウヤは辛くないの?」
少し低い位置からのマナの真っ直ぐな目線を受ける。
何故そんなに目を潤ませているんだろう。
「マナ……いつも心配してくれてありがとうな」
胸がじんわりと熱くなる。
「だって、陽が当たらない町に生まれたってだけであんな扱いされるのおかしいよ! どうしてトウヤの町なの? どうしてトウヤがこんな目に……」
マナが袖で目元を拭った。泣いているのだろうか。他でもないトウヤのために。
「陰町は長い間
トウヤはいつもより声のトーンをあげて明るく勤めた。暗い雰囲気にしてマナに気を遣わせてしまうのが嫌だったから。
トウヤが笑いながら頭をかく仕草をしてみる。
すると突然視界からマナが消えた。かと思うと、胸に重みを感じた。
「え!?」
マナが自分の胸に身を寄せているではないか。
夢のような光景だと
頭をかいていた腕をマナの背中に回したい衝動をもてあまし、両手が宙を泳いだ。
マナが触れている胸のあたりだけ皮膚温度が急上昇している気がする。
マナが火傷してしまわないだろうか。
あり得ないことを真剣に心配してしまうくらい混乱している。
「私の前では無理しないで……。お願い」
「マナ……なんで、そんなに、俺のこと……」
緊張のせいで声が上擦ったあげくイントネーションもおかしくなってしまった。こんな時にカタコトの外国人になんてなりたくないのに。
「なんでって……」
マナが顔を上げると今までにないくらいの至近距離で目が合った。
少し潤んだ瞳が何かを求めるように見えてしまって、トウヤは自分の唇に意識が集中し始める。
「だって、トウヤのこと……」
そこまで聞いてしまったらもう自分に都合の良い言葉しか浮かばない。
トウヤは何かに後押しされるように力強くマナの両肩をつかんだ。
そして目を瞑りかけたその時――
背後の校舎から17時を告げるチャイムが鳴った。
「あ! いけない!」
マナが大きく身を引き、2人の間にあった甘い緊張感は無情にもかき消えた。
「帰って塾の支度しないと……。ごめん、先行くね!」
小柄な身体はあっという間にトウヤの手をすり抜けてしまう。
勢いよく
慌ててマナの駆けていく背中にかける言葉を探す。
「あ、ああ……塾、頑張れよ!」
本当に言いたかったのはそんなことじゃない。
振り向いて手を振ったマナはいつも通りの笑顔だ。
マナの姿が見えなくなると頭が冷え冷えとしてきた。
「俺、なにしてんだ~……」
マナにキスをしようとした。
色々と順番をすっ飛ばしてしまっている。
マナはどう思った? どういう表情をしてた?
掴んだマナの肩は思ったより
いや、震えていたのは自分の手?
脳に麻酔でも打ったかのようにふわふわとした感覚だけが残り、あとはあまり覚えていない。マナの唇がツヤツヤで柔らかそうだったことだけは鮮明に覚えているのだが。
「笑ってた、よな」
さっきの笑顔が答えだと思っていいのだろうか。
次に会ったとき、想いを伝えてみようか。
幼稚園の頃から温めていたと言ったら驚くだろうか。
もしかしたらマナも同じ気持ちで、自分がずっと待たせていたのかもしれない。
そう思うと自分を
トウヤは変わらずぽかりと浮いている空岩に目をやった。
自分は忌み嫌われる陰者である。
不遇な環境でも自分なりに気丈に生きてきた。
良いことより辛いことの方がはるかに多い人生だった。
それだから神様は、想い人と結ばれるという大ボーナスを用意してくれたのだろうか。
陽を遮るあの無機質な岩のかたまりに感謝したくなった。
「いいとこもあるんだな」
トウヤは健闘を
「ただいまー」
マナが玄関のドアを開けると奥から母親が出迎えた。
「おかえりなさい。……あら」
母親は靴を脱ぐマナに近寄り、執拗に制服や髪の匂いを嗅いだ。
「ちょ、やめてよ、なに」
「あなたまたあの子と一緒だったのね? リビングに入る前にシャワーを浴びてらっしゃい」
「言われなくてもわかってるよ……」
「どうして
母がまくしたてる。
「ほっといてよ」
ぶっきらぼうに返事をするマナ。母はさらにエンジンをかける。
「あなたまさか! あの子と付き合ってるなんてこと……ないわよね!?」
「ちーがーう」
マナの大きなため息にはもういい加減にしてくれという意思表示があった。
母は否定の言葉に安心したのか、それ以上は言及しなかった。
2階の自室に上がる背中にトドメとばかりに母の声が飛んでくる。
「制服にもスプレーしなさいよー!」
「……はーい」
マナは再びため息をついた。
トウヤと一緒に時間を過ごした日は毎回このやりとりを交わす。
自室へ入るとすぐに制服をハンガーにかけ、『強力殺菌』と書かれたスプレーを手に取る。下着姿もそのままだ。
肩から袖、表、裏。スカートも360°隙間なく噴霧した。
部屋中にアルコールの霧が充満するほどに。
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