樋口偽善

ある日の朝の出来事

朝。


カーテンの隙間から差し込む朝日で目を覚ます。


時刻は午前7時を少し過ぎている。


今日も全てがいつも通りだ。


私はカーテンを開けようと思い、ベッドから起き上がろうとする。


しかしどういう訳か、身体の動かし方が分からない。


ここはまだ夢の中なのかもしれないと思い頬をつねろうとしたが、両腕は肩からぶら下がっているだけで全く機能してくれない。


まるで全身から神経だけが抜き取られてしまったようだ。


どうすることもできず無気力状態に陥った私は、そのまま横たわって天井を眺めていた。


これといってすることもないので、昨晩の自分の行動を思い返してみることにした。




・・・・・・・・・・




私は毎晩、眠る前に酒を飲む。


生粋の下戸であるが、どうもやめられない。


酔いが回ってくると頬が紅潮し、思考に靄がかかると同時に脳内に“声”が響き渡る。


誰の声なのか、何を言っているのか、皆目見当もつかないが、たしかに“人間の声”が“何か”を語りかけてくるのだ。


さらに時間が経つと頭痛を伴うようになり、脳内に響いていた声は叫び声へと変わっていく。


何を叫んでいるのかは相変わらず分からないが、どうやらその声は私を罵倒するようなニュアンスを含んでいるようだ。


なんだか私は自分がとんでもない悪人であるかのような気分になってきて、ただただ「ごめんなさい、ごめんなさい」と謝り続ける他なかった。


それでも叫び声が止むことはなく、更なる頭痛と共に私を襲うのだ。


そうして心身共に疲れ果てた頃に、私は半ば気絶するように眠りにつく。


こんな夜を毎日繰り返していても決まった時間に目が覚めるのは、社会人としてのプライドがまだ僅かに自分の中に残っているからだろうか。


周囲の人間はゆっくり安静に過ごしなさいと諭してくるが、何年もかけて身体に染みついた習慣はなかなかにしぶとく残り続けるものだ。


そんなわけで私は今日も午前7時に目覚めたのだ。


私はつくづく、こんな自分が嫌になった。




・・・・・・・・・・




そうして物思いにふけっていると、登下校をする子供たちの声やサラリーマンの足音、自転車を漕ぐ音などが窓の外から聞こえてくる。


それらを聞くといつも、私はとてつもない罪悪感に襲われるのだ。


まるで自分だけが何も成していない人間のように思えてきて、両耳を塞ぎながら身体を丸くする。


すると奇妙なことに、自分が横たわっているベッドの中央にいつの間にか大きな穴が空いていて、私はそこへずぶずぶと落ちていった。


その穴は私の唯一の逃げ道である様な気がして、落ちていくことに対する抵抗は試みなかった。



『お前はまた、逃げるんだな』



昨晩脳内で響いていた声が、今度ははっきりとした言葉を発した。


違う、私は逃げていない。


偶然空いていた穴に落ちてしまっただけだ。


そんな言い訳じみたことを考えながら、私は穴へと落ちていく。


目を閉じて、全てに身を任せながら。



『お前はまた、罪を重ねるのか?』



意識が朦朧とする中、不意にそんな言葉が耳に入ってきた気がした。




・・・・・・・・・・




どれくらいの時間が経ったのだろうか。


穴に落ち続けていた身体が、すとんとどこかに着地した感覚があった。


私はいつのまにか起き上がっていて、なんとなく見覚えのある道の上に佇んでいる。


状況を理解するよりも先に、私は歩き出した。


何故だか分からないが、そうしなければならない気がしたのだ。


それはおそらく、誰かが私にこう語りかけてきたことが原因であろう。



『あなたは立ち止まってはなりません。私の言う通りにすれば全てが上手くいくでしょう。他人の言葉に耳を傾けるなどご法度です。あなたは、私なくしては存在すらしなかったのですから』



この誰かを仮に“M”と呼ぶことにする。


Mの姿は見えないものの、その声は不思議と私を突き動かす力をもっており、従わざるを得なかった。


私は無心で、ただひたすらに歩き続ける。


道が分かれている場所があった場合、その都度Mの指示に従って進んだ。


進むにつれて道の分岐は増えていったが、Mは迷うことなく進むべき道を指示していく。


昨晩酒を飲んだ時と同様に時折脳内に誰かの声が響いてきたが、それらも一切無視した。


それもMからの指示なのだ。


私は視線を目の前に続く道のみに向け、両の脚を交互に動かすだけでよかった。




・・・・・・・・・・




そろそろ歩き疲れたと思い始めた頃、道の先の方にスーツ姿の若い男がいるのに気がついた。


彼は椅子に腰掛けていて、目の前に置かれた長机の上にある書類に目を通している。


サラリーマンがこんな所で仕事をしているのだろうかと不思議に思っていると、彼は顔を上げて私に話しかけてきた。



「どうぞ、こちらにお掛けください」



彼が何者なのか、何故現れたのかは分からなかったが、久しぶりに見るスーツを着た大人に萎縮してしまい、言われるがままに腰かけた。


以前勤めていた職場の光景がフラッシュバックし、私は眩暈がしそうだった。



「さっそくですが、あなたのことを教えていただきたいのです」



私が椅子に座るや否や、若い男は切り出した。


奇妙なことに、道の真ん中で採用面接のようなものが始まってしまったのだ。



「こちらからひとつだけ質問をしましょう。あなたはここまで、どのようにして来られましたか?」


「……はい?」


「難しく考える必要はありません。あなたはつい先ほどまで歩いておられたでしょう?どのような道を辿って来られたんですか?」


「どのような……道……」



私はここまでの道のりを思い出すために、記憶の詰まった引き出しを片っ端から開けてみた。


しかしどういう訳か、そこには何も入っていない。


あるのは自身の目の前に道が続いていたという事実のみで、自分がどのように道を選択してきたかが全くと言っていいほど思い出せない。



「……緊張されていますか?あなた自身のことを正直に仰っていただいて結構ですので、気負う必要はありませんよ」


「……私自身のことを……正直に……」


「その通りです。ここまで歩いて来られたのは紛れも無くあなた自身なのですから、あなたのことを教えていただきたいのです」



私は心の中でMに助けを求めた。


ここまで私を導いてきたのは紛れも無くMであり、Mの助言があってこそ私は危険を被ることなくここまで歩くことができたのだ。


今の自分はどうすれば良いのか聞きたかった。


しかし、Mの声は聞こえてこない。


待てども待てども聞こえてこない。


肝心な時になって、Mは姿を晦ましたのだ。



「えーっと、どうかされましたか?顔色が優れませんが」



男の言葉に焦った私は額の冷や汗を拭い、苦し紛れにこう答えた。



「どのようにしてここに来たのかは、私には分かりません。私には道を示してくれる者がいたのです。その指示に従った結果、ここに辿り着きました」



男は黙ったまま視線を落とし、ペンを取った。



「……では、あなたは自分が進む道を自分で選択していない、ということですね?」


「仰る通りです。しかし私がそうしたのは、言う通りに進むよう念押しされたからに他なりません。あなただって、強く指示されれば言われた通りにするでしょう?」



私からの問いかけに対して男は答えなかった。


代わりに机上の書類に何かしら記載し、それが終わるとそれを鞄に仕舞い込んで席を立った。



「本日はお忙しいところお時間をいただき誠にありがとうございました。私はこれで失礼致します。では、お気をつけて」



そう言い残すと、彼は私に背を向けてしまった。


私は咄嗟に彼を呼び止める。


先程までとは打って変わって、彼はそっけない返事をしてこちらを向いた。



「あの、今の時間は何のためのものだったのでしょうか?あなたは何者なのですか?」



顔だけをこちらに向けていた男は身体ごと向きを変え、正面から私に向かい合った。



「私はあなたのような若者を社会の一員として迎え入れる為に寄越された者です。私からの質問に対する答えを基に、迎え入れるか否かを判断します。そして先程の面接の結果、あなたは我々にとって必要のない人間だと判断いたしました。希望に添いかねる結果になってしまったことはお詫び致します。では、私は次の現場へ向かいますので」



再び立ち去ろうとした男の肩を掴み、私は喚いた。



「ち、ちょっとまってくれ!たったひとつの質問で私が不必要だと判断したのか?これでも私はここまで歩いてきた人間だぞ?今の会話では、必要か否かを判断するのに不十分ではないか?」



私の手を振り払うと、男は鋭い目をこちらに向けながらぶっきらぼうに言った。



「……そのたったひとつの質問だけで、私はあなたへの興味を失いました。両脚を交互に動かしてきただけで真っ当に生きてきたと思っているような人間と会話をするほど、私は暇ではないのです。では」



男は矢継ぎ早にそう告げると、足早に去っていった。


私は無性に腹が立ち、彼が先程まで使用していた机と椅子を思い切り蹴飛ばした。


指示された通りに歩き続けたことの何がいけないと言うのか。


“言われた通りにする”というのが自分にとっての最善策だったのだから仕方がないだろう。


そもそもこんな重要なタイミングで姿を消したM、そしてたったひとつの質問で人間の良し悪しを判断したあの男がどうかしているのだ。


私は悪くない。


責任は私以外にある。 


こんな境遇に置かれた私は不幸な存在に違いない。


そう確信した時だった。


どこからかMの声が聞こえてきたのだ。



『今のお考えは、あなたの本心ですか?』



ああ、その通りさ!


悪いのは貴様だ!


貴様のせいでとんだ恥をかいた!


今すぐここに出てこい!謝罪しろ!


感情を露わにし、私は絶叫した。


続けてMの落ち度を責め立てようとした時、それを遮るようにMは言ったのだ。



『それが、あなたの罪なのです』



次の瞬間、目の前が真っ暗になった。


それまで鮮明に見えていたはずの道も暗闇に飲まれ、足元が僅かに見える程度である。


そして2度と、Mの声は聞こえてこなくなった。


代わりに聞こえてくるのは、酒に酔った時にいつも脳内に響き渡っていただ。


私は途端に恐ろしくなり、両耳を塞いでしゃがみ込んだ。


しかし声は一向になくならない。


塞ぎ込めば塞ぎ込むほど、その声は大きくなっていくような気がした。


どうすることもできず、私は歩くことにした。


しかしこれまでとは違い、自信を持って歩くことができない。


両手両脚が動いている感覚があるのだが、果たして自分が前に進むことができているのかどうかが分からない。


実は一箇所に留まっていて、ただもがいているだけなのかもしれないと思うと、汗で背中がびっしょりと濡れた。


そして身体を動かす度に、それまでほとんど感じてこなかった空腹感・疲労感が全身にのしかかった。


私は初めて、これまでの自分は何かに守られた存在だったのだと思い知らされたのだ。


全く意識していなかったが、Mはただ道を示してくれる案内人というだけの存在ではなかったのである。


無意識に上着のポケットに手を入れると、2・3粒のアーモンドチョコレートが入っていたので、とりあえずそれらを食べて飢えを凌ぐことにした。


以前食事が喉を通らなくなった時もチョコレートばかり食べて過ごしていたことがあったので、苦痛ではなかった。


しかしこういった適当な食事は、腹を満たす代わりに心を擦り減らしていくものだということも私はよく理解していた。


形容し難い苦痛に見舞われながら、私はなんとか身体を動かそうと努める。


これまで順調に歩を進めていただけに、1人になった途端自分がどうしようもなく無力な存在である様な気がした。


脳内に響く声がどんどん大きくなっていく。


何を言っているのかは分からないが、きっと私を責め立てているのだ。



「ごめんなさい、ごめんなさい」



訳も分からず謝り続ける。


そしていつの間にか、私はその場に倒れていた。


身体の動かし方も分からなくなり、私は静かに目を閉じた。




・・・・・・・・・・




目が覚めた。


辺りを見渡すと、数メートル先に大きな木がそびえているのが見える。


私は吸い寄せられるようにその木へと近づいた。


その木の幹をよく観察すると、いたるところに文字が書かれている。


先の尖った石などを使って書いたのだろう。文字はどれも角ばっていた。


私はそれらのひとつひとつを目で追って読んでみた。



『このせかいはクルっている』


『おれがえらばれなかったのはカンキョウのせいだ』


『あたしがせかいでいちばんフコウなそんざい』


『もうシにたい、シんでやる』



見ているだけで気分を害される様な汚い言葉が書き殴られていた。


私はそれらを搔き消すように、残る力を振り絞ってこう書き殴った。



『わたしたちのツミは、みにくくひだいかしたジイシキだ』




・・・・・・・・・・




気がつくと、視線の先には自室の天井があった。


首だけを動かして辺りを見ると、自分は紛れもなく自室のベッドの上に横たわっていることが分かる。


また、を見ていたのか。


夢なのか、それとも幻覚なのか、はたまた現実なのか。


一体何なのかが分からないを、私は毎朝見ていた。


就職活動に失敗し、大学卒業間近にハローワークに駆け込んでようやく見つけた職場を退職してからというものの、を見ない日は無かった。


いつの間にか身体が動くようになっていたので、私はベッドから這い出した。


時刻は午後4時を回っている。


またいつも通りの日常が帰って来た。


一体私は、いつからこうなってしまったんだろう。


ずっと真面目に生きてきた私の未来が、どうしてこんな有様なんだろう。


答えは見つからないまま、知らぬ間に部屋の前に置かれている母親が握ったおにぎりを、私は大口を開けて頬張った。

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樋口偽善 @Higuchi_GZN

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