第7話
川の流れを伝って、木々に身を移すように走っていく。
夜ということもあって、至る所で武官が警備にあたっている。ただ外からの侵入を気にしているためか私に気付く様子はない。
足跡を殺しながらかがり火を頼りに、星宮から東に位置する場所を目指す。無心で駆けていれば、想像通り他の宮とは造りの異なった建物がそびえたっていた。
煉瓦を積み上げただけの、塔にも見える建物。三階ほどの高さで、ほかの宮より質素に見える。門の左右には、後宮内に立つ武官とは色の違う装束をまとった男が二人立っていた。二人は私を見て、武器を構えるわけでもなく顔を見合わせる。私は意を決して二人に近づいていった。
「突然の来訪、申し訳ございません。後宮に入りました。この国の第一皇女シオンと申します。このたびはこちらへ住まうお方にご挨拶へ伺いました」
「皇帝からは何も申しつけられておりませんが」
男の一人が、戸惑うでもなく返答した。一切取り乱すことない態度に、この建物の中にいる人間は只者ではないと期待が膨らむ。
「はい。皇帝の意志ではございません。この場所について私は知らされませんでした。自らの私の一存のみでこの場を探し出し、伺いました」
そう伝えると、門の左右を守っていたうちの一人が建物の中へ入っていった。片割れの男は私を監視するように立っている。しばらくして戻ってきた男が「どうぞこちらへ」と、建物の中へ入るよう促した。
「本日はどうやって晴宮からお越しになったのです? 晴宮はこちらの宮よりもずっと厳重に守られているはずですが」
「窓を伝いました」
即座に答えると、男は「窓?」と取り乱した。先ほどまでは無表情であったはずの彼は、わかりやすく目を丸くしている。声色も淡々としたものから、気安いものに変わっていた。
「窓を、伝ったのですか」
「はい。そこまで高くはなかったもので」
「さようですか……」
それ以降、男は黙ってしまった。燭台でしか明かりをとっていない螺旋上の階段を何度も降りていく。
石造りの場所はひそめていても声が響き、それよりも大きく聞こえる足音は反響して、今自分がどれほど潜っているのか、惑わしてくるみたいだ。
しばらく降りると、それはそれは大きな扉が現れた。扉は見ているだけでも重そうで、実際男は手こずりながら自分の体重をかけ扉を押し開いていく。開いた隙間からぶわりと冷ややかな向かい風が吹いて、重苦しい空気に包まれた。
一歩ずつ確かめるように足を進めていく。
やがて視界に入ったのはどこまでも続く鉄格子と、その中に作られた部屋だった。今見ているものが、とても後宮内の景色とは思えない。
牢屋だ。鉄格子の向こうは本棚で張り巡らされ、文机に上等な箪笥が一つ。奥には扉があり、上等な暮らしを思わせるその矛盾に混乱を覚えた。
さらに奇妙なことに、清貧な暮らしと上等な暮らしを分けるように、床には線が引かれている。
「貴女が、新しい皇帝ですか」
文机に向かっていた細身の背中がゆっくりとこちらに向けられた。
歳が私より上なのは間違いないだろう。黒みがかった紫髪を靡かせ悠然とこちらに振り返ってきたその横顔は、今まで見た誰よりも美しく、畏怖さえ感じるほどだ。見目こそ硝子細工のようであるのに、紅水晶にも似た瞳から目を反らせば、一瞬で首を跳ねられるとすら思ってしまう。
「私の名前は……」
「どうして──ここが分かったんですか?」
「え」
名乗ることすら許されず、一瞬ひるんでしまった。牢の中の男はうっすらと笑みを浮かべ、質問を続ける。
「僕の存在は隠されているはずです。王家が貴女にこの場所を伝えることはなかったでしょう」
こちらを試していると、はっきりわかる声色だ。
しかし、私はこの男に協力を得て、明日を乗り切らなければいけないのだ。でなければ、書き物小屋は焼かれてしまう。
「帝の人数について話をしたとき、月帝は中々ない花だと言いました」
メラストマの花弁は五枚だ。けれど、稀に六つの花びらをもって咲くことがある。実際、六枚の花弁を持った花が、そのまま散っていくところを見た。
「中々ない花弁の数は、六枚。つまり帝は六人いるということです」
私がそう言うと、男は首をかしげた。
「それだけですか? 貴女は、自分の勘があたると思って、わざわざここまで来たのでしょうか」
「婿参りをしに雪宮へ行ったとき星帝もいましたが、その場で星帝は、僕らが四人目、五人目ですかと聞いてきました。ふつう、自分たちで最後ですかという質問になるはず。単独なら証拠として弱いですが──花びらの話と合わせれば」
「なるほど。僕を見つけた理由は分かりました。でもどうしてわざわざ人目を忍んで会いに来たんです?」
「それは貴方が、おそらく皇帝の脅威たる人物であり──私に協力してくれると思ったからです」
はっきりと伝えれば、涼やかな瞳が弧を描いた。彼は「そうですねえ」と軽石を投げるような返事をする。
「たしかに存在を秘匿されれば、ここに来ずとも王家と何らかの因縁があるとは想像できるでしょう。しかし、僕が貴方に協力する動機はどこにありますか? 僕がただの放蕩者で、たとえば失踪した皇女の怒りを買い、秘匿されるべくして秘匿されたとは思わなかったのでしょうか?」
「ここに来るまでの間は、少しだけ」
「へぇ」
男はどこまでも品定めをするようだった。私は皇女として立っているけれど、彼の眼差しは王が供物へ向けるものだ。私は一歩踏み出し、その瞳を見返した。
「でも貴方が放蕩者だったなら、妹はきっと貴方を地上で侍らせていた」
気に入らない人間は徹底的に排除して、能力問わず見目がよく自分の言いなりになる人間を優遇する妹のことだ。
本来なら次期皇帝に幽閉される人間は、その性質に問題があると感じる。しかしその次期皇帝がわたしの妹であるならば、その道理は逆転する。
「貴方がこうして幽閉されていることが、皮肉にも貴方の正当性を証明しています」
きっぱりと言い切る。男は口を開かず黙ったままだ。ただの沈黙が、何十時間も経ったように思えてくる。
「貴女は、何を望んでいるんですか?」
ぽつりとこぼす様な問いかけに、間髪いれず「明日、夜を過ごしてほしい」と返答した。
「これまた随分と大胆な誘いですねぇ……」
「明日、誰かと一夜を過ごさなくてはならない。でも、私は誰とも契りたくありません。だから私はここに──」
「なるほど」
男は私の言葉を遮り、立ち上がった。私の目の前まで悠然と歩いて来る。
「僕が無理やり貴女を孕ませるとは思わないんですか? 次期皇帝の父になること、僕をこうして地下に閉じ込めた王家への復讐、理由はいくらでも揃います」
直接的な表現だけど、たじろぐことはしなかった。きっと、私を試しているのだ。煽るような言葉を選んでいる。この男はそれができる。
「本棚の並びは、人を表します」
私は牢の中へと手を差し入れ、彼の背後を指さした。
彼の背にある蔵書の数々はどれも教養や礼儀を重んじた人間が書いたものだ。
「そして、この蔵書を牢の中へ持ち込むにも、宮内での協力者が必要です」
私は天井と床の僅かな色差を指した。普段は何か板で隠しているのだ。しかし私がここに訪れても、彼は本を隠さなかった。誰かが秘密裏に王家の内情を彼に伝え、私が敵にならない、もしくはその可能性が低いと伝えたのではないだろうか。
そして私がここに訪れたとき、この本や暮らしを咎めるか見定めるために、板を取り払った。
「貴方は慕われている。少なくとも、貴方の手の者には。そしてその者たちは、命をかけて貴方を支援している。わざわざ生きることに必要のない本を差し入れるほど貴方を想っている。そんな貴方が、ただ私を襲うなんてつまらない真似はしない」
「皇女を襲うことが、つまらないですか」
「はい」
消去法であれ、この男は貧乏くじではない。また長い沈黙が訪れ、ふっと空気が変わった。「ふふ、ふふふふふふ」と、不気味な笑い声が牢に響いたかと思えば、男は立ち上がり私の前に立つ。
「明日の夕刻、貴女が僕を迎えに来てくださいね」
男は私が牢の中に差し入れていた手を掴むと、そのまま人差し指から手首までを舐めた。思わず鳥肌が立つと、男は唇に弧を描いてそっと手を放してくる。
「僕の名前は、オリアスと申します。ここ花ノ宮で──僕は一応、花帝を務めています。以後お見知りおきを。シオンさん」
巣食うような瞳から視線をそらす。私は彼に深々と礼をしてから、牢を離れ彼に背中を向けた。そのまま振り返ることなく花宮を後にする。
これで、書き物小屋に火を放たれることはないだろう。協力者を一人得た。誰とも寝ずに済む。
月明りを背に駆けながら晴宮を目指す。今日からここに住めと言われた建物が見えてきてもなお、不安がぬぐえない。
目的は達成されたはずなのに、花宮の牢の中、本棚の並びが瞼にこびりついて離れない。
法や、詩歌。誠実な蔵書の数々のすみ、毒草の書物が並んでいた。
隠す様子もなく、まるで当然のように。
私は一抹の不安を手土産にして、誰にも見つかることなく晴宮の自室へと戻ったのだった。
この度、逆後宮の主になれと強いられまして。 稲井田そう @inaidasou
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