すいとん
増田朋美
すいとん
すいとん
梅雨空らしく、雨が降って、気持ちも落ち込みがちになりそうな日だった。こんな日はただでさえ落ち込みやすい気候なのに、ましてや病人にとっては、非常に辛い事になってしまいそうな気がしてしまうのである。
その日も、杉ちゃんたちは製鉄所で、水穂さんにご飯を食べさせるという、辛い作業を行っていたのであるが。
「あーあ、やっぱり食べないよな。うまいとか、まずいとか、そういうこともわからないのかなあ。」
と、杉ちゃんがいうほど、水穂さんは食事をしないのだった。幾ら食べさせようとしても、反対方向を向いてしまうのであった。
「食べようという気がしないのか。食べるという気持ちにもならないの?」
と、杉ちゃんは嫌そうな顔をしてそう聞いてみる。
「それとも味がしないから、食べるという気がしないのか?は?もういい加減に何日ご飯を食べないで居たら気が済むんだよ。このままじゃな、本当に餓死してしまうよ。何とかして食べようと思わなくちゃ。水とか、薬とかそういうもんばっかり飲んでればいいってもんじゃないぞ。」
いつも、食べないことを放っておける杉ちゃんがそういうのだから、もう水穂さんは何にちも、ご飯を食べていないということになるのだろう。杉ちゃんも杉ちゃんで、色んな料理を食べさせて来たのだろうが、水穂さんは何を食べさせても、食べないという事態が続いているのだ。
「あーあ、そういうことなら、又料理の本でも読んで研究しようと思うが、僕は字が読めないから、誰かに読んでもらうしかないよ。な、由紀子さん。」
と、杉ちゃんがいうと、一部始終を眺めていた由紀子は、一寸苛立ってしまったのだろうか、杉ちゃんのちかくにおいてあった。おかゆのお皿から、おさじでおかゆを取って、水穂さんの口に無理やり入れた。いきなり入れられたので、水穂さんは何も準備していなかったせいか、ひどくせき込んでしまった。せき込むと同時に、血液も出た。ああ、馬鹿馬鹿といいながら、杉ちゃんが急いで口もとを拭き取ったが、一寸遅かったら、畳を汚してしまう可能性があった。畳を張り替えるとなると、大変な額のお金がかかってしまうことは、由紀子も知っていた。もし、可能であれば、畳をやめて、フローリングに張り替えて、布団にじかに寝るのではなく、介護用品のベッドを用意してやった方がいいのではないかと由紀子は思うのだが、そんな事は本人が嫌がっているから、やめた方が良いと言われてしまうのが落ちだ。
「あーあ、無理やり食べさせるなら、こういうことになっちまうんだよな。全く、困った奴だよ。それで、法律上では、僕たちのほうが悪いということに成っちまうんだぜ。病気の奴が悪いことしていたとしてもな。」
杉ちゃんが、大きなため息をついて、水穂さんを布団に寝かしつけてあげた。
「まあ確かに倫理的には、弱い奴は何とか助けてやれなきゃいけないんだけど、こうご飯を食べないで、いつまでも居られちゃうと、怒ってしまいたくなる気持ちになるよ。全く、ご飯を食べさせている、僕たちの気持ちにもなってくれ!」
杉ちゃんがデカい声でそういうと、こんにちは、と玄関先で声がした。
「はあ、だれかな。」
と杉ちゃんがいうと、
「僕だよ。スイカシを作ってきたから持ってきた。作りすぎちゃって、持て余していたから、水穂さんにはもってこいかなと思って。」
やってきたのは、ラーメン屋をやっている、ウイグル族のぱくちゃんであった。
「ああ、悪いねえ。ちょっと、水穂さんのところで取り込み中なの。上がってきてくれる?」
と、杉ちゃんがいうと、ぱくちゃんは分かりましたと言って四畳半にやってきた。手には、深鉢型のスープ用の弁当箱を持っている。よく登山なんかする方は、持っていることが多いと思われるスープ入れだった。
「はい、スイカシね。割と薄味で、日本人むきにしてあるから、沢山食べて。」
朴ちゃんは、弁当箱を畳の上に置き、水穂さんに箸を渡した。
「イシュメイルさん、スイカシとはどのようなモノなんでしょうか?」
由紀子が聞くと、杉ちゃんが見ればわかるから、聞かなくていいといった。ぱくちゃんは、弁当箱のふたをとった。中には、白い餅と、ホウレンソウなどの野菜がたっぷり入った、いわば、ブイヨンで作ったウイグル式のお雑煮という感じの食べ物が入っていた。
「何だあ。日本のすいとんに近いものだな。戦時中の代用食して、有名な食べ物だったな。」
と、杉ちゃんがいう。ブイヨンスープのにおいが部屋中に充満すると、水穂さんが初めて顔を食べ物の方へ向けてくれた。
「おう、食べるか。」
と、杉ちゃんがいうと、水穂さんは、一つ頷いた。杉ちゃんが、お箸で餅を取って水穂さんの口もとへ持っていくと、水穂さんはそれを静かに食べた。
「おおすごい!それではもう一口食べてくれるか。」
今度は、ホウレンソウを口へもっていく。すると又食べてくれた。続いてはニンジン。これも食べてくれた。
「すごい、、、。」
由紀子が思わず言ってしまうほど、水穂さんの食欲は旺盛だった。あっという間にこれを繰り返して、スイカシと呼ばれるお雑煮をくれた。
「このお餅は、小麦粉で作ってあるんですか?」
由紀子が聞いてみると、
「いえ、米粉です。」
とぱくちゃんはさらりと答えた。
「ありがとうねぱくちゃん。スイカシのおかげで、水穂さんは命拾いしたぜ。本当にありがとう。助かったよ。」
杉ちゃんがぱくちゃんに頭を下げると、
「こんなモノで頭を下げられちゃ困るよ。これは、ウイグルの間では、本当によく知られた、日常的に食べられる料理で、そんなこと言うんだったら、どら焼きの方がよっぽどごちそうだよ。」
と、ぱくちゃんはおかしな顔をしていった。
「そうなんだね。どうして、そんな料理を食べる気になったの?なにか訳があるんだろ?」
杉ちゃんがそういうと、
「い、いえ。ただ、おいしそうだったから。若いころに食べた料理となんとなく似ていて。」
水穂さんはそう答えるのだった。由紀子は、水穂さんがそういうことをいうのは、もしかしたら同和地区に住んでいた時、すいとんというモノを身近で食べていたのではないかとおもったが、それを水穂さんにいうのはやめておいた。
「なるほどね。ま、日本の戦時中の料理に似たような料理が、ウイグルの間では一般的なんだね。」
と、杉ちゃんが言った。ということはつまり、ウイグル社会は、まだまだ貧しいのだろうなと由紀子は思った。
「できれば、そのスイカシというのを定期的に作って持ってきてもらいたいね。水穂さんがご飯を食べてもらうために。」
と、杉ちゃんが言うが、
「いや、そいつは無理だよ。今日は店が定休日だから、それでこっちに来させて貰ったんだし。」
と、ぱくちゃんは答えた。確かにぱくちゃんだって、ラーメン屋の仕事があるんだから、忙しいはずだ。ちなみにぱくちゃんの作っているラーメンは、ウイグル族の伝統的な麺を使用するため、ラーメンというより、黄色い讃岐うどんという感じになってしまう事も由紀子は知っていた。ぱくちゃんはよく、日本のラーメンの元祖はウイグル族のラグメンなのだから、太い麺が丁度いいんだと言っていた。そんな事を由紀子が思いだしていると、
「ほかにウイグルの料理というと、どんな料理があるもんかな。もし、可能であれば、ほかの料理も作ってよ、ぱくちゃん。」
と、杉ちゃんがぱくちゃんとそう話している。ぱくちゃんの話によると、ウイグルの料理は、イスラム教が浸透しているためか、野菜ばかりの料理が多く、健康的な料理ばかりだ。ある意味、日本が貧しかった時の料理と近いものがある。そうなると、昭和を懐かしんでいるお年寄りにはいいのではないかと由紀子はおもった。
「イシュメイルさんって、なんでも知っているんですね。もし可能であれば、宅配でウイグル料理を配達する店でも作ったらどうですか?」
由紀子が思わずそういうと、
「いやあ、車の運転免許がないので、それは無理かな。それに碌に漢字も読めないので。亀子さんから、少しはかけるように成れと言われるけど、どうも漢字を覚えるのは抵抗があって、、、。」
と、ぱくちゃんは言った。確かに、ウイグル族にとって、漢民族は最大の敵と言ってもいいだろう。両者は、もう何百年も、いがみ合ってきた歴史がある。敵が使用している文字を覚えるのは、だれだって相当勇気がいる。
「そうなんだねえ。これからも、ウイグル料理を水穂さんに食べさせてやってくれよ。今まで何をあげても一口も口にしてくれなかった人物が、こんなおいしそうに食べるなんて、嬉しいもんだぜ。なんか救われた気がしたよ。ありがとうな。」
杉ちゃんはぱくちゃんににこやかに笑って言った。
「まあねえ、僕たちが食べてる粗末な食事が、どこまで役に立つのかわからないけどね。まあ、水穂さんが気に入っているんだったら、いつでも作らせて貰うから。」
そういうぱくちゃんが、水穂さんの方を見たところ、水穂さんは先ほどのスイカシがとてもおいしかったのだろうか。静かに眠っていた。
それから、数分後の事である。
「こんにちは。あの、右城水穂さんは、こちらですんでいらっしゃると聞きましたが?」
と、玄関先から声が聞こえてきた。誰だろうと思ったが、女性の声であった。声の大きさから判断すると、杉ちゃんたちと同じくらいの年齢の女性だと思われる。
「はあ、お前さんだれだよ。」
杉ちゃんがいうと、女性はそのやくざの親分みたいな言い方に、一寸びっくりしたようで、一瞬黙ってしまった。
「わたくし、田宮事務所の田宮と申します。旧姓は、黒沼と申します。」
と、女性はそれだけいう。
「どっちが本名かわからんが、今水穂さん、やっとご飯を食べてくれて眠っているんだよ。あとで出直してくれるか?」
と、杉ちゃんがいうと、
「そうですか。今日は、大事なお話があるから、右城さんにも聞いてほしかったんですが。」
とその女性はいうのである。
「それに右城ではなく、今の姓は磯野だよ。」
杉ちゃんがそういうと、水穂さんがつかの間の眠りから目を覚ました。誰が来ているんですかとすぐにぱくちゃんにいう。ぱくちゃんが、たみやという人が来ているというと、すぐに布団から起きようとしたが、踏ん張れないので、布団に倒れこんだ。
「そんなに大変な人なんですか?」
と、由紀子が、小さな声で聞くと、
「ええ、田宮さん、僕が音楽学校にいた時は、黒沼さんだったんです。黒沼えりさんです。」
と、水穂さんはまた布団から起きようとするので、由紀子は急いで水穂さんの背中を支えた。ぱくちゃんも心配そうな顔をしているが、
「お通ししてください。黒沼さんは、同級生だったんです。」
と水穂さんがいう。杉ちゃんは、いいのかとだけ聞いて、水穂さんが頷いたのを確認すると、
「ああ、いいよ、入れ!」
と杉ちゃんはデカい声で言った。失礼いたします、と言って、黒沼さん、現姓は田宮さんと呼ばれている女性は、部屋に入ってくる。田宮さんは、確かに色白で綺麗な人であり、水穂さんとペアを組んだら似合いそうな女性だった。
「で、今日、僕たちがここにいるのを、なんで知ったんだ。」
と、杉ちゃんが聞くと、
「はい、桂浩二さんから伺いました。浩二さんの演奏会のパンフレットに、あなたの名前が書いてあったので。」
と、田宮さんは答えた。
「はあ、そうなのね。浩二君も余計なことをしてしまったものだ。お前さんの用件は何なんだよ。」
と、杉ちゃんがいうと、
「はい。実は一人息子も結婚しまして、私の時間も増えましたので、また田宮事務所として、音楽活動をはじめたいと思っているのですが、右城さんに手伝って貰いたいと思いまして。」
と、田宮さんは言った。
「はあ、手伝うって何が?演奏会に出てほしかったのか?其れならお断りだよ。とても、人前で演奏できるような体じゃないよ!」
杉ちゃんは直ぐ否定するが、
「いえ、演奏会に出てもらおうという事ではありません。でも、演奏をしてもらいたいという気持ちはあります。」
と、田宮さんは言った。
「それ、どういうことかな?」
と、杉ちゃんが聞くと、
「ええ、実は私、ピアノ曲の解説動画を撮影して、動画サイトに公開しているんですが、そこで御願いがありまして。ゴドフスキーの、練習曲で、動画に参加して貰いたいんです。もちろん、桂浩二さんから、こういう病気である事は聞きました。よくなってからでけっこうですから、どうでしょう、田宮事務所にピアニストとして、復活して貰えませんか?」
と、田宮さんはそういうのであった。それを聞いて杉ちゃんもぱくちゃんも、絶対無理だという顔をした。
「ああ、無理無理。そんな事は絶対できやしないから、もうあきらめてくれ。こんな体だもの。無理に決まっているよ。」
由紀子は、杉ちゃんがそう言っている間、本箱の中を見た。確かに、ゴドフスキーと書かれた楽譜がいっぱい置いてある。他にもリストとか、ショパンとか、ほかにも由紀子が知らない超絶技巧で有名な作曲家の作品がいっぱい置いてあった。由紀子は、内容は知らなくても、そういう作曲家が、偉大な人たちであることは知っていた。こういう作品を、水穂さんにもう一回弾いてもらいたいと思った。
「でも、癌とか、そういうモノじゃないんでしょう。其れなら、現代の医学では何とかなるものじゃないんですか?体が多少悪くとも、演奏をしているピアニストはいっぱいいますよ。最近はそれを売り物にしようという人もいるじゃないですか。その路線で行けば、右城さんだって、又演奏家として、やれるんじゃないかな。」
という田宮さんに、
「ああ、無理だねえ。水穂さんは、もう演奏の世界には帰りたくないんだって。もうゆっくりさせてやってくれよ。生活の為に演奏していく生活は、もうできないってよ。」
杉ちゃんが田宮さんに対抗するように言った。
「でも、右城さんだって、私と同じ年なんだし。また、40代でしょ。其れなら、まだまだやれると思うんだけど。じゃあ聞きますけど、何処がお悪いの?何があって、演奏会から忽然と姿を消したのよ?」
田宮さんの質問の仕方は、何か疑い深くなっているような態度になっていた。
「それに、もし体が悪いのなら、今だったらすぐに入院させて貰えると思うけど。なんでこんなところで、いつまでも寝ているのよ。」
多分、同和地区の事とか、大変貧しかったということを知らないんだなという顔で、杉ちゃんやぱくちゃんは、顔を見合わせた。
「まあ、そうなんだけどね。一寸、日本の歴史的な事情があってさ。そういうのに免疫がないお前さんがそれを聞いたら、卒倒しちまうだろうから、さっさと帰んな!知らないほうが仏だぜ。」
と、杉ちゃんが言った。
「それに、水穂さんの事なら、僕とぱくちゃんと由紀子さんで、看病しているから、心配しないで。ほら、こうしてすいとんだって食ってるんだからよ。」
杉ちゃんが、空っぽになった弁当箱を顎で示すと、田宮さんは、
「すいとん。はあ、何か昔の食べ物が好きだったの?終戦記念日は、あと二か月後よ。其れなのに、毎日こういうモノ食べてるなんて、何かおかしいわねえ。」
と言った。まあ確かに、音楽学校にいったような女性であれば、すいとんという食べ物には無縁の事が多いだろう。そんなモノ、終戦記念日に、食べさせてもらったとか、そんな記憶しかないかもしれない。
「おかしくなんかないよ。まあお前さんのような人間だったら、すいとんが必要な身分の事は全然知らないと思うよ。まあ、それで当たり前だよな。そういうもんだよ。絶対分かり合えないことって、誰でもあるよねえ。」
と、杉ちゃんはデカい声で言った。
「そういうことだから、さっさと帰んなよ。お前さんに、水穂さんの事が分かり合えないのは当たり前の事だ。まあ、動画出演は、あきらめてほかの奴を探すんだな。ゴドフスキーを演奏することができるやつってのは、そんなに沢山いないと思うけどな。ま、そういうことだ。あきらめてくれ。」
「歴史的な事情って、ほとんどの事は、解決していると思うけど。今の社会で残っているのは、日本の領土問題位だと思うけどね。」
と、田宮さんがいうと、水穂さんはまたせき込み始めた。すぐにぱくちゃんが口もとを拭いてやったり、薬を飲ませたりしている。もう座っているのがつらいなら、横になった方がいいよと言って、ぱくちゃんは、水穂さんを布団に寝かせた。その口もとから外したチリ紙をみて、田宮さんは、あらという顔をしている。
「はあ、何も大した事ないじゃないの。明治か大正じゃあるまいし、今だったら、すぐに治せると思うわ。まあ、せいぜい元気でいる事ね。弱そうな女と、外人の看病人もいて、右城さんは幸せね。」
あきれた顔をして田宮さんは、四畳半から出ていった。
「待ってください!」
と、由紀子は彼女を呼び止める。
「そんなひどい言い方はしないで貰えますか。水穂さんは、これまで散々苦しんできたんですから!」
由紀子は田宮さんにいったが、もう馬鹿にし切ったような表情の田宮さんは、
「馬鹿にされたのはこっちよ!そんな簡単な病気を悪くするなんて、右城さんももしかしたら、経歴詐称とか、そういう事かもしれないわねえ。」
と、彼女は由紀子に言った。
「水穂さんに謝って貰えますか!そんなひどいこと、あるわけないじゃないですか。本当に苦しんで、大変だった人を、そんな軽い目で見られるのは私たちも困りますから!」
由紀子は、怒りをこめてそういったが、田宮さんは水穂さんには謝罪もしないで帰っていってしまった。
「これでよかったんだよ。」
水穂さんに掛蒲団をかけなおしてやりながら、ぱくちゃんがそういうことを言った。
「こういうことは、きっと、僕らウイグルと、漢民族が、幾らあわせようとしても、聞かないのと同じようなモノだからさ。」
「そうだねえ。ぱくちゃんいいこと言う。」
杉ちゃんもぱくちゃんの話しにあわせた。由紀子はどうしてもぱくちゃんと杉ちゃんの話しを理解できずに、涙を流し続けた。
遠くで高級車が走っていく音がする。いわゆるハイブリット車と言われるものだろうか、実に車らしくない音だった。
すいとん 増田朋美 @masubuchi4996
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