2 破滅への道

 和夫は以前、会社を経営していた。会社と云ってもピンから桐まである。和夫の会社は、いわゆる中小企業の食品加工会社だ。社員は、一時期で三十人居た事もあった。時代は1980年代中盤。当時は、景気の波に乗って資産を大幅に増やした時期も有った。



 和夫がこの会社に拘っているのには理由がある。この会社には、前妻との強い思い出があるからだ。


 前妻である百合恵ゆりえは、和夫と同期入社で働いていた。和夫と知り合い、結婚し会社設立へ踏み切ったのだ。当時お互いが若く、金銭的余裕など無く、寝る間を惜しんで働く日々が続いた。その甲斐あってか、従業員も徐々に増え十人は雇える事が出来たし、食品の流通も地元で大きく展開する事が出来た。


 しかしながらその無理が祟ってか、百合恵は三十五才で突然亡くなってしまった。疲労による過労死。和夫は百合恵の事を気遣ってやれなかった事に後悔し、嘆き悲しんだ……。

 どうして、もう少し、いたわってやれなかったのだろうか? 無理やりにでも病院へ連れていってやれば良かった……。ワシは、ワシは……。スマナイ、百合恵……許してくれ……。


 しかし、いつまでも会社を放っておけない。雇っている従業員もいる。和夫は、その悲しみを全て仕事へ打ち込んでいった。その御陰か、会社は順調に業績を伸ばしていった。





 ――やがて、三十 年の歳月が流れた。


 愛妻である百合恵の間には子供がいなかった。会社も順調に軌道に乗って行くようになった。しかし、ふと気付けば寂しく感じてしまう。仕事が終わり、自宅に帰っても誰もいない。家で食事をしても後片付けが面倒だから外食ばかりの日々が続いてしまう。もはや自宅は寝るだけの家になってしまった。和夫も六十五歳くらいになれば孫がいても可笑しくない歳だ。人恋しくなってしまう。


 時には、飲み屋街に通っていた時期もある。スナックや高級なバーなど。ある時はキャバクラにもハマっていた時期もある。当時、景気は良かったのでお金は有った。  

 VIPルームを貸切り、若い女達を侍らせていた時期もあった。下半身の欲求不満が溜まると、ソープランドに行く日もあった。


 しかし、自宅に帰り布団に横になると、寂しい……。と一言洩らす日々が続いた。ワシは一体、何の為に働いているんだ?……。守るべき家族はいない。金を稼いでも俺の後を継いでくれる人材もいやしない……。と心に隙間風が吹き込んでくる。


 ある日、和夫の会社の女性従業員である下田安江しもだやすえが和夫を食事に誘った。この事がキッカケとなり、安江は和夫と交際するようになり、やがて結婚する事となった。安江の下心丸見えの行動だったが、和夫はそれをアッサリと受け入れた。当時の和夫の寂しい心に潜り込んだのかも知れない。当時安江は三十五才。年齢差三十才と云う事に周囲の人達は皆驚いていた。


 この安江、派手好きで当初はお金目的だった。過去にお金で苦労したのかも知れない。後妻となれば社長夫人で、好き勝手な事がしたい放題だと思っていた。結婚当初は、指輪や、宝石類、ブランド服やバッグの購入。やりたい放題やっていたが、小さいながらも会社を運営すれば色々な気苦労も出てくる。


 和夫に促され、安江も表向きは段々と会社の為に考えるようになった。しかしながら、一度に人の性格は変わらない。安江は和夫にばれない様に、コソコソと私腹を肥やしていった。





 ――事の発端は二年後の事だった。


 和夫の会社の製造する食品へ、付け爪が混入した。当時この食品は、地元ではそこそこに流通してあり、スーパー・マーケットから学校の給食に至っていた。誰もが食べた事のある「インスタント・カレー」。この製造ラインに問題が発生した。


   【付け爪混入事件変なモノが入ってます


 この付け爪。今で言う、ネイル・アート。1970年に外国で流行り始め、日本へ伝わって来た。当時は1980年代中盤。外国の事に敏感な日本人は、当然その付け爪を受け入れた。当時も若い女性達の中で流行していた。やがて1990年代にはブームとなった。


 本来なら、付け爪を付けての作業は、やり難い。何故なら食料品を扱う仕事は、ゴム手袋の着用が義務付けられていたからだ。しかし、新作の爪が発売され手に入ると誰でも自慢したくなる。つい、うっかりの女性社員の行動が和夫の会社を悲劇へと導いたのだ。


 この女性社員が気付いた時、誰かに報告をして、生産品を保留にすれば良かったのだろう。しかし、自分のした事がバレルのが怖かったのだろう。知らぬ存ぜぬで通したのだった。


 又、この付け爪の入った物を食べたのが、運の悪い事にタチの悪いクレーマーだった。最初は付け爪では無くて、切断された指として文句を言ってきた。初め、金銭を要求して来たが、和夫の会社は謝罪はしたものの金銭要求には突っぱねた。もう少し丁寧な対応をしていれば、後に大事にならずに済んだのかも知れない。


 クレーマーは激怒し、地元の週刊誌にネタとして情報を流した。マスコミは誇大放送をしてしまう傾向にある。『切断された指が混入しているカレー』が市販で売られていれば誰だって気味悪がって、食べたくない。味に定評が有ったとしても、何が入っているか解らない物は、食べたくないのが事実。その為、和夫の会社はマスコミの餌食となってしまった。


 たまたま運が良かった事は、その年に【グリコ・森永事件】という、青酸入りお菓子をばらまき、更には日本企業を脅迫するという類を見ない前代未聞の大事件が起きた年だった。TVのチャンネルは何処の局も同じ内容のニュースを報道していた。 


 だから、和夫の会社の【付爪混入事件変なモノが入ってます】はマイナーで留まりローカルなニュースで止まった事だ。


 しかし、ローカルニュースでも事件には変わりはない。食料品を扱う会社にとって【異物混入】は痛恨の一撃。もはや後の祭り。工程管理・品質管理・衛生管理など社員教育が槍玉に挙げられ、ずさんな体制が浮き彫りとなった。食べ物だけに一旦失った信用は、なかなか回復する事はない。流通してしまった食品を回収し、廃棄する費用は膨大な金額になる。又、運の悪い事に、新しい設備を購入した時期でもあった為、生産に入れない。回収・廃棄・設備投資費・社員雇用・この四つが重なり合うと、莫大な金額が必要になる。


 大幅な社員のリストラを行い、地元の各関係者に頭を下げて回り、少しばかりの商いを続けていった。





 ――やがて事件が発覚して数ヶ月が経った――


 和夫の会社の社員は五人余りとなってしまった。しかし、未だ負債金は募るばかり。この時、全てを諦め自らの会社を店仕舞いし、尚且つ自己破産を申告していれば、又どこかでやり直しが出来たかも知れない。いや、被害が最小限に収められたのかも知れない……。


 そして今回の付け爪事件の真犯人は、この安江である事は誰も知らない。会社内での聞き取り調査を部下に任せてみたが、誰が犯人か分からない。まさか男性がわざわざカレータンクに投入するとは思えない。そうなれば、女性社員が限定される。疑惑は安江にも向けられたが、知らぬ存ぜぬで押し通したのだ。


 しかし、安江は反省していた様にみえる。夫に黙って買っていた指輪・宝石類・高価な衣類を処分して、返済の足しにしていた。しかし、それらを処分した処でどうなる物でも無い。負債の金額は、ゆうに億は超えているのだ。


 一方和夫も、どうして良いか解からないでいた。バブルの時期に甘い夢を見たものは、もう一度、もう一度と、期待してしまう。の様に、足元はもう崩れかけている事に気づかない。


 ある日、和夫は遂に弟の浩平に借金を頼みに出掛けて行った。トボトボと歩く和夫の顔は暗い。


 弟の浩平は金を貸してくれるだろうか? いや、もうアイツしか頼る人は見つからないんだ。でも、アイツの所に迷惑を掛けたくないし……。


 不安が不安をよび、精神的にもう限界まで達している。顔色は青ざめ、肩がだらんとして後ろ姿をみても疲れ切った様が、露わになっている。スーツもよれよれになり、見た目にも悲惨さがにじみ出ている。 


 そうこうしているうちに、和夫は浩平の家まで来てしまった。


 フゥ~と云う溜息を一つ付き、玄関を開けた。


「ガラガラ……。こんにちは……」

「——ハァ~イ……」


 玄関先の声に対応するかの様に、家の奥から声が聞こえる。


「パタパタ……」

 とスリッパが廊下を走る音と共に、若い女性が現れた。

「アラッ? 伯父さん、お久しぶりです。お変わりはありませんか?」


 姪の由香里が和夫に声を掛けた。


「ああ、由香ちゃん。久しぶりだね。浩平、いや、お父さん……居るかな?」

「はい、居ますよ。呼んできましょうか?」

「ああ、スマンが呼んでもらえるかな?」

「いいですよ。あっ、伯父さん。何だか顔色が良くないですよ。体の具合が悪いんじゃないですか?」

「あぁ、そんな事ないよ……。大丈夫だよ……」

「じゃあ呼んで来ますから、上がって待っていて下さい」

「……」


 そう言うと、由香里は再びパタパタとスリッパを鳴らしながら、奥へ父である浩平を呼びに行った。家の奥から由香里の声が響く。


 和夫は由香里に言われるがまま、部屋に上がって浩平を待つ事にした。再びトボトボと歩き、敷居をまたごうとした。“どの面さげて、借金を頼めばいいのだろうか?”

 そう思うと敷居が高くて中に入れない。やがて何かを決意した様に重い足腰を上げ、中に入って行った。


 弟である浩平の狭いリビングで和夫は三十分くらい待たされていた。そして浩平がやって来た。


「やぁ兄さん、話は聞いたよ……。大変だったみたいだね?」


 浩平が喋り終わらない内に和夫は土下座した。相手に有無を言わせないそんな態度だった。この世の終わりのような顔をしている。


「浩平……この通りだ。ワシに金を貸してくれ……。頼む、浩平……この通りだ」

「チョット待ってくれ、兄さん。俺の所も新しい設備の支払いがまだだから、そんな余裕が無いんだ……。ホントだよ、もし余裕が有れば幾らでも貸してあげたいけど……俺だって、無理なんだ」

「そうか……じゃぁ、ここにサインをしてくれ。お前には絶対迷惑を掛けないから……頼む……。浩平、お前しか頼る人はいないんだ。浩平……頼む……」


 浩平が断ると借金の保証人になってくれと和夫は懇願した。このまま、手ぶらでは家には帰れない。もう瀬戸際まで追い込まれている。兄の和夫の執拗な頼みに浩平は、渋々借用書にサインをした。


「頼むよ、何か有っても知らないよ」

「ああ、すまん……お前には絶対迷惑を掛けない……。ありがとう浩平……」


 和夫は、連帯保証人の欄に書かれた「」という借用書を大事にカバンへしまうと、何度もお辞儀をしながら帰って行った。








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