第2章 慈愛転換

1 安住の地を求めて

 ——あれから二年の歳月が過ぎた。由香里は、とある港町に居た。


 その場所は港から少し離れた場所で、老夫婦の営む花屋に住み込みで働いていた。


 なぜ花屋に居るのか、と云う訳は一年前にさかのぼる。ソープランドを辞めて由香里は一度旅に出た。ブラブラと当ても無く、気の向くままの旅。しかし五日で帰って来てしまった。目的が無い事に自分自身気付いたのだろう。違う、こんな事がしたいんじゃ無い。と、思ったのだ。


 自宅のマンションへ帰り、習い事を始める事にした。習字・華道・料理教室・陶芸・絵画教室・英語と手当たり次第に習い事に励んでいった。半年間、みっちりとやるが、違和感を感じてしまう。違う、これじゃない。再び失意のまま、もう一度旅に出た。又、計画も無く、気の向くままの旅だ。派手な場所を避け、隠れた名店探しの様な内容だった。


 旅に出て一週間目に港町へ着いた。人口三万人程度の小さな町だ。しかしながら、港には活気が溢れている。ブラブラしながら、今夜の宿を探していた時、ある物が目に付いた。『店員急募!住み込み 可』と書かれている。まるでその看板に吸い込まれる様に、由香里はフラフラとその店に入っていった。


 店は花屋。外から見た佇まいは古き時代を感じさせた。まるで大正ロマンと云った古き良き雰囲気を出している。居並ぶ店先と比べ、この花屋だけが存在感を主張している。そんな感じに見えた。この花屋は今川次郎いまがわじろう華子はなこと云う老夫婦が営んでいる。


 花屋のドアを開け、由香里は店に入って行った。店の奥には白髪の痩せた女性が椅子に座って気持ちが良さそうに居眠りをしている。よく見るとゆっくりと頭が揺れている。由香里は遠慮がちに声を掛けた。


「……あのぅ~もし、もし~……外の看板を見たのですが、店員を募集してるんですか?」


 不意に声を掛けられ、白髪の女性はハッと目覚めた。眠ってずれた丸い眼鏡を掛け直し、由香里を見た。由香里を見て、微笑んで答えた。


「ハイ? 何ですか?……何の御用でしょうか?」

「あの~表の看板見たんですけど、店員、まだ募集してますか?」

「あ~……あれね。はい、大丈夫ですよ。まだ募集していますが……働いてもらえるのですか?」

「まだ、決めてはないのですが、条件はどうなんでしょうか?」

「条件って言いましても、こんな小さな花屋ですから給料は安いですが、部屋は貸しますよ。勿論、風呂とトイレも私達と共同ですが……一緒に住むのが嫌でしたら、部屋は外のアパートだっていいんです。休みは、水曜しか有りませんが、どうでしょうかねぇ? そうそう、大した事は出来ませんが、三度の食事も付いてますよ」


 物腰が柔らかく話すその白髪の老女である華子と話していると、由香里はフッと子供の頃の記憶が蘇ってきた。昔は祖父母達が健在で、よく可愛がってくれた。そんな心温まる様な感じが、この花屋の主人からなぜか受けるのだった。由香里は間髪入れず申し出た。


「住み込みでお願いします。でも、私……保証人がいませんが……」

「いいえ、大丈夫ですよ。保証人なんかは当てにはなりませんわ。この私が観て、決めるだけの事ですから。どれ、どれ、もう少しコッチへ来て下さい」


 花屋の店主である華子は由香里を自分の側に来させて、自分の眼鏡を掛け直し、じっくりと見定めた。


「あなた、お名前は?」

「はい、井坂由香里と申します」

「そう、いいお名前ね? 合格ですよ。いつでもいいですから、来て下さい」

「ええっーそれだけでOKなんですか?……本当に? 良いんですか?」

「ええ、私も長い事生きてきましたから、目を見れば大抵の事は解かる様になりましたから……あなた、由香里さん? って言いましたね。由香里さんの目はとっても綺麗な目をしてますね。純真無垢というよりは、瞳に憂いを感じますが、汚れを感じませんから。以前、何か辛い過去が有ったのでしょうね?」

「……そ、そこまで解かるんですか?」

「詮索はしませんよ。人間なら過去に一つや二つ、人には言えない辛い事がありますからね……ただ、あなたの事は信用が置ける。と云う事は私には解かりますよ」


 由香里は驚いた。人の顔や目を見ただけでその人を見極めてしまうという事を。この花屋の店主へ畏敬の念を覚えた。

 何だ? 人の過去でも見えるのか? 戸惑う由香里に華子は笑顔で問う。


「じゃぁ、どうしますか? 私共と一緒の家・住み込みを希望しますか? それとも、アパートに住みますか?」

「住み込みで、お願いします」


 何故か、間髪入れずに由香里は答えた。ごく自然に答えたのだった。


「じゃぁ、お爺さんを呼んで来なくっちゃ」


 華子はゆっくりと椅子から起き上がると、店の奥へ入って行った。店の奥から大きな声で、話をしているのが聞こえてくる。高齢者なので、耳が遠いのだろう。



 由香里は店先で待った。待っている間中、改めて店の中を見て見た。店の大きさは八畳程度の広さしかない。その1/3はガラス張りの冷蔵庫になっている。その冷蔵庫の内側と外側の空いた場所に大きなバケツが有り、色取り取りの花が生けられてある。


 由香里が店の中を見渡していると、店の奥から老夫婦が出て来た。先程の華子と旦那の次郎だ。次郎も華子同様に白髪で、上手に歳を取ったのか、顔のシワが深く暖かい雰囲気を持っている。次郎は腰が弱いのか、腰をさすっている。次郎は由香里に気が付くと、ニコニコ顔で話し掛けた。


「いやぁ~ホンにメンコイ娘さんじゃ。ここで働いてくれるんかのぅ? ほんなら、先に部屋を案内しますだ……」


 次郎はそう言うと、華子と連れ立って二階へ由香里を案内しながら上がっていった。


 二階には部屋が三つ有り、その一つを由香里が使う事となった。部屋は六畳で南向き。日当たりは十分で、窓を開ければ近くの海の香りと潮風が入ってくる。華子は由香里に聞いた。


「荷物は他にありますかな?」

「いいえ、今はこの手荷物しか有りませんが、一度帰って荷物を持ってきてもいいですか?」

「ええですとも……」

「それじゃ、明日、いえ、三日後必ず又来ますので、よろしくお願いします」

「うんうん、待っとりますよ……」


 二階から一階へ降り、店先から由香里は次郎と華子夫婦へお辞儀をして、自分のマンションへと帰って行った。由香里の去って行く後姿をいつまでも見送りながら、次郎と華子は手を振っていた。


 夏の夕暮れには似合わない、爽やかな涼しげな風が辺を吹いていた。店先の鉢植えに咲いている向日葵の花が、そっと揺れていた。




 由香里は一旦、自分のマンションへ帰ってきた。新しい自分の宿と仕事先が決まったので、部屋の中の衣類家具を処分しないとならない。派手な服や高価な家具家電も処分した。以前勤めていた、ソープ仲間に連絡をつけて、二束三文で売り払ったのだ。これからの生活は質素な環境なのだから……。


 由香里は、比較的地味な服類をダンボールへ詰め、引越し業者へ依頼した。高価な宝石類は目立たない空き缶へ詰め、通帳とカード類もまとめて、木箱へ入れた。もう一度、通帳を開いてみた。【残高二千五百万】と言う高額な金額が浮き上がっている。


 あの神様、私がお金に困る。って言ってたけど、これだけ有れば何とかなるわよね? ふと由香里はそう思った。


 自分が何故か、あの花屋で、住み込みで働くなんて思ってもみなかった。

 “どうして?”と自問自答しても答えは出てこない。あの老夫婦と一緒にいると、何故か不思議と落着いてくる。人恋しい? いや、心が癒されると言った方が合っているかも知れない。答えが見つからなければ、自分でその答えを見つけ出さないとならない。由香里は目に見えない何かに誘われる様に、あの花屋へと向かって行った。




 三日後、由香里はあの港町の花屋の前にいた。店先のドアを開け中に入った。


「——こんにちわ~~」


 明るく若い声が、狭い店に響く。その声に反応してすぐに奥から、次郎と華子が出て来た。


「おお、あんたか? ホンによう来んさった。ワシ等、今昼飯食ってるから一緒に食わんか?」

「はい、いただきます」


 この老夫婦には遠慮は無用だ。由香里は、直感的にそう思った。次郎が由香里に見せる笑顔は、満面の笑みが浮かんでいる。華子も同様だ。まるで、我が子。いや、孫に見せる様な態度で由香里に接してくる。


 三人でちゃぶ台を囲み、昼食を取った。まるで長年暮らしてきたと、錯覚すら覚えるほど由香里は、この今川家に溶け込んでいる。


 この時、由香里は自覚したのだ。なぜ、自分はこの場所へ居るのか?という事を。


 叔父の借金で一家離散となりソープへ売られ、自らの身体を見知らぬ男達へ、お金の為だけにさらしてきた。疎外感・孤独感・不信感・が体中にまとわりつき、全てが信じられず、信じられる物はお金だけと思う様になってきた。光太郎との出会いによって、由香里の、かたくなな心は癒され様としていた。しかし光太郎は亡くなってしまった。店に来た変な客『泰三』の一言で、由香里は自分探しを始めるが、中々簡単に自分は見つからない。


 そんな折り、この店の店員急募という看板に目が止まり、この店に住み込みで働く様になったのは、やはり人恋しいからなのだ。人は、一人では生きていけない。誰か、波長の合う人と暮す様に出来ている。目に見えない物に引かれる様に、この今川家には穏やかで心休まる空間がある。家族のふれあいと言うか、温もりが感じられる。偶然と云うより、必然的に由香里はこの場所へ導かれてきたのだ。由香里の荒み、かたくなな心をもう一度人を信じる様な気持ちにさせてくれる為に。


 そして、由香里はこの店で働いた。まるで家族。祖父母と孫の様な不思議な関係。お互いが干渉せず、いたわり合っている。暇な時は次郎や華子が昔の話をしてくれる。そんな時、由香里はふっと、寂しくなる。生き別れた両親は今何処で何をしているのだろう?


 気になって、ソープ勤めをしていた時に、店長弘田の紹介で、探偵に両親の居場所を探してもらった時期もあった。しかし、行方不明で居場所は掴めなかった。


 会いたいけど、会えれない……自分は、強要されて身体を売っていた。身体も心も汚れてしまった。もし、両親が見つかっても、どんな顔をして会えばいいのだろう……。


 次郎と華子と居る時は落着くけれど、この思いはいつも感じていた。










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