9 そしてRe:Startへ
由香里はつい先程の事が信じられないでいた。
何だったの? 夢? それとも幻? もしかして?……幻影が見えたのか?……。と考えてみた。
しかしながら、現実には自分の掌には先程のあのカードが光輝いている。まるで早く使ってくれ。と催促している様にみえる。そのカードを財布にしまい込み、由香里は立ち上がった。そして、窓を開けベランダに出た。
外は夜中には雨が降っていたが、今は止んでいた。そして、夜の闇が今明けようとしていた。東の空が赤く、北の空が白く、そして西の空が黒の、奇妙なコントラストが空を覆っている。
途端にヒューっと風が吹きセミロングの由香里の髪が乱れた。髪を手で直しボンヤリしていると、何かが上からユックリと落ちてきた。フワフワとユックリ落ちてきた物を、由香里は無意識の内に両手で掴んだ。その掴んだ何かを壊さない様に、両手をユックリと広げてみる。鳥の様な羽根だ。その羽根は、白く輝いている。やがて、その羽根は由香里の手のひらの中で霧の様に消えてしまった。
——何? この羽根は、一体?…。
「やはり、さっきの神様は現実だったんだ。死ぬのは、止めよう。生きなければ……生きて、光太郎さんの分まで幸せにならなければ、光太郎さんに申し訳無い……」
由香里は自殺を思い直し、もう一度東の空を見た。地上と空の狭間を赤く眩しい光が染めて、日が昇ってくる。
由香里の心に目に見えない何かが、入り込んでいくのが由香里自身感じていた。
それから由香里は変わっていった。今までの様にボンヤリ過ごして行くのでは無く、外に出掛ける様になった。光太郎を失って哀しいのは未だ止まないが、何か自分の打ち込める物を捜しているのかも知れない。
食欲は依然としてあまり無いが、それでも気力で食べるように努めた。徐々に顔色も良くなってきた。
そして、あれから十日後、由香里は勤めているソープランドへ行った。店長弘田をはじめ、仲間達は内心ホッとした。見舞いに行った時、由香里はやつれて、今にも死にそうな状態に見えていたからだ。
「由香里、元気になって良かったな。無理しなくていいからな……」
「由香里さん、大丈夫?」
仲間や店長の声が由香里の心に、心地よく響く。
「ありがとうございます……。本当にご心配をお掛けしました……」
本当は、この店に戻りたくは無かった。金で好きでも無い男に抱かれるのは、嫌悪感すら感じる。けれど、生きる為には仕方が無い事も解っている。仕事の内容は別として、此処では自分の事を心配してくれる仲間や、店長がいる。しかし、いつまでも続ける仕事では無い事も……そして、自分には生きる為に、新しい何かを見つけなければならない事もある。
まるで呪縛の様だ。叔父の借金から由香里の人生の歯車がズレて来た。思いもしない身売り。そして、愛する人との死別。苦しくて、悲しくて、悔しくて堪らない。
でも、乗り越えねばならない。色々な想いが由香里の頭の中を交錯していく。
そしてある日、由香里は店長弘田に呼ばれた。ソープ嬢の待合室のドアを、荒々しく開けて弘田が入って来た。弘田は部屋を見渡し、由香里を探した。うつむいたままの由香里を見た。
「由香里、ちょっと話がある。いいか、ちょっと来てくれ……」
弘田の顔が何故かほころんでいる様に見える。
「はい、何でしょう?」
「実はな、今変な客が来て、お前の事を指名するんだが……【一晩付き合ってくれ】って言うんだが、どうする?」
「どんな人なんですか?」
「ほら、アイツだ。金持ちのボンボンに見えるんだが……車はポルシェに乗っているみたいで、腕時計もかなり良い物を着けているし、服だって、ありゃ、ブランドだな?」
弘田は、マジックミラー越しに見える男を指さして説明を続けた。
「今から、明日朝までと云う条件なんだが、どうする。あの男三十万出すって言うんだ。お前が嫌なら、誰か他の子を替わりに行かせるが、どうする?」
どうせ此処へ居るのだから、時間が経てば由香里も客を取らされるのだ。早いか遅いかだけの事。それにその客に付いて行けば、一人で済む。此処にいれば、複数を相手にしなければならない。
「解りました。でも店長、私がもし明日、戻らなかったら……警察に行ってくれますか?」
「ああ、もちろんだ。一応念の為に、ヤツから免許証のコピーをもらったから安心してくれ。何かあったら、これを持って警察に行くよ。それにヤツのポルシェのプレート番号も、さっき村田に言って控えたから大丈夫だ なあに、金持ちの世間知らずのボンボンだと俺は思うよ。今日の取り分は六―四でどうだ? 三十万だから、十八万がお前の取り分だ」
「解りました……」
由香里は頷いて弘田の後に付いて行った。由香里は男の前に立ち、ゆっくりとお辞儀して言った。
「蘭です。よろしくお願いします……」
「お客さん、くれぐれも必ず明日連れて来て下さいね。うちの大事な子ですから……お願いしますよ」
店長弘田が男に圧を掛けて念を押す。
「——ああ、解ってるよ。さあ、蘭ちゃん行こうか?」
男は上機嫌で由香里を自分のポルシェの横に乗せると、夜の街へと走り去った。
車の中で由香里は男に尋ねた。これからどうなるのか、不安は隠せない。
私は大丈夫なんだろうか? こんな事って初めてだし……変な事されないんだろうか?……。店長は大丈夫って言ってたけど、怖いんだけど……。どうしよう……。
様子を見て、危なさそうなら、人気の多い所に出来るだけ行って、何か有れば助けを呼ぼうか……。
思わず声が震えてしまう。
「あの~何処行くんですか?」
「う~ん。何処行こうか? お腹減ってないかい? 蘭ちゃん、何か食べたい物がある?」
男は優しく由香里に話した。この男の言葉には不思議と安堵感がある。男の問いに、フッと今朝の鏡に映った自分自身を思いだし、自分の両腕を見た。
やつれている。そうか、数日間あまり食べていなかった。食欲も無いから、健康補助食品のゼリーばかりだった。腕もかなり細くなっている。これじゃあ、ミイラみたい? 無理しても食べないと……。精が付く物と言えば? ……焼肉だ。
「焼き肉が食べたいです……」
「オッ、焼肉か! いいねぇ。じゃあ、まず泊まる所を確保しようか」
暫く市街地を走ると、大きなホテルが見えて来た。この辺りでは高級なホテルだ。
「よし、じゃぁ此処に泊まろう」
エエッ?——こんな高いホテルに泊まるの?
由香里の思いとは裏腹に、男はおもむろに車のハンドルを切って、その大きなホテルの玄関に着けた。
その男と由香里は、ホテルの玄関へ入っていった。ロビーへ入るとその豪華さに二人は驚いた。床は総大理石張り。色々な置物が配置され、見ただけで高価な物だと解ってしまう。シャンデリアがキラキラと輝いて、別世界に来たのかと錯覚さえしてしまう。
「私、ここに来るの、初めてなんです……」
「そうか、実は俺もなんだ……」
少し緊張気味なまま、その男はフロントへ歩いて行った。
フロントでは男が、ホテルスタッフと話をしている。少し後ろから離れた所で見ていても、男の緊張の趣が見える。
大丈夫かしら、あの人? と心配してしまう。
すぐに、ボーイが現れ、二人を案内した。エレベーターに乗って最上階を目指す。地上二十階建て。一番いい部屋だ。
ボーイがドアを開けて、中を案内する。部屋の中は、もの凄く広かった。畳で言えば三十畳はくだらない。フカフカのジュウタンが広い部屋いっぱいに敷き詰められている。キングサイズのベッドに大理石のジャグジー。大きなソファに、大画面のTV。もの凄い装備だ。高いのも頷ける。
ウワッ~凄ご~い。此処に泊まるの? 由香里は呆気にとられていた。
「どうかな? 気に入ってもらえた?」
「すごーい。私、一度で良いからこんな所に泊まってみたかったの……」
由香里は部屋の中を散策している。中々、こんな高級ホテルには泊まれないからだ。しかも、スイートとくれば自慢にもなる。ハシャグ由香里へ、男は声を掛けた。
「じゃぁ、蘭ちゃんメシ食いに行こうか?」
「ハイ……」
二人は部屋を出てエレベータに乗り、ロビーに降りるとタクシーを頼んだ。タクシーに乗ると、焼き肉屋へ目指した。勿論、地元で有名な高級焼肉店だ。
焼き肉屋で二人は腹一杯食べた。特上ヒレ・特上ロース・特上カルビと全てが、特上だった。なかなか特上のオンパレードと言うわけには個人で来ると、そうそう出来ない。この男、かなり奮発している。
「すっごーい。私、特上なんて食べた事ないの。よくて上、特上って柔らかくて美味しいね? これって、お口の中で溶けちゃうけど、これ? 何ていうお肉? 美味しい……」
由香里は一時の至福の時を味わっていた。本当なら、愛する光太郎と一緒なら、最上で幸せの絶頂を迎えていたのかも知れないが、光太郎は亡くなってしまった。ふとそんな想いが頭をよぎると、目頭が熱くなる。
しかし、今は接客中だ。今の目の前の相手は見ず知らずの男だ。
これも、仕事の内か? 自分自身の労働に疑問と悲しみを覚えるが、そんな事を言っている暇と余裕は無い。 相手の機嫌を損なわないようにしなければいけない。この後、どんな事が起きるかも知れない。泊りで客の相手をするなんて初めてだ。不安は隠せない。
しかし、相手の男はこういった事に慣れていないように由香里は見えた。多くの客を相手にしていたので、それなりに観察眼は有る。数分の対応で由香里の緊張も解けていく。
「ああ、そうだね。良かったら、沢山食べてね。今夜は寝かせないよ~」
「もう、ヤダったら~」
しばし、楽しく穏やかな食事の時間が流れた。
やがて二人は、ホテルに戻った。スイートルームのドアを開けて中に入ると、由香里は唇をその男に押し当てていった。急なキスに男は驚いたが、キスをしたまま男は由香里を抱き上げベッドへ運ぶ。やがてベッドに倒れ込むと二人は激しく愛し合った。ハァハァという荒い息とギシギシというベッドの音がスイートルームに響いている。
やがて声と音がしなくなった。男の腕に由香里は抱かれて横たわっている。不意に由香里が話し掛けた。
場を和ませなくては……変な事されたくないし、このまま無事で終わりますように……。
祈るように由香里は取り繕った。
「ねぇ、アナタって何者?」
「白馬に乗った王子様だよ。えへん……ってか無理か?ハハハッ……」
何言ってんのよ、何か成金みたい? 服と時計、車もブランドばっかじゃない……いかにも、って感じがするわ……。
「アハハッ……無理、無理……王子さまはチョッとね。フフフ……でも何処かの、お金持ちさんなんでしょ?」
「違うよ。俺は三日前までサラリーマンだったんだよ」
エエッ~そうなの? でも何か妙? 微妙な違和感が有るんですけど……何かしら妙に自身満々的なモノが漂うんですけど……何だろう? 由香里の観察眼が戸惑う。
「でも、ポルシェに乗ってるし、服はブランド品でしょ?」
「——まあな、……」
もったいぶらないでよ……でも何か引っかかるのよね? 何だろう?
「じゃぁ宝くじが当たったの?」
「まあ、そんな所かな? 会社の退職金でブラブラして自分探しをやってるんだよ」
えっ? 自分探し?……。それって?……。もしかして?……。
「ふぅ~ん、いいなあー……」
この時由香里は何かを感じた。男の言う自分探しと云う言葉がやけに心に引っかかっていた。それは由香里自身が探し求めていた事なのだから……
それから幾度となく、男の方から求めてきた。途中腹が空くと、ルーム・サービスで食事を頼んだ。
朝になると二人は起きて、連れだってこのホテルを後にした。男は由香里を、由香里のマンションへ送って行った。
「蘭ちゃん、夕べはありがとう。まだ早いけど、今日はこれでお別れだ。これ受け取ってくれないかな? 昨夜のお礼だよ」
男は、由香里へ封筒を差し出した。由香里は封筒を受け取り、中身を見た。
うわぁっ——現金だ。十万円ある。
「いいんですか? 貰っても?」
「ああ……店には内緒だよ」
「本当に? ありがとう……又、お店にも来て下いね」
「……」
男は由香里を車から降ろすと、あてもなく車を走らせた。その車の後ろ姿を、由香里はいつまでも見続けていた。由香里の心に何かが芽生えそうな予感を感じていた。
その男と別れて由香里はマンションの自分の部屋に戻った。長い間何かを考えてい
る。そして、おもむろに大きな旅行カバンを取り出すと、着替えの衣類を詰め始めた。
そして、いつも通りの出勤時間の一時間前に、由香里の勤めているソープランドへ行った。従業員専用の裏口から中に入る。中に入ると店長はすでに来て、店長室で日課である帳簿の整理をしている。由香里はまっすぐ店長に会いに行った。重厚なドアを軽く二回叩く。
「コンコン、由香里です。店長居ますか?」
「おう、入れ」
ドア越しに、弘田の声がする。由香里は、ドアを開けて部屋の中に入った。目の前に、相変わらず人相の悪い男が座って居る。帳簿の整理をしていた手を休め、老眼鏡を外し由香里を見た。
「おお、由香里……大丈夫だったか? 昨日の客に変な事、されなかったか?」
「大丈夫です。それより、店長、話があるんです……」
「何だ? どうした?」
「実は……私、この仕事辞めようと思っているんです……」
憂いを帯びた声がこの部屋に静かに響く。硬い決意の態度が由香里の背中を正す。
「そうか? お前の借金はもう完済しているから、お前を束縛する権利は無いからな……いいよ、それで、いつ辞める?」
「今、辞めたいんです……」
「——えっ、て今か? イキナリだな。分かった……。今月分の給料と、ってか昨日の手当てと少しだが俺からの餞別も、明日中に銀行に振り込んでおくよ。それで、今後どうするんだ? 何かあてでも有るのか?」
「……解りません……」
「解らないって、一体どうするんだ? まさか、死ぬ気じゃないんだろうな?」
「……自殺なんかしません……以前の私なら、自殺も考えましたけど……ただ、昨日のお客さんと話をしていると、私は自分が分からなくなったんです。何をどうしたいのか? 分からないんです。これからの人生、私の生きる希望と云うか、打ち込める物を捜したいんです……可笑しいですか?」
「……いや、可笑しいよりも、立派だよ由香里。よくそれに気付いたな。実は俺も、ずっと前からそう思っているんだ。こんな因果な商売やってると、時々どうしようもなく哀しくなる時があるんだよ。でも、今更、金や贅沢なこの環境を捨てられない。俺はどうやら、ゆでガエルになっちまったようだ。……立派だよ、お前は…。もしも何か困ったら、遠慮無く言ってくれ。お前の力になってやるよ」
弘田の言葉が心に響く。外見は体つきも良く、人相は悪い顔をしている。しかし、弘田の言葉は不思議な暖かみを帯びている。
「店長、ありがとうございます……」
由香里は何度も何度もお辞儀をして、部屋から出ていった。
由香里の呪縛が解かれようとしていた。体を売り、対価として金を得る商売。この世界に居れば、体はおろか、心まで汚れ荒んでしまうだろう。一刻も早く辞める事が大事なのだ。
ゼルが言っていた由香里の更なる試練とは一体、何が待ち受けているのだろうか?
由香里は、これからの人生で何を得て何を失うのだろうか?……。
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ここまで読んでいただいてありがとうございます。
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由香里は次話から後半戦となります。ゼルから貰った不思議なカード。そのカードをいつ、どのように、誰の為に使うのでしょうか?
巡り会いとも思える数々の運命の出会い。 安堵する想いに押しかかる負の連鎖。
命を賭けた由香里の強い想い。 寄り添う気持ちに微かな希望の光が垣間見えていく。
はたして、由香里の試練は一体どうなるのか? 衝撃のラストまで、どうぞお楽しみ下さい。
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