2 崩壊の序曲 

「——は、はい……私の名は、井坂由香里いさかゆかりと言います。どうして私が自殺しようとしたのかというと……」


 由香里がゼルの目の前で泣きながら話した内容とは?……。






  ——今から4年前の事。


 由香里は大学生活を満喫していた。一流の大学でなく、親元から通えるごく普通の大学に通っていた。文系を専攻し、テニスとスキーのサークルを二つ兼ねていた。娘を大学へ通わせ、サークルを兼ねると言うことは、親はある程度資産が有ると云うことだ。


 由香里の親は一応社長だ。とは云っても、中小企業での金物製造の社長で、社員も十人しか居ない。だが、職人肌で行う仕事の質は高く評価され、業績も少しずつでは有るが上昇傾向にあった。



 しかし、そんな幸福は長くは続かなかった。 


 ——不幸は突然やってくる。



 由香里が二十歳の時、由香里の父親の兄貴。いうなれば叔父の和夫が不幸を運んで来たのだった。真面目な性格の和夫がいつになく真剣な表情で弟の浩平の家に来た。暗い表情から、何かを思い詰めている気配が伺える。狭いリビングで三十分くらい待たされていると、やがて浩平がやって来た。


「やぁ兄さん、久しぶりだなぁ、みんな元気かい?」


 浩平が喋り終わらない内に和夫はいきなり土下座した。


「——浩平……この通りだ。ワシに金を貸してくれ、頼む、浩平、頼む……」

「チョ、チョット待ってくれ、兄さん。俺の所も新しい設備の支払いがまだだから、そんな余裕が無いんだ。……ホントだよ、もし余裕が有れば幾らかは貸してあげたいけど……」

「——そうか……だったら……」


 和夫は由香里の父である浩平に借金をしに来たのだった。


「——じゃぁ、ここにサインをしてくれ。お前には絶対迷惑を掛けないから……頼む、頼む、浩平……。この通りだ……。お願いだ、ワシを助けると思って……」


 浩平が断ると借金の保証人になってくれと和夫は懇願した。実の兄弟なので浩平は渋々借用書にサインをした。この時に、借金の契約書を熟読していれば、被害は最小限に留めておけたかも知れない。


「頼むよ、何か有っても知らないよ」

「ああ、すまん……お前には絶対迷惑を掛けない。ありがとう……。すまん、恩に着るよ。すまん、浩平……」


 和夫は連帯保証人の欄に書かれた『井坂浩平』という借用書を大事にカバンへ入れると、何度もお辞儀をしながら帰って行った。


 三ヵ月後に和夫の経営する食品会社が倒産してしまった。いわゆる、和夫の経営する会社の直系の得意先が不渡を出したのだ。不渡を出せば決済が降りない。当然、和夫の会社へそのツケが回ってくる。一旦ツケが回って来ると、まるで連鎖反応を起こすかの様に、関連会社も支払いが未納になってくる。


 主な原因は、和夫の経営する食品に大きなクレームが入ったのだ。世に出た食品を自主回収し廃棄する。これだけで、会社にとって大きな損失だ。更に、食品関係ともなれば、信用はガタ落ちになってしまう。生産が出来ない。新しい設備の支払いも出来ない。雇っている社員の給料も、支払えなくなってしまった。会社は倒産するしか無かった。


 しかしながら、弟だけには迷惑を掛けたく無かった。血の繋がった兄弟だけに、顧問弁護士に相談してみたが、どう成るものでも無かった。ただ【連帯保証人】と云う欄に書かれた『井坂浩平』という文字が悲しく浮き上がり、今後の未来を大きく曇らしていた。


 借用書に保証人の名前を記入した事で、由香里の父浩平に債権が移り、浩平の会社も家も手放す羽目になってしまった。


「チクショー、なんで俺がこんな目に……。俺が一体、何したって云うんだ……。あの兄貴の所為で、こんな目に……。折角、此処まで頑張って来たのに、従業員にどう説明したら良いんだ……。俺達、家族は、一体どうなるんだ?……」


 しかし、それでも負債金が足りない為に、銀行はその不良債権を転売してしまった。


 この時、浩平が弁護士に相談し【自己破産】を申告していれば親子離れ離れにはならず、又やり直しが出来たかも知れない。しかし、浩平は法律に詳しくなく精神的に参っていたのでやらなかったのだ。更に不運は続く。不良債権を買い取った会社は、闇金融ガラミの会社だったのだ。


 ある日、奴らがやって来た。黒の大きなセダンタイプの車で乗り付けて来た。人相の悪い男達二人が浩平の家にやってきた。土足で家に上がり込む。


「おい、井坂さんよ~。早く金、返してくれねえかよ? 俺達も困るんだよな~~~」

「そんな事言っても……もう何もないんです……。この家だって、今週中に出て行かないと……」


 力無くそう答えると浩平はうなだれた。工場はおろか家も部屋の中の至る所に、赤紙が張られてある。差し押さえられていない物は、自分の着ている服しか見当たらない。腕時計でさえも取られてしまった。しかし、取り立て屋の男達はいきり立った。


「有るじゃねぇかー肝臓や腎臓は高く売れるって聞いたぜ。なんならその手の闇の業者を紹介してやっても良いんだぜー」

「それだけは、勘弁して下さい……」


 取り立て屋の男達は土足で、家の中を物色し始めた。すると一人の男が洗濯物の中から若い娘の着る様なワンピースを見つけた。男の顔に嫌な笑みが浮かぶ。これはちょっとした拾いものかもしれない。と喜ぶようないやらしい笑みだ。


「有るじゃねぇか? 金目の物が……」


 そう呟くと二階目がけて走って行った。まるで、獲物を狙う獣のように走りだす。二階のドアを片っ端から開けていき、押し入れを開けると探し物が出てきた。


 ついに部屋の奥に隠れていた由香里を見つけだした。


「おい、こっちに来るんだ」

「——いや、やめて~放して~……」

「ウルセッー黙って来い」


 無理矢理、嫌がる由香里の腕を引っ張り下に連れて降りた。


「おい、井坂さんよー有るじゃねえか? カネズルが。この娘は綺麗な顔立ちをしてるから、高く売れそうだな? じゃあ、金の替わりに娘を貰って行くぜ……」

「ちょっと待ってくれ。娘だけは……娘だけは、手を出さないでくれ……」


 すがる浩平に、その男は拳骨を振るった。浩平は顔に痛みを感じたが、それで怯んでいる訳にはいかない。娘を守らなければ……。浩平は倒れたまま気力だけで、その男の足にしがみついた。


「た、頼む……娘、娘だけは……助けてくれ……」

「うぜぇーんだよーオラ。娘が大事なら、金。持ってこい……」


 その男は無惨にも、足にしがみついた浩平に蹴りを数発入れた。ドスッ。鈍い音と共に、その足は浩平の顔面とミゾオチに入る。ミゾオチに衝撃が入ると息が出来なくなる。


「……ウウッ……」


 途端に足にしがみつく力が緩む。浩平はそのまま倒れて動かなくなってしまった。


 その隙を突いて男達は、由香里を家の外まで引きずる様に連れだした。


「助けて———。お父さん———。お母さん~~~…………」


 倒れた父親を見ながら、抵抗を試みるが所詮女だ。大の男二人には叶わない。由香里は引きずられながら、車に無理矢理乗せられてしまった。


 倒れ込んで動かなくなった浩平の横で母親の由美子が座り込んで泣いている。やがて、由香里を乗せたベンツは荒々しく走り去っていった。


 季節は冬。井坂家の内情と同じ、氷付く様な寒い風が吹いていた。



 やがて、由香里はどこかの事務所へ連れていかれ売春を強要された。いわゆる、ソープランドに売られたのだ。そのソープランドの建物の中に寮が在り、一切の外出を許されないでいた。常に見張りがいる軟禁状態。由香里は何度も脱走を試みた。

 

 しかし、見つかるとボコボコになるまで殴られた。殴られる事が恐怖となり、もはや脱走する気が失せ、失意のままソープランドで、源氏名【蘭】として客を取らされ、時が流れていった。


 やがて三ヶ月が経つと自暴自棄になり、もうどうにでもなれ! とさえ思ってしまう。もともと美人であった事と、影のある雰囲気から噂になり評判の売れっ子となっていった。



 そして二年後、由香里は店長の弘田に呼ばれた。建物の一番奥にある重厚なドアを開けると、体格が良く人相の悪い男が椅子に座って待っていた。


 部屋の中に通され、由香里は椅子に座る様に促された。由香里が椅子に座ると、弘田がユックリ話し出した。


「由香里、もうこの二年で十分借金は金利を付けて返してもらった。本来なら億単価な借金など返す事など無理だったんがな……。しかし、お前の親父さんの会社の土地の相場が結構上がってな、転売して結構な金額になったんだ。だから、これから先はお前次第だ。このままこの店で働くのも良し、嫌なら辞めて何処にでも行くがいいだろう。しかし、よく考えてほしい。お前はこの二年間で借金を二千万返した計算になる。ここで我慢して働けば、かなりのお金を稼ぐ事が出来るが、どうする? 今後一切拘束はしないが……」


 優しさを含んだ弘田の言葉が、やけに心に響いた。この世界に入ってから、見ず知らずの他人との性交渉を強要されてきた。その事で、人を信じる事を忘れてしまった。金、金、金。お金は裏切らない。由香里の心は大きく荒んでしまっている。弘田の問いに間を開けながらも、由香里は答えた。


「もう少しの間お世話になります。よろしくお願いします……」


 そう言って、お辞儀をした。弘田は内心ホッとした様だ。初め由香里を見て、【かわいそうな子だ】と思っていたし、弘田好みでもある。しかしながらこの業界、同情はもってのほかだ。うかうかしていると寝首を掻かれる事もある。


 由香里の返事を聞いて、弘田は知り合いのマンションを紹介した。マンションと云っても広いワンルームだ。仕度金と云って百万円を貰い、生活必需品を買い揃えた。久々の外出に由香里の心はときめいた。この一年間は一歩も外に出ていない。軟禁状態だったから、自分は自由だ。とさえ感じた。本来なら、これが当たり前なのだが、借金のかたに体を売っている由香里には、少なからずそう感じていた。軟禁から開放されると心に余裕を感じてしまう。しかし、店に来るとやはり憂鬱ゆううつになる。好きでもない相手に抱かれる嫌悪感は捨てきれないでいた。世の中全て金、金、金。その文字と月収百万円は絶えず頭の中で葛藤していた。私は、本当にこれで、良いのだろうか?……。いつまでこの生活を続けるのだろうか?……。


 半年経ったある日。由香里は同僚の久美からホストクラブへ誘われた。たまには、気晴らしでもしよう。と思い久美に付いていった。店を休めない為、仕事が終わった深夜に久美とホストクラブへ出掛けた。


 店に入ると、大勢のいわゆるイケメン軍団が出迎えてくれた。誘われるまま、テーブルに着き、愉快な話で場を盛り上げてくれる。酒が入ると甘いムードで酔いしれる。


 いつしか由香里もホストクラブにハマってしまった。この店No,1の「翔也」に入れ込み出した。翔也に高級時計やブランド服、高額な物を買い与えた。しかし、それだけなのだ。翔也はもっと高い物を欲しがるし、頻繁に店に来るように、甘いムードと言葉で要求する。シャンパン一本で十数万請求される。とんだ、ボッタくりだ。


 しかし、いくら由香里がソープランド嬢の高給取りでも、金が追い付かなくなってしまう。日に日に貯金の残高が減ってきた。


 そんな由香里に追い討ちを掛ける日がやって来た。ある日の午前中、由香里がデパートで買い物をしていると、翔也を見かけた。よく見ると側に女をはべらしている。

 更にその女をよく見ると、同僚の久美だった。怒り心頭に達して、二人を追いかけるが、デパートは人ごみが多く、見失ってしまった。


 いつもより早めに店に行き、久美を捜してみた。しかし居ない。いつもなら、もう店に来ているはずなのに……。

 久美のロッカーを開けてみた。ロッカーの中はカラッポだった。店長の弘田に久美の事を聞いてみた。すると、


「久美なら、二日前に辞めた。みんなには、内緒にして於いてほしい」


 との事だった。おかしい? 何かが変だ。直感的に由香里は感じたが、確かめる術は無い。後は翔也に聞くしかない。焦る気持ちを押さえ、仕事が終わるのをただひたすら待った。時間が長く重く感じてしまう。


 仕事が終わるとタクシーを呼んで、ホストクラブへ直行した。慌ただしく店に入り、翔也を捜す。しかし、居ない。他のホストに聞くと、昨日付けでこの店を辞めた。と聞かされた。


 やられた。由香里はそう思った。しかし、由香里の損失は高級時計とブランド服などだった。現金は失っていないのが幸いだ。力無くソファに座ると、向こうの席で何か女が騒いでいる。聞き耳を立てて見ると、由香里同様に翔也にみつがされた女が騒いでいる様だ。私だけでは無いのか? ふとそう思うと、自分の愚かさに気が付き可笑しくなってしまう。やはり、人は信じられないのか? 信じられる物はやはり金だけか? 悔し涙を流しながら、アハハと笑いながら店を出た。所詮、ホストだ。このお水の世界では当たり前な事だ。解ってはいるが、やはり由香里は普通の幸せな生い立ちを送っていない。金の事で自らの体を売っている。信じられる物は金しかない。

 そんな中でも、やはり人恋しくなってくる。嘘だ。と解っていても、頼りたくなってしまう。


 店を出ると外は雨が降っていた。傘も無くタクシーにも乗らず、由香里は濡れながら歩いて帰る事にした。頭からつま先までびしょ濡れになる事で、自分を戒めるつもりだったのかも知れない。そうする事で涙を隠す事も出来る。


 深夜の雨は冷たい。由香里の荒んで、傷ついた心を更にかたくなにするように降っていた……。シトシトといつまでも降っていた……。








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