2 誘惑


 ——今から二年半前の事だった。



 恒例の飲み会。新入社員歓迎会&花見と称して会社の飲み会が行われる。花見と言ってもワザワザ桜を見に行かず、居酒屋を貸し切って行う只の飲み会。


 今回の飲み会は、当時景気が大幅に良かった為、大いに盛り上がった。会社の仲間達は酒を浴びるように飲み、酔っぱらってしまった。当然、泰三も酔っている。


 やがて一次会の会計が終わり、会社の仲間達は店の外に出た。家に帰る者、次に行く者とグループが分かれる。泰三はどうしようかと迷っていると、泰三に声を掛ける者がいた。


「先輩、次、次に行きましょう。……おれ、いい店、知ってますから……」


 泰三の一年後輩の佐藤だ。佐藤とは妙に気が合う。


「よし、じゃぁ行こう……」


 おぼつかない酔った千鳥足で二人は店を目指した。数分間歩くとネオン街が開けてくる。


「——先輩、ここ、ここです……」


 佐藤に連れて来られた店の看板を、泰三は見上げた。暗闇に一際目立つネオンが浮かび上がる。妖しげな店の名前が夜の闇に浮き上がっている。


「ナイト・ドール? って此処はキャバクラじゃないか? 俺、キャバクラ入った事ないんだけど。ここはオサワリ駄目なんだろ? どうせ行くなら、ピンク系がいいな」

「先輩、ピンク・パブじゃぁないんだから、触ると怒られちゃいますよ~。……たまには、違う処に行くのも良いじゃないっすか。ここは可愛い子が、いっぱいいますから……。さあさあ、入った、入った……」


 佐藤に背中を押され、共に店の中に入る。辺りを見回すと、部屋の中は豪華で薄暗い。二人がけのソファと小さいテーブルが幾つも整列されているが、オープン間近なのか、客はまばらだ。泰三は店員に促されてソファに座っていると、すぐに女の子がやって来た。さすがに早い。


「こんばんわ~加奈かなで~す。よろしくね♡」


 スレンダーで、胸元まで届くレイヤー部分を縦ロールにしている。瞳は二重まぶたで大きく、やや垂れ目。更に表情は屈託のない笑顔。まさに泰三の理想。まるで天使の笑顔に見えた。泰三は一瞬で心を奪われた。まさに天にも昇る思い。酒を飲みながら十分ぐらい世間話をしていると加奈を指名する声が入る。


「ゴメンね、指名入ちゃった。又ね……」


 加奈はそう言って立ち上がると、泰三に軽い会釈をして、店のドアに近いテーブルへと移って行った。泰三が呆気に取られていると、すぐ次の女の子がやって来た。


「こんばんわーエリで~す♡」


 この子も可愛いが、先程の加奈に比べるとどうしても見劣りしてしまう。エリと話をしているが泰三の心はここには無かった。向こうのテーブルに移った加奈を無意識に泰三の目が追いかけていた。心、ここに在らず。といった状態だ。


 そうこうしている内に、泰三は佐藤に肩をたたかれた。


「せんぱ~い、時間が来たし、俺、気持ち悪くなっちゃったから、そろそろ帰りますよ~……」

「あ、ああ、そうか……じゃあ俺も帰るよ」


 加奈の事は気になるが、泰三は席を立ち、店を出ようとした。もう少し残って居たかったが仕方がない。財布の中身も微妙な感じだ。後ろ髪を引かれる様な思いで会計を済ました。店のドアの前で、先程の加奈とすれ違う。加奈は泰三に会釈をして言った。勿論、社交辞令の決まり文句だ。


「又、来てね♡——」

「——ああ……」


 加奈に見とれる泰三の腕を引っ張って、佐藤は泰三と外に出た。フラフラと道に出て、タクシーを拾う。まずは佐藤を自宅へ送り、泰三も自分のアパートへ帰って行った。


 自宅に帰っても誰も居ない。未婚だし、先月彼女と別れてしまったから誰も待っていない。暗く寂しい部屋に上がり、照明を付ける。おもむろに上着を脱ぎ、ベッドに横たわると、見上げた天井の照明が儚く思え、ため息が出る。


「——ふぅ……それにしても、あの加奈って子、滅茶苦茶可愛いかったなあ……」


 これが、泰三の不幸の始まりだったのかも知れない……。







 翌朝、泰三は頭痛で目覚めた。夕べの飲み会で大量の酒を浴びるように飲んだからだ。酒は弱い方ではないが、いささか飲みすぎたみたいだ。


「——うーん……。頭が痛い……。今日は会社が休みだから、ゆっくり休もう……」


 そう言って泰三は頭痛薬を飲むと、再びベッドに横たわった。


 昼過ぎまで眠ると体調も回復する。残業続きで体も幾分か疲れていたようだ。昼過ぎに目覚めても、体がだるい。精神的にだるい。泰三は、暫くベッドの上でボーっとしていた。


 何も考える事なく、只天井を眺めていた。 


 ——グ~ッ……。


 途端にお腹が鳴った。今は午後二時前になっていた。朝も昼もまだ何も食べていない。泰三はゆっくり起き上がって、重たい体を引きずりながら冷蔵庫を開けた。四角い箱の中には何も入っていない。空っぽだ。最近は外食ばかりで何も残っていなかった。近所の行きつけの、勿論安くて美味い定食屋に通っていたから買い物もろくにしていない。オカズを作るのは苦にならないが、食器を洗うのが面倒なのだ。


「——しょうがない、又、外に食べに行こう……」


 空っぽの冷蔵庫を閉めて、服を着替え外に出た。外を見上げると爽やかな青空が何処までも続いている。新緑の微かな香りに思わず深呼吸をしてみる。

 二日酔いの湿った心と肺に、爽やかな風が入り込んで来た。少しばかりリフレッシュした気分だ。


「さあ、飯でも食うか?」


 独り言を呟きながら、いつもの定食屋へ行き、遅い昼飯を一人寂しく食べた。


 食後あてもなく商店街をブラブラ歩いていると、パチンコ屋から人の出入りするドアが開く度に、軽快な音楽が自然と耳に入って来た。この公的な賭博場だけは世の中と違い、不景気は関係ないのだろう。闘争心をあおるようでもあり、騒がしい。


「そうだ、佐藤のヤツ、“パチンコで三万儲けた”って言ってたな、久しぶりに俺も行ってみよう」


 泰三はパチンコ屋のドアを開けた。パチンコは久しぶりだ。もともと賭博の才能はないほうだ。あまり勝てないのでしばらくやっていない。店の中をウロウロして台を決め、両替したお金で玉を交換しハンドルを握った。


「頼むよ~いっぱい出てよ~~今月は苦しいんだからさー……」


パチンコ台のハンドルを持つ手に力が入る。泰三はパチンコに集中した……。






 ——数時間が経ち、泰三はパチンコ屋を後にした。時は夕暮れ時。



「ハッハッハッ、今日はラッキーだったな。まさか、千円が八万円になるなんて……笑いが止まんねぇや~」


 泰三は気分が良かった。久々の短時間での大勝利。今日の勝利の為に祝杯をあげたくなった。数時間前までは、二日酔いで疲れ果てていたはずなのに。人の心理というか感情は不思議なものだ。大金が入ると心が浮き浮きしてくる。


 泰三は一人居酒屋に入り祝杯をあげた。ビールを飲み、普段食べる事は無い高級な物を腹一杯堪能した。高級と云っても、たかが居酒屋なので値段は知れている。

 いささか酒の量が弾むと気持ちが大きくなる。このまま自分の部屋に帰るには、何だか忍びない気分に思えてきた。一人身は寂しい。帰っても誰も居ない。


 その時、昨日行った「ナイト・ドールの加奈」の事を不意に思い出した。


「加奈ちゃんに会いに行ってみるか?」


 泰三の懐は、パチンコに勝って暖かい。それに酒に酔っている為に気が大きくなっている。通りに出て滅多に使うことの無いタクシーを拾い、店を目指した。


 店に着き、ドアを開けて中に入る。この店は前金制だ。六十分・五千円と良心的だ。時間オーバーに成ったら帰りに時間オーバー分の料金を精算する。カラオケは有りで、飲み放題で、時間が経つと店のボーイが知らせてくれる。入店料金が良心的である為か、今晩も結構流行っている。客層も若い二十代~六十代と幅広い。


 しかしながら、指名料金は一回千円だ。一回の指名で三十分側にいてくれるが、時間が経つと席を立ってしまう。女の子が酒をねだると、客払いとなるし、別にボトルをキープすると別料金が発生してしまう。カラオケ代も別料金だ。フルーツの盛り合わせ、なんて頼んだら時価を請求されてしまうから要注意だ。落とし所はちゃんと用意されている。このシステムで結構な金が落ちていく。


 泰三は、前金を払いソファに座った。すると加奈がやって来た。指名したので早い。

 

「こんばんわ~加奈で~す。あれ? あれれれれっ?……お客さん確か、昨晩もいらしてなかったですか?~」


 満面の笑顔で泰三に話し掛ける。泰三は嬉しくなり笑顔で返す。


「いや~加奈ちゃんに会いたくなっちゃって今晩も来ちゃったよ」

「やった~うれし~い♡」


 会話が弾む為か、時間がアッと云う間に過ぎる。しかし人気がある為か、加奈は時々居なくなった。泰三はその度に指名をし、加奈を呼び戻す。そうこうしている内に、閉店の時間となった。泰三は渋々店を出る事となった。


 閉店時には、残った客を店の女の子が総動員で見送りしてくれる。店のドアに続く通路を女の子が両脇に並び、その間を客が通って外に出る。泰三もその花道を通る。女の子達がしきりに手を振ってお礼の言葉を掛けてくる。


「ありがとうございました~♡」

「又来て下さいね~♡」


 誰でもいい気分になってしまう。又、来ようという気になってしまう。


 ドアを出た泰三はドアの外に加奈が居るのに気付いた。


「泰ちゃん~又、来てね~♡」


 た、た、たいちゃんだって? その一言に泰三は舞い上がった。


「——加奈ちゃん、又来るよ……」


 何度も振り返り、手を振りながら泰三は帰っていった。通りに出て、タクシーを拾い自宅に帰るまで泰三は思った。


 あの子、ヒョッとして俺に気が有るんじゃあ?……。


 泰三の財布の残金は三万円しかなかった。 アレ? こんなに使ったっけ?







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