#8 神の眼をひらく花(3)
ロアナは一度寝室を出ていき、それから小ぶりな木箱を両手に抱えて戻ってきた。全面に幾何学模様が彫られていて、ただの入れ物ではなさそうだ。
そのまま机の上に置き、ぱかっと蓋をひらく。内側は道具入れのように仕切られていて、用途のわからない道具がおままごとの実験セットみたいに丁寧にしまってあった。
「それがモイヤピア?」と俺は尋ねた。
「そう、この花。綺麗でしょう」
ロアナは箱の内側にあったガラスの小瓶を持ち上げてみせる。中には乾燥した深い紺色の花びららしきものがいくらか入っている。神の眼などと呼ばれるドラッグにしてはちょっと平凡な印象だ。
「と言っても、これは博士が作ったモイヤピアもどきなの。本物はカメの頭に生える花なんだって。南の島に住んでる、千年も生きるでっかいカメ。それで鳥をおびき寄せて狩りをするらしいよ。でもそんなの簡単には手に入らないもんね」
何かと思えば、またセオ博士得意の模造品だ。彼はいったいどうやってそんなにぽんぽんと商品を生み出すんだろう。異世界転生の見えざるご都合主義が働いているのか、それともこの世界でも学問としての化学は発展しているのだろうか。ユイとセオを会わせたら、きっと密造トークで大いに盛り上がるに違いない。
「ねえ、セオ博士って何者なの? お姉ちゃんの友達?」
直球でそう尋ねると、ロアナは一瞬口をつぐんだ。
「……あの人は良い人よ。それは本当。善人とか悪人とかじゃなく、とにかく素直だし真面目なの。たぶん誰よりも、私よりもね。でも友達じゃあないかな。昔からの仲だけど、あの人が何を考えてるのかはいつもわからないのよね」
「ふうん。今日行ったときはすごく優しかったよ」
それを聞くとロアナは目を細めて嬉しそうに笑った。好きな人を褒められたみたいな顔だった。
「でしょう? それはきっと嘘じゃないよ。セオは優しい人だし、リクのことも小さいころから気に入ってるもの。だから仲良くしてあげてね。もちろんニニィちゃんもね」
「うん、わかった。いろいろ助けて貰ったし」
「ふふ。記憶が無いままのほうが素直でいい子なんじゃない? じゃ、そろそろ始めよっか」
*
さっそくいくつかの道具が箱から取り出されテーブルに並んだ。コーンパイプみたいなかたちをした筒、黒っぽい金属の棒、水色に光る小さな鉱石、そして濃紺の花びら。箱には掃除用らしきブラシなんかもまだ残っている。
喫煙具一式のようだが、どれも見慣れない意匠と美しい装飾が施されていて、遊びというよりはむしろ儀式に使う神聖な道具みたいに見えた。ここではモイヤピアは文字通り神への信仰の一部として扱われているのだろうか。俺がいた世界でも、伝統的な宗教儀式の一環として薬物を使う例はけっこうあった。
ロアナはさっそく瓶からモイヤピアの花びらを取り出し、手で細かくちぎってパイプの火皿に詰めてゆく。そうしてぎゅっと指先で押し固めると、パイプを俺に差し出した。
「はい、どうぞ」
もうこれだけで準備はできたらしい。煙を吸うのには慣れているからやや拍子抜けする。
「どうすればいいの?」
「火をつけるから、ゆっくり吸って。そうして祈るの。起きるすべてのことを見渡して、そこに何があるのかをよく見ようと願いなさい」
祈りを捧げたことなんて生まれてこのかた一度もないが、まあいい。儀式の口上みたいなものだろう。パイプの吸い口を軽く咥える。目の前の火皿にはモイヤピアの紺色の花びらが盛られている。とても神様には見えない。
「じゃあ、始めるね。効いてきたらベッドに寝転んでもいいからね」
ロアナはテーブルから黒っぽい金属の棒と青い鉱石を両手にとった。そうしてそれらをパイプの先端に持ってゆき、こつんと軽くぶつけ合わせた。その瞬間、赤い火花がぱちっとはじけて、火皿の花びらに炎が移った。
予想外の着火方法にびっくりしてパイプを落としかけたが、慌てずゆっくり息を吸い込んでいく。煙はそれほどからくない。紅茶やフルーツみたいな甘い香りだ。
しばらく肺に溜めて、白い煙を宙にふうっと吹き出す。なんだか既視感を覚えた。そうだ、俺がここへやってきたときもこんな感じだった。もうずいぶん昔のことみたいな気がした。ユイの作った物質が見せる幻覚世界、その内側で俺はさらに神に逢おうとしている……この入れ子構造はどこまで続くのだろう? もうここまできたら行けるところまで行くしかない。祈りのかわりに覚悟を捧げ、神との邂逅が始まるのを待つ。
視界に変化は現れない。幻聴も聞こえない。部屋の様子はそのままだ。ロアナが目を細めて優しく尋ねる。
「どう、わかる?」
「まだあんまり。これ、量は……」
彼はそこまで言いかけて気がついた。そうして自分の身へ何が起きているのかを直感的に理解した。
いま、まさにいま、その眼がひらいたのだ。彼自身に何か変わったところはない。知覚は正常だ。思考も記憶もしっかりしている。しかし、ある一点だけが、もはや完全に違っている。
リクはいま平等な視点からすべてを見渡していた。考えるまでもなくわかった。その根拠は、まさにいま、この世界がこのように見えていることそのものだ、と彼は考えた。リクはリクのままで、ロアナはロアナのままここにいる。しかし彼らとは別に、いまこの視点に立つ者、すべてを見渡す超越した眼がここにたしかにあるじゃないか……
これこそが、神の眼なのか? 想像していたよりずいぶん冷ややかだ、とリクは驚いた。すべてを包み込む神だなんてとんでもない、この眼はただ見るだけじゃないか。こいつはリクに何もしない。いや、誰にも、何にも決して触れようとしない。ただ見るだけだ。
だからこそこれが神の眼なんだとリクは納得もした。彼にとっていまリクとは自分でありながら、しかし唯一の自分ではない……リクもロアナも、遠く離れたセオやニニィやユイをも、平等なものとして見つめる静かな眼が、いまここには確実にある。リクはそれを経由して世界を見ている。そうでなければこのすべてが起こらないような眼が確かにそこにある! ほら、それ! いま見ているその眼だ!
「これが……そうなのか」とリクは圧倒されて呟いた。ひどく混乱してはいるものの、彼の頭はごくふつうに動いていた。彼は自分の手を目の前にかざした。間違いなくこれは俺の手だ、俺の手だと思うのも俺だ、でも、それを見ているこの眼は違うところにある……
「ふふ。それがこの世界のあるべき姿。私はただ私であるだけじゃだめなの。すべてを見渡す眼、それが唯一で絶対の根本原理。いま、あなたにもわかるでしょう?」
ロアナはそう述べると、パイプを口だけで咥え、両手で器用にさっきの道具を使って火皿のモイヤピアへ着火した。そのままゆっくり煙を吸い込んで吐き出す。
リクはその様子を隣で見ている。神のこの眼は、リクが見ているということをも見ている。もっとも背後に立つ者の視点。これを神と呼ぶのが適切かどうか彼には判断できなかったが、しかし、すべてを抉り出す超越した眼がここにあることは認めざるを得ない。それがなければ、いまこのすべての出来事は起きてさえいないのだから。
そうして、リクはまたひとつ新しい失望を感じた。
「ああ……でも、やっぱり逃れられないんだ。俺が俺じゃなくなってさえ、神でさえ、やっぱりこの眼からは……」
彼は断片的にそう呟いてベッドへ仰向けになった。ついさっき発作的に覚えた恐怖、自分が自分自身の内側に閉じ込められているというあの恐ろしい感覚は、神の立場をもってしても打ち消せないのだと気がついてしまったのだ。
リクはいまリクでありながら、同時にこの眼ですべてを見渡している。しかし、この眼もやはりこの眼に閉じ込められている……いますべてを見るこの神なる何者かの眼さえ、やはり同じく囚われの身に過ぎないじゃないか! ほら、いま、いまこの世界を見ているその眼! これさえ閉じ込められているんだ、それは神さえ逃れられない運命なんだ。ただひとつの眼がこの眼である、というところからすべてが始まり、始まったときにはすでにすべてがその中に閉じ込められているんだ……
目をつぶって布団に沈み込んだリクは、眠りに落ちるまでのあいだ、姉がとなりで静かに語りかけるのをぼんやりと聞いていた。
「人生には、悲しいできごともたくさんあるでしょう? でもね、それはこの私が悲しむべきことではないの。すべては神様がただ見てるだけ。いまだって、ほら、このすべてを神様が見ているのがわかるでしょう、そうでなくちゃここには何もないんだから。だから私は余計なことを考えるのをやめて、モイヤピアの助けを借りてただそれを眺めるの。私がどうあるべきかを確かめるために眼を借りるの。そうしてこの世界の正しい登場人物になりたい。お姉ちゃんがここに存在する理由は、ただそれだけだから」
俺の人生は、キマりすぎた勇者が見た幻覚だったらしい。 川口那央 @namokw
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