#7 神の眼をひらく花(2)

 とりあえずご飯食べよっか、とロアナが沈黙を破った。ニニィが帰ってしまったいま、お世辞にも広いとは言えない部屋で俺は所在無げに硬い木の椅子へ座り込んでいた。


 同じくテーブルを挟んで向かいの椅子に座っているロアナという人物が、この世界での姉だということは文脈的には理解できたものの、俺からしてみればそんなの関係なくただの初対面の女性なのだ。元来コミュニケーション能力に難ありの俺が、ましてや共通の話題さえ無いのに気楽な会話などできるはずもなく、ただ相手の出方を窺って座して待つしかなかった。


 とはいえ、食事の誘いを聞いて初めて自分が空腹だということに気がついた。意識するとたちまち腹が減ってきて空っぽの胃がまぬけな音を鳴らす。


「ふふ、すぐ作るからね」


「あの、なんか手伝いましょ……手伝おっか」


 姉と弟という立場を意識して、あえて砕けた口調で自然にそう尋ねる。しかしロアナは微笑して首を横に振った。


「ううん、いいの。もう準備はだいたい済んでるから、座ってて」


「でも……」


「いいから、座ってて。いちおう病み上がりだし安静にしておかなきゃ。それにリク、料理なんてしたことないじゃない。なんだか急に良い子になったみたいね?」


 いたずらっぽい微笑を残してロアナは台所へ向かった。子供扱いされるみたいで恥ずかしかったけど、生きているうちに年上のきょうだいに甘えるという体験ができるとは思っていなかったのでなんだか嬉しくもあった。


 鼻歌交じりで夕食の支度をするそのうしろ姿と、いくつかのランプに淡く照らされた室内を眺めて待つ。俺が現実でひとり暮らししていた部屋と同じくらいの広さで、決して裕福な生活でないことは明らかだが、それでも手入れは行き届いていてみすぼらしくはない。すっかり紺色になった窓の手前には瓶に差した小さな花が活けられており、貧乏であれ豊かな生活を目指すロアナの健気さを窺わせた。


 部屋をじろじろ見回していると、ロアナが「できたよお」と間延びした声をあげた。正直に言ってどんなぶっ飛んだ異世界の郷土料理が出るかと内心慄いていたのだが、手際よくテーブルに並べられたのは硬いパンと野性味あふれる肉のソテー(小さめ)、豆や野菜がたっぷりのスープだった。質素ではあるがきちんとした食事だ。味付けも上品ですごく美味しい。魔物の多いこの世界では食糧事情はそれほど大きな問題ではないのだろうか? 何の肉なのかまではわからないが、今はあまり詳しく考えないことにする。


 ともかく、ゴブリンの目玉煮なんかじゃなかったことにひと安心し食欲に任せてがっついていると、ロアナがじっと見つめていることにふと気がついた。まるで昔から家族だったみたいな錯覚を起こすほど、その瞳は優しく慈愛に満ちていた。そのとき初めてロアナが俺の本物の母親に似ているのだと気がついた。



 眠れずにいた。眠れるはずがなかった。スマホもゲームも無いこの世界で夜を過ごす方法など思いつかない現代っ子の俺は、ひとつしかない寝室へ早めに逃げ込んでふたつあるベッドの片方に潜り込んだはいいものの、ランプと月明かりの頼りない灯りの中で奇妙な不安がどんどん膨れ上がっていた。眠気はあるものの不安がそれを追い越した。まさにその眠気こそ不安の原因でもあった。


 つまり、俺はいま姉ことロアナの作ったおいしい夕食を摂って、満腹で、うとうとしている。それだけならべつにおかしいことはない、むしろ満たされているくらいだ。


 でも、と俺は頭を振る。ここは幻覚世界じゃないか。ユイが作った物質を吸ってトリップしているんだ。そうだろ? 


 頭ではわかっていてもこの肉体がそれを激しく否定していた。


 いま俺は、明らかにここに生きている。すべての知覚がそれを証明している。誰がなんと言おうが、この眠気も満腹感も本当にここにある。もしそれを否定するのならかつて居た現実世界もやはり偽物の世界じゃないか。いや、いっそそれならそれで構わないんだ、もともと現実世界さえ疑っていたし飽き飽きしていたのだから。だから俺とユイはそこからの脱出を図ったのだから。


 いま俺を悩ませる新たな問題はただひとつ、それは「俺が俺でないような在りかたがあり得るのか」という一点だった。


 小さいころから抱えていた重大な疑問、世界に閉じ込められていて出られないという圧迫感。実はそれは大きな誤りだったんじゃないか……


 つまり、俺がどこまで脱出しようと、世界がどんなふうに変容しようと、それを見るこの俺が俺である限り結局何も変わっていないじゃないか。俺が閉じ込められているのは世界ではなく、むしろこの俺の中にじゃないか! だとしたらもはやどこまで行っても逃げられないだろう……いや、それを解決する方法はただひとつだけある。


 俺の俺自身からの脱出。すなわち、死ぬことだった。


 思わずがばっと起き上がる。大きく息をつく。死、死だ。LSDやらキノコやらで自我の死など何度も体験したが、それを自我の死だと理解できるのは結局いま生きているからだ。だからそれは本当の死じゃない。死は死ななきゃわからない。


 どうすればいいのかも、どうするべきかも分からないが、ともかく俺はこの俺をひとまず繋ぎ留めておく必要がある気がした。そうでもしないとおかしくなりそうだった。寝室の端にある小さな机で、勝手に紙切れとペンとひっつかんで、俺はこれまでの人生を書き留めていく。


 紙一枚に収まるほどのそれを書き終えてしまうと、どうしようもない虚脱感に襲われた。思い返せば現実世界でのことなどあまり覚えていない。ここ三、四年は非生産的で怠惰な生活をしていたし、大麻やら向精神薬のせいで記憶そのものが曖昧だ。もしかすると俺は本当に龍の肝でどうにかなってしまった可愛そうな勇者の少年なのか。それならそれでもこの際いい、ともかくいまある現実と俺自身を繋ぎ合わせて固定する必要がある、ああ、ちょっと落ち着かなきゃ……


 がちゃりと扉の開く音がして俺は椅子から飛び上がりそうになった。振り返るとロアナが寝室に入ってきたところだった。


「ごめんね、驚かせちゃった? ……眠れないの?」


「うん、まあ……ちょっと混乱してて、わからなくなってて」


 ロアナは長いまつげを伏せ、記憶を失ってしまった可愛そうな弟を心底気の毒に思っているようだった。そうしてすぐそばまで寄ってきて、柔らかくひんやりした小さい手を俺の手にそっと重ねた。自分の手が震えていることに気がついた。何が怖いのかもよくわからない。


「ほんとはね、お姉ちゃんずっと心配してたんだ。勇者の試験に合格して、名誉あることだしお給料だって貰える。でもそのためにリクが無理してるんじゃないかなって。そりゃお馬鹿……成績はあんまり良くないかもしれないけど、それでも必死に付いていくために頑張ったんだもんね。ありがとう、ごめんね」


 それはまったく身に覚えのない感謝と謝罪ではあったけど、ロアナの言葉に嘘がないのもわかった。だから俺は否定も肯定もせずただ頷いた。


「もしお父さんとお母さんが生きてたら……でもこんなの今さら言っても仕方ないもんね。お姉ちゃんはずっとお祈りしてるから。神様に会って、見守って貰えるようにお願いして、役目を自覚してしっかり果たすからね」


 ふいに話の雲行きが怪しくなり始めたのがわかった。経験上、いきなり神様がどうこう言い始める奴なんてだいたいろくなもんじゃない。この世界にも宗教はあるんだろうか? 帰り道でニニィがぽろっとこぼした警告を思い出す。姉の言うことは信じるな……


「……神様?」


「そう。誰もが逢うことのできる、誰もが持っている、たったひとりの神様。でもね、教えてあげられない。それは自分で見るしかないの。意味がわからないかもしれないけど、そうなの。その眼で見なきゃわからない、でも、見れば絶対にわかるから」


「じゃあ、見せてよ」


 俺はほとんど反射的に答えていた。無性に腹が立ってもいた。元の世界でも神なる存在への信仰はありふれたものだったが、俺は一度も信じられたことがないし信じようと思ったこともない。彼らはそれがただ『居る』とだけ言うが、本当にそんな存在がいるなら見せてほしい、そうして俺が閉じ込められているこの場所から、この俺自身の内側から、救い出してくれるというのなら、ぜひとも会って教えてもらおうじゃないか。


 突然の提案にロアナはひどく驚いたようで、どこか眠たげな瞳と柔らかそうな唇を大きくひらき、それからほっと息をついた。


「……びっくりしちゃった。いままでリクがそんなふうに言ったことなんて、いや、むしろ嫌がってたのに。覚えて、ないんだもんね」


「記憶喪失のことは気にしなくていい、これはいま俺がやりたいからやることだ。ほら、俺に神様とやらを早く見せてよ」


「……わかったわ。モイヤピアが、ちょうどあと二回分だけ残ってるから」


 モイヤピア。セオが売る主力商品、神の眼と呼ばれるドラッグ。どうやらそれが神に逢うための必須アイテムらしい。

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