#6 神の眼をひらく花 (1)

「ほらちょっと急いでよ、門が閉まる前に帰らないとだめなの!」


 紫色の混じり始めた夕空を見上げ、ニニィは歩みを早めた。


 この街は外周部がレンガ作りの城壁に囲まれており、あちこちにいくつか門が設けられているらしい。このあたりに魔物は多くないとセオは言っていたが、やはり多少は警備する必要があるようだ。


 俺たちはちょうどその門のひとつを抜けて都市内部へ入ったところだった。門の左右に監視員らしき兵士が二人立っていたが、特に検査を受ける必要はなかった。子供だからその必要がないのか、日中の出入りは自由なのかもしれない。


「抜け道もあるんだけどね。でも衛兵にばれたら面倒だからさ」


「ふうん。いろいろ大変なんだな」


 夕暮れの街はそれなりに賑わっており、買い物帰りらしい女性がきゃあきゃあと騒ぐ子供の手を引き、軒先では老人が暇そうに煙草のような何かをふかす。活気にあふれつつどこか物寂しいこの夕方特有の雰囲気は俺のいた世界とあまり変わらないみたいだ。


 とはいえ建物や人々の服装、それに都市の構造はやはりずいぶん異なっている。正確な時代考証なんて考えたこともないから知らないが、まさにゲームや映画で見たような想像通りの中世ファンタジー世界そのものだった。


「ねえ、よかったら今度街を案内してよ。見たことないものばっかりだ」


 俺は店先のとげとげした果物とか脚の生えた魚とか武器屋らしき看板を見つけて感動しながら聞いた。ニニィは呆れたようにため息を付く。


「のんきなこと言ってないでよ、時間ないんだってば。ていうかさあ、本当になんにもわからないんだね。明日から大丈夫?」


「うーん、きっと大丈夫じゃないだろうな。どうすりゃいいのかさっぱり。昨日まで何やってたのかも覚えてないし」


 はっきり言って、これからどうすればいいのかまったくわからない。そもそも勇者ってどこで何をやるんだろう? さっきセオにもう少し詳しく聞いておくべきだったかもしれないが、それ以前の問題だ。俺はまだこの世界そのものに納得できていない。その根源的な疑問と不安が再び浮上してきたことによって、タヤの実の効果が切れ始めていることもわかった。


「ふうん。ま、どうしてもって言うならわたしが教えてあげてもいいよ」とニニィは尖った小さな鼻をつんとあげて、丸眼鏡のつるをくいっと押し上げる。猫耳がぴくぴくと揺れる。


「うん、よろしく」


「ちゃんとお願いしてくれないとやだね」


「……ご迷惑をおかけしますが、何卒よろしくお願いいたします」


 口だけはできるだけ丁寧に、しかし反抗心を込めて斜め上を見ながら頼む。


「そこまで言うなら……ねえ、ところで、もしかして家族のことも覚えてないの?」


 ニニィはふと思い出したように俺の眼を覗き込んだ。一瞬、その大きな瞳へ何か同情や悲哀のような色が浮かんだ気がして、俺はあえて先回りして答える。


「あー……うちってなんか複雑な家庭の事情でもあった?」


「複雑というかなんというか……あのね、こんなこと言うと悪いかもしれないんだけど、お姉ちゃんに何かよくわからないことを説明されてもあんまり本気にしちゃだめだからね」


「お姉ちゃん? 俺の?」


「そう、リクのお姉ちゃん。ロアナさん。優しい人だしリクのこと大好きだからきっと大丈夫だけど……事情はわたしが説明してあげるから。とにかく何でもかんでも信じちゃだめ。わかった?」


 どうやらこっち側の俺には姉がいるらしい。本当は俺はひとりっ子なので、家族までそっくりそのまま再現されているわけではないようだ。何やら歯切れの悪いニニィの声色から察するに、そのロアナという姉も一筋縄じゃいかない人物みたいだが、なにせ異世界にぶっ飛ばされてきたこの現状に比べれば、些細な人間性の欠点くらい今さら大した問題じゃない。


「変わった人なんだろうな、っていうのは想像ついた。お父さんとかお母さんは?」


 そう聞くと、ニニィは悲しそうに目を伏せた。そうして少し躊躇うように口を開いた。


「……いないよ。リクが生まれてすぐ二人とも死んじゃったんだって。わたしも会ったことない。だからお姉ちゃんと二人暮らし」


 もちろん親を失うというのはとても悲しいできごとだ。ニニィも思うところがあるのだろう。でも、俺はそれを聞いたところでなんにも悲しくはなかった。親と言ってもこの俺の本物の親じゃない、幻覚世界の偽物のできごとだ。文字通り他人事なのだ。悲しくないのに悲しむべき状況への答えに迷って、そっか、とひとことだけ返事をした。



 人々の行き交う栄えた大通りを抜け、龍をかたどった噴水のある広場を横断すると、俺たちは建物の密集する裏路地へ入り込んだ。石と木で造られた集合住宅らしき家屋が生き物のように密集し、生活の気配と匂いが濃厚に漂っている。外壁は意外にもカラフルで、素のレンガをむき出しだったり、白やベージュ、褪せた小豆色なんかで塗られている。


 そのほとんどが二階から三階建てだが、隣り合う建物同士は密着しており、通路を挟んで紐を渡して洗濯物やら何かの乾燥食品を干したり、アーチを作って建物ごと連結していたりするせいでアーケードのように薄暗い。建築基準法も何もあったもんじゃないが、中世版の九龍城みたいでちょっとわくわくする。こういう街はけっこう好きだ。


 とはいえ住み心地は良さそうだとは言い難い。地面は石を敷いて舗装されているものの、ところどころに抜けがあるし、空き瓶とかよくわからないごみがあちこちに落ちている。道は狭く、ときどき向こうからやってくる住人とすれ違うために肩を避けなければならなかった。さっき通った噴水の広場と比べればいかにも貧乏くさい。スラムとまではいかないが、ひどく猥雑とした雰囲気の漂う地区だった。


「なんだか危なっかしそうなところだ。俺って本当にこんなところに住んでるの?」


 数歩先を行くニニィはくすくす笑う。


「生まれも育ちもこんなところ。でもね、あんまり変なことは言わないでおいたほうがいいよ。異世界がどうとか聞くと、きっと変になったと思われるから。ほら、もうすぐそこ」


 彼女は一軒の家の前で立ち止まった。俺も止まって外観を見上げる。つくりは左右に連なる建物と特に変わりなさそうだが、ツタのようなつる性植物が扉を囲って二階までモサモサと茂っているので周りより目立っている。


「もしかして、このひときわ怪しいところ?」


「そ、住み慣れた実家だよ。リクたちの部屋はここの二階。わかりやすいでしょ?」


 確かに、これまで通ってきた狭い道は、くねくね折れ曲がっているとはいえ広場からずっと道なりだし、このツタを目印にしておけば見失う心配はなさそうだ。土地勘がない上に方向音痴気味な俺にとってはありがたい。


 さっそくニニィが木の扉をそっと引いて開けた。すぐ目の前に階段があって、右手の壁と奥の突き当りにまた扉がひとつずつ。いちおう小さな窓はあるが、日没後に足元を照らすには不十分すぎる。先を行くニニィを追って気をつけながら階段をのぼる。石と埃のまざった無機質なざらついた匂いがする。踊り場で一旦折れ曲がり、上がった二階には扉が一つしかなかった。


 ニニィは俺が来たのを確認すると、扉を静かにこんこんと叩いた。しばらく間があって、人が向こうに立つ気配がした。


「はあい」と女性の間延びした返事。


「ニニィです。あの、リクくんも一緒なんですけど、ちょっと話したいことがあって……」


 言い終わると、すぐにがちゃりと扉が開いて女の人が現れた。おそらく俺の姉ことロアナだろう。二十歳そこそこで、セオと変わらないくらいだ。つまり現実の俺とも同世代ということになる。


 しかしそんな俺から見ても、彼女にはいかにもお姉ちゃんっぽい雰囲気があった。真っ直ぐな黒い髪を長く伸ばし、少し垂れ気味の目はどこか慈悲にも似た憂いをたたえてこちらをじっと見つめている。薄い唇はまず小さく驚きのかたちに広げられ、それから微笑へと変わった。


「おかえり。ニニィちゃんひさしぶりだね。送ってくれたんだ?」



 俺たちの姿を認めてふと浮かべたその儚げな笑顔は、沈んだ太陽の名残と部屋から漏れ出るランプの灯りにぼんやりと照らされ、印象派の人物画みたいにおぼろげな魅力を放っている。



 いや、彼女の顔が気になるのはたぶんただ美人だからというわけではない。よく見ると俺と似ているような気がするのだ。姉だという先入観のせいだろうか? いや、しかしやはり目元や鼻に面影がある……居ないはずのきょうだいの顔を見るというのはすごく奇妙な感覚だった。でも、そのおかげで本当にここでの俺とロアナは家族なのだろうという実感も湧いた。


「……お姉ちゃんの顔に何か付いてる?」


 ロアナが怪訝そうに眉をひそめた。俺はふと我に返って目をそらす。ニニィがすっと横へ出て、いきなり頭を下げた。


「あの、ちょっといろいろあったんです。うちの兄のせいで……ごめんなさい」


 ロアナは何のことやらという感じで首をかしげる。すかさずニニィがこれまでの経緯を説明し始めた。俺は龍の肝もどきでとんでもないトリップをしたこと、この世界のことを何も覚えていないこと……ただし、異世界云々のことは抜きだ。説明はすべてこちら側に住むニニィ視点で話された。


 そもそもニニィだって、俺が異世界から来てリクを上書きしたなどという話をたぶんまだ完全に理解しても信じてもいない。彼女たちにとって俺は龍の肝の副作用でひどい妄想に陥っている可愛そうな少年として映っているのかもしれない。いや、この世界に住む者なら誰だってそう受け取るに違いない。俺自身さえそう疑ってしまうくらいなのだから。


 逆のことを考えてみればいい。俺が現実にいたとき、友達がトリップしたあと「俺は異世界から来た」などと言い始めたら、たぶんぶっ壊れたようにしか見えないだろう。


「じきに記憶が戻る、って兄は言ってます。でもいまのところは全然……」


 ニニィは哀れな患者の付き添いみたいにそう説明した。


「要するに、ぶっ飛びすぎて記憶喪失になっちゃったってことね?」と、ロアナは特に動じる様子もなく、あっけらかんと聞く。


「うん、そうなんだ……ごめんなさい」


 いちおう謝ると、ロアナは微笑を崩さずに俺をじっと見据えた。


「あんたも馬鹿ねえ。ただでさえお馬鹿なんだから、それ以上スカスカになっちゃったらどうするのよ。あんまり無茶しちゃだめって言ってるでしょ」


「ば……」


 優しそうな顔とは裏腹にいきなり罵倒を浴びせかけられて俺は固まった。とはいえ確かに客観的に見れば馬鹿な真似には違いないのだから押し黙るしかない。ロアナは小さくため息をついた。柔らかそうな唇に指をあてて、何か思案しているようだ。


「でも困ったな、今朝博士のとこ行ってモイヤピア買ってきてってお願いしたはずだけど、それも忘れちゃったんだもんね?」


 ニニィはそれを聞いてぴくりと猫耳を動かした。しかし目を伏せたまま黙っている。俺には何のことかわからない。


「モイ……? 忘れたというか、それが何かもわからない、です」


 口調に迷いながら正直にそう言うと、ロアナはううんと口を尖らせる。


「そっかあ、でも困ったなあ、あと少ししか残ってないし……」


「あの、よかったらわたしが持ってきます」


 ニニィが小さく手を挙げ、おずおずと口を挟んだ。


「えっ、ほんと? よかったあ、ありがとね。ちょっと待っててね」


 ロアナは大人びた見た目とは裏腹に、意外なほど子供っぽい喜びの声をあげ、ぱたぱたと部屋の奥へ走っていった。その隙にニニィへ尋ねる。


「あのさ、モイヤピアってなに?」


「お兄ちゃんが売ってるの。"博士"の主力商品。神の眼、とかなんとか言われてる。あんまり……良いもんじゃないかな」


 ニニィは苦々しい顔をした。詳しくは言いたくないみたいだ。


「……あー、あるほど。そういうことか」


 ようやく合点がいった。つまり博士ことセオは、俺だけじゃなくあちこちに何らかの物質を売っているのだろう。要するにドラッグの生産者兼プッシャーという感じの立場か。そう考えると"博士"という高尚なあだ名もなかなか皮肉めいて聞こえてくる。


「ニニィの兄ちゃん、優しい顔してなかなか危ういことやってんだね」


「しかたないよ、それしかやることないんだから。それに、お兄ちゃん……だいぶいかれてるからさ」


 ニニィは諦めたように笑ったが、それが冗談なのかわからなくて俺はごまかすように鼻を鳴らした。あの聡明な青年が見せた優しそうな笑顔は、いったいどこまで本物だったんだろう?


「ごめんごめん、お待たせ。はいこれ代金。いつもと同じ量って伝えてくれる?」


 ロアナがちょこまかと戻ってきて、薄汚れた小さな布のポーチをニニィに手渡した。ちゃり、という音が鳴ったので、中にコインが入っているとわかった。



「……わかりました。明日また持ってきますね」とニニィは礼儀正しく頭を下げる。


「よろしくね。そうだ、もう暗いからこれ持ってきな」


 ロアナは靴箱の上に置いてある手提げランプのような器具を左手に掲げ、ランプに差し込んであった鉛筆みたいな金属製の棒を右手に持った。そうしてその棒でランプの芯のところをこつんと叩いた。途端、倍音豊かな心地良い音色があたりに響き、たちまちランプの芯がオレンジ色の光をじわりと放ち始める。


「あ、すごい……」



 俺は思わず率直な感嘆の声を上げた。異世界に来て以来初めてこの目で見るファンタジーらしい要素だった。セオが説明してくれた龍がどうとかギルドとか勇者とかも確かに凄そうではあるけど、話に聞くだけではやはり実感が湧かない。しかし、こんな些細な灯りの技術さえ、いざ目前で見せつけられると感動するほど不思議で神秘的な光景だった。


「わあ、ありがとう。わたし夜の森暗くて怖いから嫌いなんだ。明日来るとき返します」


 ニニィはぺこりと礼をすると俺をちらりと見て「またね」とどこか寂しそうに笑い、階段の方へ歩き始めた。


「いろいろありがとう、気をつけて」と俺も慌てて声を掛けると、彼女はまたにこりと笑い、手と尻尾を振って階段を駆け下りていった。

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