#5 重ね合わせる卵(2)
いまちょうど太陽が地平線の向こうへ沈もうとしていた。それほど高くはない丘だけど、遮るものが何もないから頂点からはずっと遠くまで見渡せる。街を抱える広い平原のはるか離れたあたりが熱された鉄みたいに赤々と揺れている。空は朱色の巨大な半球となって俺たちの頭上を覆いつくす。
この幻覚世界はどこまで広がっているんだろう……あの燃えるように輝く大地にも、まだ見ぬ異世界人が日々生活を続けているのだろうか。泣いたり笑ったりしながら生まれて死んでいくのだろうか?
何が幻覚か、何が現実なのかわからなくなってめまいがした。ここにあるすべてが、あまりにも真に迫りすぎている。本当にユイはとんでもないものを作り出したんだ。それ自体が嘘だったんじゃないかと疑ってしまうくらいに。
セオの洋館で飲んだタヤの実はまだじんわりと効いているようだった。彼が言うには半日ほど持つらしい。身体がずっしりと空間に沈み込み、確かな重力が糸のように巻き付いて四肢を気だるく脱力させる。今ごろが効果のピークのようだ。
「ニニィはこの街が好き?」
俺は目下に広がる朱色の都市と城を見渡してそう尋ねた。ニニィは遠い夕焼けを食い入るように見つめたまま眉をひそめ、オレンジ色に染まった顔を一度だけ左右に振った。カールしたふわふわの髪が波打って夕焼けの海みたいに輝いた。
「リクも……わかってるでしょ」
それはほとんど懇願のように切なく響いた。今さら何を聞くんだとでも言いたげなその横顔が、夕陽のせいで必要以上に感傷的に見えた。私たちはここで生きてきた、それをいちばんよく知っているのは私たちじゃないか、と。
俺は目をそらして、沈む太陽とは逆のほうへ振り返った。長く連なる山脈が、ひと足早く訪れた夜の下で凍ったようにそびえ立つ。あの向こうでいまも魔族と人類の戦争が続いている。ここからはごつごつした青っぽい山肌しか見えないし、魔族と呼ばれる生き物の姿なんて想像もつかない。でもセオは確かにそう言った。あそこで流れる血はどんな色なんだろうか。
物思いに耽っていると、ふとニニィが決心したようにスカートのポケットから何かを取り出した。指先ほどのガラスの小瓶だ。中には琥珀色のカプセルみたいな粒がふたつ入っている。
「あのさ……リクの中身を見せてほしいんだ。わたしだけ置いていくなんて、そんなのずるい。一緒だって約束したよね、わたし覚えてるからね」
「中身? それは何?」
「"サトロル"って呼ばれてる。ひとの心を、少しだけ覗くためのものだよ」
ニニィは思いつめたように真剣な声でそう言い、瓶の蓋を開けてその粒を手のひらに出した。つるっとした楕円形で、夕焼けと同じ色に透き通っている。よくわからないが、何らかの薬理作用を持つものに違いない。
まさか心中でもするつもりじゃないだろうな。『中身を見る』なんて表現が文字通りの意味じゃなければいいが、心を覗くと言うのならばむしろ精神的な効果を持つのだろうか。
そもそも、ここは異世界なんだ、幻覚剤の見せる夢の内側なんだ。そこで死んだからと言って現実で死ぬわけはない、むしろ現実で目覚めるだけかもしれない。俺はニニィの手のひらからサトロルと呼ばれたそれをひとつをつまみ、受け取った。
「すぐに飲み込んじゃだめ、口に含んでおいて。合図したら一緒に噛んで、口に溜めておいてね」
言われた通りにその粒を口へ放り込む。外側の殻は柔らかく、中に液体が入っているようだ。ニニィも口に入れ、俺の右手をとってぎゅっと固く握った。そうして目を合わせ、いいよ、と呟いた。
奥歯でそれを噛み潰す。ぷちっと弾け、甘い蜜のような液体が漏れ広がる。味は悪くないが、妙に人工的な風味がする。花か何かの匂いだ。言われた通り口に溜めたまま待つ。俺もニニィの手を強く握り返す。生きた人間の脈動が確かに伝わってくる。
すぐに変化に気がついた。視界が妙にずれている。ふたつの太陽が半分だけ重なって見える。いや、見える何もかもが僅かに揺らいで重なっている。
はじめ何が起きているのかわからなかった。しかしすぐに理解する。これは、隣にいるニニィが見ている世界じゃないか。慌ててあたりを見回すと景色がふたつに分離した。スクリーンに映画を重ねて映し出すみたいに、彼女の視野が俺の意識へ流入しているんだ。どちらが本物でも上層でもない、ただ対等なふたつの景色を、ひとりの俺が同時に眺めていた。
そうして彼女の思考と記憶までもがゆるやかな波になって押し寄せてくるのがわかった。いまここにある俺とニニィと沈みゆく太陽がひとつに重なり合う。起きながらいくつもの夢を見ているようだ、目に映る情景と記憶が拮抗しすべてを覆い隠していく。俺がこの俺になるよりずっと以前、リクとニニィの遠い記憶をたったいま初めて思い出す。記憶が双方向に流れ込む。
*
リクが生まれて初めてセオの洋館を訪ねた日、物陰に隠れてこちらを窺う猫耳の少女はまだ六歳だった。セオと親交を深めるうちに、彼女とも仲良くなるのは必然だった。
ニニィは俺のことをかけがえなく大切に思っていた。半獣である彼女にとって俺は唯一と言っていい友達だったからだ。ふたりともこの街や閉鎖的な習わしや否応なく進む世界のすべてが嫌いだったし、いつもどこかに逃げ出したがっていた。
だから俺がセオに頼んで龍の肝を手に入れようとしているのを知っても、ニニィは強く止めなかった。それが本当に異世界への旅立ちになるとは思っていなかったからだ……
*
断片的な思い出が嵐のように過ぎ去った。俺は圧倒されてただそれを眺めるしかできなかった。ああ、そうか……リクとこの少女は、小さいころから本当にずっと一緒だったんだ。まるで現実世界の俺とユイみたいに、互いに自分を世界へ繋ぎ止める唯一の存在だったんだ。
俺がこのリクを上書きしたのか、それともこの俺がただ記憶を失ったのか、それはいま決めようがない。でも、猫耳の少女ニニィが、リクであるこの人物とともに生きてきたということを、俺はいまこの眼で見てしまったのだ。本物か偽物かはともかく、見てしまった以上その思い出自体は否定しようがなかった。
知らないうちに涙が落ちていた。少しも悲しくはない。ニニィからあふれた感情が逆流して俺の涙を押し出しただけだった。
いつのまにか世界は重なるのをやめて、いつも通りの見えかたに戻っていた。
「違うよ、全然違う……もうぜんぶ……」と、ニニィが震える声を絞り出す。
「本当に、どこかに行っちゃったんだ、置いてかないでって言ったのに」
俺がニニィの思い出を覗き見たのと同じように、ニニィもいまの俺が持つここじゃない世界の記憶を読み取ったに違いなかった。そうしてそこには絶望的な齟齬があった。たとえ見たものが理解不能で不完全な物語だったとしても、そのこと自体がすでにじゅうぶん説明になるはずだった。もはやこのリクは入れ物が同じなだけで、うちに注がれた魂はまるきり変わってしまっているということに、おそらく彼女は気づいてしまった。
つい今しがた見たリクとニニィの偽りの思い出はもはや俺の中から消えかけていた。サトロルの効果は数十秒も持続しないうちにすっぱり切れ、あとには何も残さなかった。垣間見た大切な思い出たちは、又聞きのうわさみたいに遠く不確かなものになってゆく。少しも悲しくないことがひどく悲しかった。
「もう君はリクじゃないの? 全部変わっちゃったの?」
ニニィはすがるように呟いた。どう答えようか迷ったが、正直に言うことに決めた。
「ごめん。自分でもわからないんだ。俺はたしかに別の世界からやってきた。名前も見た目もこのリクと一緒だけど、君の知っているリクじゃない。俺がただ竜の肝でおかしくなってそう錯覚しているだけなのかもしれない、でも、少なくとも俺にとってはここが異世界に見えるんだ」
ニニィはしばらく黙りこくった。そうして諦めたように口をひらいた。
「信じたくはないけど、たぶん、そうなんだと思う……リクの中身、見たことないものばっかりだったから。でもわたしは覚えてるよ、リクもわたしの中身を見たでしょ? わたしたちずっと一緒だったよね? 何もかも消えたなんて思えないし、思いたくないよ。きっとまた……」
そのあとに続くべき言葉を彼女は出し渋っているようだった。もとのリクがこの肉体に戻るということは、すなわちいまのこの俺がどこかへ消え去るということを、おそらく意味しているからだ。
「なんだか自分がよくわからなくなってきたよ。これまでの俺の人生と思い出は確かに本物だ、でも、その代わりいまここにあるすべてが偽物だとも、簡単には信じられない。それらは重なり合っていて、どちらかを選び取ることはまだできそうにない」
そう言って俺は繋いだままの手を強く握った。温かくてしっとりしている。これが、彼女の体温と血液の循環が、湿り気をもったなめらかな肌が、何もかも幻だなんてそう簡単に信じられるだろうか? これが嘘だと言うのならば、今まで知って体験した何もかもを疑わなくてはならないじゃないか……繋いだ手をそのまましばらく夕陽にかざし、ニニィがゆっくり指をほどいた。
「生きていてくれただけで嬉しいよ。リクの記憶が戻ってくるって、わたし信じてるよ」
それはやはり俺に向けられるべき言葉ではなかった。しかし、それを聞いているのもこの俺だけだった。
「ねえ、あのさ」と、ニニィがおずおずと口を開く
「ん?」
「いまの君にとって、わたしは誰でもないかもしれないけど、それでもわたしにとってリクは君しかいないの。だからわたしのこと知らないなんて言わないで、おねがい」
「……うん、わかった。俺にとってもリクは俺だけだよ、記憶とか世界がどうなっているのかいまはよくわからないけど、少なくとも俺はここにいる」
そう答えると、ニニィはほんの少しだけ安堵したように微笑んだ。
「あと、サトロルのこと、お兄ちゃんには内緒だからね。わたしがこういうの使うとすごく怒るから。お兄ちゃん、わたしのこといい子だと思ってるんだよ」
そう言って、たぶん精一杯悪そうな顔を作って、ニニィはいたずらっぽく舌を出した。俺がここに来る以前のリクも、きっとこの笑顔を見て同じ気持ちを抱いたに違いなかった。
*
「ねえ、これってなんだったの?」
「だから、聞かないほうがいいってば」
俺たちは寄り道を終えて街へ向かうために丘を歩いて下っていた。この不思議な作用を持つ粒がいったい何なのか知りたくてさっきから聞いているのに、ニニィはなかなか教えようとしないのだ。
「いいから教えてよ。ほら、些細なきっかけで記憶が戻るかもしれないよ」
ニニィは呆れたように少し笑って丸眼鏡を外し、涙の残りを腕で拭った。
「……サトロルオオトゲアリ。でっかいアリの卵だよ」
*
発見者である冒険家サトロルの名を冠するその巨大な昆虫は非常に高度な社会性を持ち、離れた場所にいても仲間の危機や獲物についてコミュニケーションをとる。人がその卵を食べれば数十秒だけ相手の記憶を読み取ることができ、人工的に蜜を与えておいしく改良されたものが若者のあいだで人気である……のちにセオが教えてくれたことだ。
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