吸血鬼に襲われたけど色々な意味で新しい世界が開けました。

毒爪マン

第1話

「起立、礼」

 帰りのホームルームが終わる。あくびを噛み殺していた生徒たちが生き生きとしはじめる。

「あ、言い忘れていましたけど、少女誘拐事件がこの辺りで問題になっているので、皆さん気を付けてくださいね」

 担任が注意喚起をすると「はーい」と気の抜けた返事がまばらに聞こえる。

「少女誘拐事件ってなに?」

「知らないの? 女の子が夜にいなくなって、次の朝気を失った状態で発見されてる事件。ニュースでもやってたよ」

「え、なにそれ怖い」

「被害者の女の子たちはみんな事件のことを覚えていないんだってさ。怖いよねー」

 女子たちがそんな話をしながら教室を出ていく。

 十分もすれば、教室の中はかなり人が少なくなっていた。

「はぁ……」

 北條薫は窓の外を眺めた。グラウンドでは寒空の中、生徒たちが部活動に汗を流している。

 この学校は部活動を強制されている。にも関わらず、彼は部活動を免除されていた。

 その理由は、彼が生まれつき酷い喘息を患っていたからだった。

 何度も入院と退院を繰り返している薫は、運動部はおろか文化部の活動も厳しいと判断を下された。

 本当は彼も皆と一緒に遊びたいのだ。しかし、大人たちがそれを許さない。

 彼の看病に疲弊した養父母、責任を取りたくない教師、もちろん彼らにも心配する気持ちはあるだろう。だが、感受性の強い薫は彼らが見せる一瞬の緊張感のようなものを過敏に感じ取ってしまっていた。

「北條くん、窓の外なんか眺めて、どうしたの?」

 薫に話しかけたのは、クラス委員の藤宮葉月だった。彼女は心配そうな表情で薫を覗き込む。

「いや、なんでもないよ。ぼーっとしてただけ」

 薫はほほ笑んでそう答えたが、心の中はざわついていた。喘息、病弱、休みがち……彼が持っている印象は彼のどんな行動にもネガティブな意味を与えてしまう。

「具合が悪くなったら、私に言ってね」

 彼女は本気で心配してくれているのだろう。しかし、対等なはずのクラスメイトにすら庇護されるという現実は、彼を傷付けた。

「ありがとう。藤宮さん」

 葉月の気遣いを無駄にしないようにと、柔和に笑う薫。幸いと言っていいのだろうか、彼はそれくらいの痛みになら耐えられるように育っていた。

「葉月ー、部活行こうよー」

 教室の外から、活発そうな女子生徒が葉月に声をかける。

「うん、今行くー……じゃあね北條くん、また明日」

「うん。また明日」

 葉月は手を振って教室を出る。女子生徒たちは薫の方をちらちら見て何かを話していたようだったが、会話の内容までは彼に聞こえなかった。

 このクラスはいたって平和な場所だった。病弱で小柄な薫を虐めるものなどいないし、むしろ葉月のように気を使ってくれている者も多い。しかし、そういった気遣いはむしろ彼に疎外感を感じさせるのだった。


 薫は真っすぐには家を帰らず図書館へ行った。家に帰れば今度は家族に気を遣わせてしまうからだ。気を遣うのも遣われるのも、彼は嫌だった。

 図書館は薫のお気に入りの場所だった。静寂の中、本を読んでいる間だけは誰にも邪魔されない、本の中には彼の居場所があった。

 薫は書架の中を、何か面白そうな本がないかと歩き回る。

 ふと、目に入ったのは海外文学の棚だった。彼は何気なくその中の一冊を手に取る。

「吸血鬼が好きなのかい?」

 急に後ろから声をかけられ、薫は飛び上がる。

「うわぁ!」

「うわあとは失敬な。声をかけただけじゃないか」

「図書館でいきなり声をかけられたらだれでもそうなるよ……」

 薫はぼそぼそと反論する。

「はは、ごめんごめん。ボクも吸血鬼が好きだから、思わず声をかけちゃったよ」

 声の主は、その快活な喋り口調からは想像もできないほどに正統派の美少女だった。長い黒髪は腰まで垂れ、目鼻立ちは人形のように整っていた。そんな中、悪戯好きな猫を思わせる丸い眼が際立っている。

「それで、キミも吸血鬼に興味があるのかい?」

 彼女が指で示したのは、薫が持っている本――ブラム・ストーカーの『吸血鬼』だった。

「いや、なんとなく手に取っただけだよ」

「吸血鬼は怖いよ。キミみたいなかわいい子を連れ去って慰み者にするんだ」

 少女は犬歯を剥き出しにして恐ろしげな顔を作ると、薫に顔を寄せる。

「や、やめてよ」

 その迫力に、薫は思わず身震いをする。

「冗談だよ。からかい甲斐があるなぁ」

「もう、あっち行ってよ。なんでそんななれなれしいのさ」

 クスクスと笑う少女に、薫は流石に腹を立て机の方に戻っていく。

「ごめんって」

「ついてこないでよ」

 薫はその後もこの見知らぬ少女に読書の邪魔をされ、肩を落として帰宅するのだった。


 翌日も、薫が図書館に行くと例の少女はいた。

「やあ」

 気安く手を挙げて挨拶をしてくる少女に、薫は表情を曇らせる。

 しかし、同じ轍は踏むまいと心に決めた薫は彼女を無視すると書架に入り、さっさと本を選んで席に向かう。

「なぜ無視をするんだい?」

 しかし、そう言う彼女の口調は楽しげなものだった。

「……」

 薫は椅子に座り、本を読み始める。

 薫が無視を決め込んでいると知るや、少女はその正面に座り、本を読む薫を眺め始めた。

「……なに?」

 そんな状況が小一時間続いて、先に忍耐が切れたのは薫だった。彼は本から顔を上げると、半眼で少女を睨みつけた。

「なにって、見ていただけだよ」

「図書館なんだから本を読みなよ」

「キミもあまり読み進められていないようだけど? そのポオ全集」

「ずっと見てくるから気が散るんだよ!」

 薫は思わず立ち上がり大声を出す。しかし、周囲の非難がましい咳払いで我に返ると、顔を赤くしてすごすごと座りなおした。

「ふふ……」

 その様子に、少女は目を細める。

「もう、なんなの……?」

 薫はもう怒りを通り越してげんなりした様子だった。

「キミの反応があまりにも可愛いから、思わずちょっかいを出しちゃうんだ」

「本くらい静かに読ませてよ……」

「うん、ごめんね」

 少女は突然神妙な顔になったかと思うと、席を立つ。

 薫はやっと静かになったと思いしばらく読書をしていたら、再び少女がやってくる。今度は本を数冊持っていた。

「ポオが好きなら、こういうのも肌に合うんじゃないかな」

 そう言って彼女が差し出してきた本は、薫にとっては全く未知のものだった。

「マイリンク……?」

「うん、キミは必死な顔で本を読んでいるから、こういう世界にも入り込めると思うよ」

 少女の真剣な目を見てか、綺麗な装丁に魅せられてか、はたまた元来お人好しなだけなのか、薫は手渡された本を読み始める。

 彼はすぐさま本の世界に没頭していき、閉館時間になるとその本を受け付けに持っていき借りるのだった。


翌日、学校が終わると薫は足早に図書館へ向かった。少女に本の感想を伝えたかったからだ。

 しかし、探しても彼女はいなかった。

「そんな毎日はいないか……」

 彼は独り言ちると、適当に本を手に取り、読み始める。

「わっ!」

「うわぁっ」

 後ろから驚かされ、三センチは飛び上がる薫。彼は恨めしげな目をその相手に向ける。

「もう、また……」

「今日も来てると思ったら、嬉しくなって、ついね」

 少女は例の如く悪戯っぽく笑う。

 しかし、今日の薫はそんなことは気にならなかった。

「あ、読んだよ。昨日教えてもらった本」

「それで、どうだった?」

「うん。すっごくよかったよ。作者の頭の中に入っていける感覚って言うのかな……この人はきっと本当に神秘的な世界があるって信じているんだろうね」

「気に入ってもらえたならよかったよ」

「君は本に詳しいんだね」

「まあ、本を読む時間はあったからね、誰よりも」

 少女の声には自嘲的な響きが混じっていたが、その真意までは薫にはわからなかった。

「よければこれからも本のこと教えてよ。僕は北條薫。君は名前、なんていうの?」

「ボクは紅羽、よろしくね」

「うん、よろしく。紅羽」

 それから二人の交友は始まった。紅羽の薦める本はどれも薫の好みだったし、何より薫が持つ身体の事情を知らない紅羽と話すのは、彼にとって気楽なものだった。


 数週間後、薫はまた紅羽と共に遅くまで図書館で本を読んでいた。

「もう閉館の時間か……」

 薫の声には名残惜しさが含まれていた。

「じゃあ一緒に帰ろうよ」

 薫は紅羽の提案に頷くと、すっかり暗くなった帰路につくことにする。

「薫は、この時間になるといつも元気がなくなるね」

 紅羽の言葉に、薫ははっとする。今まではそんな事はなかったのだ。ただ、学校と家を往復するだけで、普通の子どもたちが経験する五時半のチャイムに後ろ髪を引かれる感情などは一切持ったことがなかったのだ。

 彼をそう変貌させたのは、間違いなく目の前にいる紅羽の存在だった。初めてできた心を許せる友人。彼は、初めての感情に子供らしい反応を見せるしかなかったのだ。

「やれやれ、キミは本当に可愛いな」

「うるさいなっ」

 紅羽にからかわれ、薫は顔を赤くして腕を振り回す。

「……そんなに名残惜しいなら、今日はボクの家で夕飯でも食べていくといい」

「いいの?」

 遠慮がちに訊ねる薫の瞳には、しかし期待感に輝いていた。友人の家で遊ぶなど、彼にとっては遠い世界の話だと思っていたのだ。

「うん、どうせ一人暮らしだし、構わないよ」

「あ……でも、親が心配するかも」

 過保護な養父母のことを思い出し、薫は肩を落とす。

「本当に薫のことを思っているのなら、友達の家で遊ぶことくらい許してくれるはずさ」

「うん……」

 紅羽の赤い唇から発されたその言葉に、どういうわけか薫は抗うことができなかった。彼は家に電話を入れることもなく、紅羽の家に向かったのだった。

「わぁ……」

 薫の口から感嘆の声が漏れる。彼が目にしたのは古い日本家屋だった。

「近所の子どもは幽霊屋敷なんて呼んでいるよ。全く、失礼しちゃうよね」

 そう言う紅羽の口調はしかし、その状況をも楽しんでいるようだった。

「かなり大きいけど、一人で住んでいるの?」

「うん。週に何回か家政婦さんが来てくれているけど、それでも部屋はいくつかしか使っていないから、あまり見て回らないでくれよ。流石に汚い部屋を見られるのは恥ずかしい」

 紅羽は髪の毛を弄りながら、そんなことを言う。

「言われなくても勝手に見て回ったりはしないよ」

 紅羽に促され、薫は家の中にあがる。

 外見は古い建物だったが、中は何度もリフォームされているのか、綺麗なものだった。そのおかげで、喘息持ちの薫でも畳の香りを思いっきり吸うことができた。

「まあ楽にしてくれていいよ」

「は、はい」

 幾分緊張した面持ちで、薫は座布団に腰掛ける。

「さあ、ご飯なんだが、出前でも取ろうか」

 紅羽が電話を取る。

「もしよければ、僕が作るよ」

「いいのかい?」

「うん。それくらいさせてよ」

「じゃあ冷蔵庫にあるものは適当に使っていいよ」

「うん。わかった」

 薫は頷くと、台所へ行き、冷蔵庫の中身を覗いた。

 しかし、その中には何も入っていなかった。彼はそれを見るとため息を吐く。

「はぁ」

「何か使えそうなものはあったかい?」

 後ろから紅羽が声をかけてくる。

「びっくりするくらい何もないね……」

「やっぱりか。もしかしたらあるかと思ったんだけど」

「いつも外食なの?」

「まあ、そうだね」

「そうなんだ。じゃあ買い物に行ってくるよ。何か食べたいものとかある?」

「うーん……まあなんでもいいよ。あ、あんまりスパイスが効いているものは好きじゃないかな」

 紅羽の要望に薫は頷くと、軽い足取りで買い物に出かけていった。

 一時間もしないうちに、薫は戻ってきた。彼は慣れた手つきで料理を始める。

「薫は料理が得意なんだね」

 紅羽はその様子を興味津々と言った調子で眺めていた。

「あんまり見られると、やりづらいよ」

「まあまあ、いいじゃないか」

 そのてきぱきとした様子から予想できた通り、料理もすぐに出てくる。

「うわぁ……すごくおいしそうだね」

 机の上に並べられた焼き魚や天ぷらを見て、紅羽が感心する。

「そんな大したものじゃないよ」

 薫は照れたように頭を掻く。

「食べていいかい?」

「どうぞ」

「じゃあ……いただきます」

 紅羽は綺麗な所作で焼き魚を口に運ぶと、すぐに顔をほころばせる。

「うん。絶妙な焼き加減だね」

「美味しかったならよかったよ」

「きっと薫はいいお嫁さんになるね」

「嬉しくない……」

 紅羽はよく「可愛い」などと薫を形容するが、それを薫は複雑な思いで聞いていた。薫は彼女にはかっこいいと思われたいのだ。

「ふぅ……ごちそうさま」

 本当に気に入ったようで、紅羽はあっという間に夕飯を平らげた。

「これからもたまに来て、ご飯を作ってよ」

「これくらいなら別にいいけど……」

 しばらく彼らはとりとめもない話をして、時間を潰した。

「もう結構遅くなっちゃったし、そろそろ帰ろうかな」

 薫が立ち上がる。

「もう帰っちゃうのかい? 今日は泊っていったらどうかな。明日は学校も休みだろう?」

「いいの?」

「うん。使っていない部屋はたくさんあるしね」

「いいのかな……」

「いいんだよ」

 その声には、抗いがたい魅惑的な響きが含まれていた。

「じゃあ、お言葉に甘えて……」

 薫がそう返事をすると、紅羽はその唇を歪めるのだった。

「じゃあ、お風呂借りるね」

 それからしばらくゲームなどをして遊んだ後、薫が立ち上がる。

「ん、沸かしておいたから、ゆっくりするといいよ」

 薫は風呂へ行く、洗面所で服を脱いでいると、そこに鏡がないことに気付く。風呂場に入っても、鏡はなかった。

「古い家だし、そういうこともあるのかな」

薫は大して気にすることもなく、身体を洗うと、少し躊躇ってから湯船に浸かった。

「はぁ……」

 ほどよい熱さに、声が漏れる。

「湯加減はどうだい?」

 洗面所の方から、紅羽が語り掛けてくる。

「うん。丁度いいよ」

「それならよかった。タオルとか置いておくね」

 それだけ言うと彼女は去っていった。

 薫は十分ほど湯船に浸かった後、脱衣所からタオルを取り、身体を拭いて着替えようとする。

「え……」

 しかし、用意された着替えを見て、薫は困惑した声を出す。

「紅羽、紅羽ってば!」

「どうしたんだい? 騒々しい」

 紅羽が洗面所のドアを開けようとしたので、慌てて制する。

「入ってこなくていいから!」

「そうか……」

 なぜか残念そうな声を出す紅羽。

「この浴衣、女物じゃん」

「そりゃそうだろう。ボクの一人暮らしなんだから。キミは着替えを持ってきていないだろう?」

「そうだけど……それに、下着は?」

「もう洗濯しちゃったよ。浴衣なら下着はいらないだろう?」

「いるよ!」

「ならボクの下着を穿くかい?」

「絶対にヤダ!」

「じゃあそれで我慢するんだね。早く着ないと湯冷めするよ」

 白々しい声をあげ、去っていく紅羽、水色の浴衣を前に薫はしばらくの間悶々としていた。

「やっと出てきたか」

「やっと出てきたかじゃないよ……なんで僕が女物の浴衣を……」

「いいじゃないか、似合っているんだから。こうやって見ると本当に女の子にしか見えないな」

「うぅ……」

 薫の顔が赤いのは、風呂あがりというだけではないだろう。

「もう寝たい……」

「そうか、ボクはもっと見ていたいんだが。まあ布団の用意なんかはできているよ」

 薫は背中を丸め、紅羽に教えてもらった部屋へ行き眠るのだった。


「ん……」

 その夜、薫は唐突に目を覚ました。

 部屋に何者かの気配がしたからだ。

「紅羽?」

 薫は不安げな声をあげると、隣からすぐに返事がくる。

「ふふ、可愛い寝顔だったのに、起きてしまったか」

「趣味が悪いよ。人の寝顔を覗きに来るなんて」

 薫は内心ほっとしつつも、抗議をする。

「ごめんごめん、でも寝顔を見るために来たわけじゃないんだ」

「じゃあ、どうしたの?」

 薫が問いかけると、返事の代わりに馬乗りになられる。

「ど、どうしたの?」

 返事もなく、暗がりで紅羽の表情もよく見えない。脈絡のない彼女の行為に薫は不安を覚えた。

「なに、少し食事をね」

「食事って、ご飯は食べたでしょ」

「ボクを老人扱いしてほしくはないな。ボクは普通のご飯では腹が満たされないんだ」

「どういうこと?」

「言っただろう。ボクはキミみたいにかわいい子を攫っては、慰み者にしているんだ」

 月明かりが差し込む、それに照らされた紅羽は、いつもの黒髪ではなく白銀の髪で、地獄の業火が目の奥で燃えているように紅く輝いていた。

「――」

 薫は悲鳴をあげそうになるが、紅羽に口を押さえられる。

「静かに、痛くしたり、殺したりはしないから。ただほんの少し、キミが欲しいだけなんだ」

 そう言う紅羽の顔は、悲し気に歪められていた。

 紅羽は薫に覆いかぶさる。薫は首にちくりとした感触を覚えたが、次の瞬間には意識を手放していた。


「っ……」

 次の朝、薫の目覚めは快適とは言えなかった。頭痛に顔を歪ませ、水を飲むために部屋を出る。

「おはよう」

「うわぁっ!」

 後ろから声をかけられ、薫は飛び上がる。

「なんだ、紅羽か……」

「本当にキミは驚かせ甲斐があるな」

 クスクスと笑う紅羽の顔を、薫は覗き込む。

「どうしたんだい?」

「いや……変な夢を見ただけ。やっぱり黒髪だよね……」

「何を言っているんだ? まだ寝ぼけているなら顔でも洗ってきなよ」

「うん……」

 薫は洗面所へ行き、顔を洗う。

「目は覚めたかい?」

 居間へ戻ると、紅羽がたずねてくる。

「うん」

「それはよかった」

「ところで、僕の制服は……」

「そうだったね。はい、着替えてくるといい」

 そう言って紅羽が手渡してきたのは、女子の制服だった。

「え、これ……」

「最初からそれを着てきていただろう? 忘れちゃったのかい?」

「そうだったかなあ……」

 しかし、薫は大して疑問に思うこともなく、それに袖を通す。

「よく似合っているよ」

 紅羽の言った通り、その姿は女子生徒にしか見えなかった。

 細い体躯と、栗色の髪、どこか自信なさげな眼はどこか小動物を思わせた。

「ところで、おすすめの本があるんだけど、読んでみるかい?」

「本当? 読んでみたいな」

 紅羽の提案に、薫は一も二もなく飛びつく。

「じゃあこっちに来てくれ」

 薫が連れてこられたのは、紅羽の書斎だった。

 そこには壁一面に本棚が置かれており、棚の中には古今東西の本が並べられていた。

「すごい……」

 唖然とした様子で薫が呟く。

「本との出会いは一期一会だからね。見つけるたびに買っている内にこんなになっちゃったよ」

「これ、洋書?」

 薫が手に取ったのは皮張りの本だった。中は英語で文字が書かれている。

 他にもフランス語、ロシア語、スペイン語、中国語など様々な言語の文学がこの部屋には詰まっていた。

「すごいね、紅羽は。色んな国の文字が読めるんだ」

「まあ、渡り鳥のように住む場所を変えてきているからね」

 そう言う紅羽の表情は少しばつが悪そうだったが、薫はさらに目を輝かせる。

「いいなぁ、僕も色んな所に行ってみたいよ。ねえ、話を聞かせて」

「うん。いいよ」

 紅羽は語って聞かせた。彼女が生まれた地では魔女狩りが横行していたこと、それから逃れるようにアイルランドへ行ったこと、そこで出会った芸術家たちのこと、やがてそこを出てロシアへ行ったこと、そこで起きた戦禍、そこにも居辛くなって、各地を放浪した結果、神仏の影響が弱まった日本へたどり着いたことを。

「すごい、すごいよ紅羽は!」

 話の時代背景に違和感を持つこともなく、薫は紅羽の手を握り感動を露わにする。

「紅羽は生まれた時から自立しているんだね。それで色んなものを見て、僕とは大違いだ……」

 感動したかと思ったら、今度は落ち込む。

「ボクと薫は、似た者同士さ。だってどこにも居場所がないのだから」

 紅羽は壊れ物を扱うように、そっと薫の手を握った。


 その後も、薫は誰に知らせることもなくこの日本家屋に滞在した。

 外ではちょっとした騒ぎになったりもしたが、ここに彼がいるということを当人たち以外は誰も知らなかった。

 昼は紅羽と共に本を読み、家遊びをして、夜は紅羽の愛玩人形として過ごす。

 しかし、そんな生活は長くは続かなかった。

 元来病弱な薫は、紅羽の想像以上に早く衰弱していったのだ。

やがて彼は布団から起き上がることもできなくなる。


「ごめん、ごめんね……薫」

 紅羽は眠る薫の枕元に座り一日中涙を流していた。

「どうしたの、紅羽……?」

 目を開けた薫がたずねる。その眼からは既に光が失われていた。

「いや、なんでもないんだ……」

 紅羽は誤魔化すように頭を振る。彼女はこの期に及んでも彼にした行為を知られたくはなかった。

「紅羽のせいじゃないよ」

「え?」

「紅羽の心が泣いているのは伝わっていたよ。もうこれ以上僕の血を吸いたくないって。でも、僕は紅羽に血を吸ってほしかった。そう思ったら紅羽は僕の寝床に来てくれたんだ。きっと、魔術は紅羽にもかかっていたんだね」

「何を、言って……」

 紅羽の赤い眼は驚きに見開かれていた。

「途中から全部気付いていたんだ。紅羽が僕の記憶と意識を操っているって。でも、それを言ったら終わってしまうから。友達との時間が……」

 部屋のテレビにはワイドショーが映っている。そこでは薫のクラスメイトが何やら真面目腐った顔でインタビューを受けていた。

「ねえ紅羽……」

「……なんだい?」

「僕の血を吸ってよ」

「それは駄目だ。これ以上は、本当に……!」

「それでもいいよ」

「キミはわかっていない。吸血鬼に血を吸われて死んだ人間がどうなるか!」

 紅羽は思わず声を荒げる。

「ふふ、吸血鬼になるのかな?」

「笑い事じゃない。永遠の命を持つというのは何よりも苦しいことなんだ」

「それでも」

 薫は紅羽の手を握る。

「僕の居場所は、ここにしかないから」


 二人の少女が夜行列車に揺られていた。

「ねえ、本を置いてきちゃったね。よかったの?」

「別に構わないさ。もう本を読んで無聊を慰める必要もないのだから」

「これからどこに行く?」

「どこでもいいよ」

 栗色の髪をした少女は人懐っこそうな笑みを浮かべ、しきりに銀髪の少女に話しかけるが、銀髪の少女はそっけない態度を取っていた。

「ねえ、まだ怒っているの?」

「当たり前だ。ボクはほんの遊びのつもりで、キミの人生を壊す気なんてなかったのに……キミときたら、無茶をして」

 銀髪の少女は、その恐ろし気な紅い瞳で睨みつけるが、もう一人の少女は全く動じた様子がない。

「だから言ったじゃん。僕の居場所はここにしかないって。遊びでも手を出したなら、責任を取ってよね」

「まったく……」

「まずはヨーロッパに行きたいなぁ、紅羽が生まれた土地を僕も見てみたい」

「ふむ……久しぶりに行ってみるのも悪くないかもね。久々にあっちの少女を味わってみたいしね」

「それは禁止」

「それはあまりにも横暴じゃないか? 薫」

「今時輸血パックとか色々あるじゃん。絶対ダメ!」

「ふふ、妬いているのかい? 心配しなくてもちゃんと可愛がってあげるよ」

 紅羽はスカートに包まれた薫の小ぶりな尻を撫でる。

「や、やめてよ!」

 顔を赤くした薫が腕を振り回すと、その何発かが紅羽に当たる。

「いたっ! 吸血鬼になって腕力も上がっているんだから、少しは加減をしてくれよ」

 話の主導権がくるくると入れ替わる。その様子は仲のいい友人同士にしか見えなかった。

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吸血鬼に襲われたけど色々な意味で新しい世界が開けました。 毒爪マン @Genmai-tea

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