第2話

 時系列は、青年と少年が『異法人』なる化け物退治に勤しんでいたところよりも、少し遡る。


 具体的には、2週間と3日。


 それだけ遡れば、充分である。


 何が充分かって? それは、少年、初風弘久が文字通り『普通の』高校生であった時間に戻るのに、である。


 そう、彼はまだ化け物退治に関わるようになって、2週間と3日しか経過していない、新米も新米なのである。


 そんな二週間前、彼は『普通』という特別なものを失うことになる。


「あー、ねっむ……」


 運命の日となる朝も、彼は普段通り目を覚ました。


 前日、というか日付はとうに変更された当日の明け方までゲームをしていた影響で重力に逆らう力さえほとんど失ってしまっている両瞼を無理やり人差し指と親指を使って広げて眼をこじ開ける。


その見開いた目で部屋の中をきょろきょろと見渡したが、勉強机の上に散らばったゲームソフトと、本棚に飾られた埃のかぶったトロフィーが目に入り、相も変わらず自分の部屋でつまらなさを感じていた。


自分のことを『ヒロ』と親しみを込めて呼んでくれていた友人とも、今はもう疎遠になってしまっていることを同時に痛感させられる、いつも通りの気持ちいい朝の風景だと感じていた。


「あーあ、なんでもかんでも異世界転生させりゃ良いって風潮、どうにかならないかね……」


 ゲームソフトが眼に入ったことで、ヒロは早朝にエンディングを迎えたゲームの内容を思い出して毒づいた。


巷で人気のゲーム。


シナリオが面白いと評判のゲームだが、序盤こそ面白いと思ってプレイしていたものの、途中から「あー、これ主人公の転生スキル強すぎるわー。終盤まで余裕でクリア出来んじゃん」と気付いて気分が萎えた。


しかし、一度購入してしまったゲームは、どんなにつまらなくとも必ずクリアするというヒロ自身の信条に従い、惰性ではあるがなんとかエンディングにたどり着いたのが早朝であった。


もっと他にやりようがあっただろ、それならばエンディングも綺麗でモヤモヤせずにすんだかもしれない。


ヒロは不要なエッセンス一つで全てが台無しにされた先ほどのゲームの記憶を掘り返してしまい、最悪の気分を払拭しようと布団を蹴り上げて飛び起きる。


「……。いやっ、さむっ!」


 布団を蹴り上げてしまったことを、秒で後悔。


十一月も半ばに差し掛かろうという時期だったので当然だが、ヒロはこの寒さのおかげで考えなくてもよいことを必要以上に考えないでいられることを、内心ではありがたく思っていた。


「ヒロー! 今日は学校行くんでしょ? そろそろ起きなよー」


 階段の下から母親が呼ぶ声を聞いて、ヒロも「着替えたら降りる」と、やや声を張って返答した。


制服をクローゼットから取り出して、寝巻から制服に着替えながらヒロは小さく「あー、俺も異世界転生出来るもんならしてーなー」と呟いた。


着替えの際に、鏡に映った膝の傷跡を見て疼いたが、寒さのせいだと自己暗示して急いで着替えた。


約半年前、怪我によってヒロはサッカーが出来なくなった。普通のプレイヤーとして、ボールを蹴ったり走ったりというのは問題なくこなせるのだが、足先の器用さや細かなテクニックを駆使してプレイして来たヒロにとって、膝の深い傷は選手としての致命傷となってしまった。


その傷は、ヒロの体だけでなく、自尊心にも深々と爪痕を残し、ヒロの心からプレイスタイルを変えてサッカーを続けるという選択肢を奪い去った。


その事故から半年が経過し、傷が完全に塞がった今でも、膝がズキズキと痛むことがある。


そんな日は事柄の大小はあれど、何かしらの事件が起きる前兆であることが多い。


ヒロ自身、不吉の前兆と考えている忌々しい鈍痛を感じながら、嫌なことが起きなければ良いがと、目覚めから憂鬱な気分を深めてしまった。


 リビングへ降りると、すでに父親は家を出たようで、母親も身支度と食事を済ませてパートの準備をしていた。


テーブルにはトーストとジャム、コーヒー牛乳が並べられており、急激に空腹感に見舞われる。


「おはよ」


空腹を何とか自制したヒロが小さく言うと、母親も化粧をしながら「おはよー」と返す。


果たして母くらいの年齢になっても若作りが必要なのかと思って、なぜ出かける前には化粧をしなくてはいけないのかと聞いたことも幼い頃にはあったが、なんと答えられたのか忘れてしまったし、最近は『女性はそういうもの』という認識でヒロの中では落ち着いている。


 トーストにジャムを塗って、コーヒー牛乳で流し込むと、暖かさと冷たさで空腹が満たされる感覚が、なんとも心地よく感じていた。


 そんな、初風一家のいつもと変わらぬ朝の風景は、その実一年前とは多分に異なる物でもあったことが思い出されそうになる。


 ヒロがまだサッカー部の期待の新人であった頃。


朝練はしんどかったが、それでも充実感があった懐かしい日々。


「あー、今日寄り道して帰るから、ちょっと遅くなるかも」


 過去の記憶を自分の奥の奥の、さらに奥の方へとしまい込もうと、ヒロは口を開いた。


「母さんもパート夕方まであるから、そのほうがありがたいかも。夕飯は家で食べるでしょ?」


 母親はヒロのそんな様子を察してか、あまり深くは言及しない。


ヒロも「うん、そうする」と短く答えた。


 その後ヒロは朝食を、母は化粧と支度をと、各々黙々と自分の事を進めていた。


 身支度を終えたヒロは、家を出て自転車で通学路を走った。


意識的にか、無意識でか、極力部活動の練習風景には目を向けないようにして、高校の方へと急いだ。


 高校に着いても声をかけてくるような友人など今はもう居ないので、駐輪場へ自転車を停めて下駄箱へ向かう。


ガラス扉になっている正面玄関の前では遅刻指導の体育教師が机を準備し始めており、もうそんな時間かと小走りで扉を抜けた。


幸い、体育教師が早く準備を始め過ぎていただけで、まだチャイムまで五分以上もあり、ヒロは少し損をした気分を隠せない表情を浮かべた。


 そして、これまたいつも通りに靴箱を開ける。


「……」


そこでヒロは周囲の時間に取り残されたように、体も思考もフリーズした。


「……。は?」


 過去にはヒロも貰ったことがあるもの。


その頃は幼かったこともあり、ヒロ自身意味があまりわかっていなかった。


しかし、ベタな靴箱というシチュエーションでは初めてで、尚且つ外見を一瞥しただけでどういった意味を持つものなのかがよくわかる。


慌てて周囲を確認。


 ヒロと同じように遅刻寸前だと思って玄関を駆け抜け、友人達と「なんだ、まだ時間あるじゃんかよ~」等と言い合っている生徒ばかりで、ヒロの方を気に掛ける生徒など一人としていない。


それでもヒロは細心の注意をはらって、そのモノ、平たく、ヒロの知るものに最も近しいもにして言えば、『ラブレター』と呼ばれるものを急いでポケットの中にしまい込んだ。


その拍子に角の方が少し丸まってしまったような感じがしたが、そんなことに構っている余裕は、この時のヒロにはなかった。


 自分宛でないものを受け取ってしまっては気まずさと恥ずかしさで立ち直れなくなると思い、念のためにロッカーの番号を確認しておくが、ヒロの靴箱に間違えはなく、冷静に考えてみれば開閉回数が通算百回は越えているであろう靴箱の位置を間違えることなど、あろうはずもなかった。


 それからヒロは可能な限り平然に教室へと入り自身の席へと着席したが、内心ではそわそわしっぱなしであった。


「おはよ……」


 誰にともなく、ヒロは口の中で消えるような声で言った。


 当然、誰も気付く者はいなく、各々が雑談に勤しんでいる。


(今日も朝の挨拶はなしっと……)


 心の中でこそ少々残念には思ったが、ヒロ自身が友人を作ろうという努力さえしていないので、改善の余地もないことに自身で気づく。


ヒロは、『仕方ないか』と一人肩を落とす。


 ある時期から、飛び抜けて楽しいことや夢中になれることが起こらなくなった日常も、ヒロは嫌いではなくなった。


現在では、しがらみなく悠々自適に生きられる日常が愛おしくすら思えている。


(でも、まぁ、こんな風に非日常があるからこその日常なわけで……)


 退屈な日常に突如訪れたスパイスに、ヒロは楽しみやら、なぜか背徳感のような感覚やらで、まだまだ興奮は冷めそうになかった。


 ヒロがラブレターについてあれやこれや考えているうちに、ホームルームの開始を告げるチャイムが鳴った。


古く鳴ったスピーカーから流れてくるチャイムは、不恰好に音を外していたが、長く聴いていると通常のチャイムの音の方を多くの生徒は忘れてしまっていた。


人間の『慣れ』というのは恐ろしいものである。


チャイムに呼応するように、教室で談笑していたり、朝練に出ていたりしていた生徒がぞろぞろと席について行った。


生徒の流れがある程度落ち着いてきたところで、神経質らしい銀縁メガネで七三分けの担任、『ヨシカワ』が教室へと入ってきた。


担任教師の登場と同時に、ざわついた雰囲気は水を打ったように一気にしんと静まった。


ヨシカワというのが苗字であることは確実なのだが、漢字がどうにも見慣れないものだったとヒロは記憶しており、どんな字で書くのかは、ヨシカワの薄いキャラクター性も相まって、もはや覚えていなかった。


出席と今日の連絡事項を事務的に告げたヨシカワは、特に無駄話をすることもなく足早に教室を出て行った。


無愛想に見えるヨシカワだが、ものの五分とかからない時間で上手くまとめられており、入学当初はヒロもホームルームという時間が掛かりがちな習慣が、短時間で完結できることに驚いたものである。


ヨシカワは、おそらく彼が入り浸っている理科準備室にでも向かったのであろうことはヒロ以外のクラスメイトにも容易に想像が付いていた。


 何にせよ、朝の無意味なホームルームの時間が他のクラスに比べて早くに終わるというのはありがたいことである。


この日はいつもより深くヨシカワに感謝をして、ヒロは気配を消して、早々に男子トイレへと向かったのであった。

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ForeignerS 椋畏泪 @ndwl_2nd

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