元はヤのつく家政夫メスお兄さん、今日も無気力探偵の世話をする

上衣ルイ

依頼之一 カッサンドラ婦人

一、


「あ。高雄さん、帰ってきた」


七月の蒸す朝。

宮田八戸みやたやえは玄関が開く僅かな音で目を覚ます。

夏だからと横着していた、下着だけの恰好の上にシャツとスラックスを履き、かけてあったエプロンを掴んだ。

自室を出て、短い廊下を走る。小さな窓から差し込む朝日が、八戸の亜麻色の髪を照らした。

八戸の自室からすぐ左手が応接室で、キッチンダイニングと隣接している。

狭いんだか広いんだかよく分からない構造のせいで、この興信所にはプライベートと仕事の敷居というものが曖昧だ。まるで主人そのものを表しているように八戸は思う。


高雄興信所たかおこうしんじょの主人は、一度外泊するとなかなか戻ってこない。

この興信所の家政夫として雇われて三年経つが、八戸が主人をきちんと玄関でお出迎え出来た数は少ない。

そのうち玄関が鳴らす、ほんの小さな軋みの音で目が覚めるようになったくらいだ。


「高雄さん、お帰りなさい。また電話せずに帰ってきましたね?」


古びた黒いソファに向かって声をかける。

黒い革張りの三人掛けを独り占めして、大きな足が肘掛けからはみ出ていた。

返事はない。八戸がひょっこり覗き込むと、寝息すらなく、足の主は新聞紙を顔に被せている。

新聞紙をぺろっと引き剥がす。分厚い胸をゆっくり上下させ、高雄ジュンは瞼を固く閉じていた。

帰ってきて十分とも経たないのに、もう入眠の姿勢に入ったらしい。

外は晴れだというのに、高雄からはいつも雨に濡れる空気と、セブンスターの苦い匂いがする。

くすんだ金髪を指で梳いて、八戸はソファの背もたれから正面へと回り込む。


「ベッドで寝た方がいいですよ、高雄さん。起きれますか?」

「嫌だ……だりぃ……」

「せめて服を着替えましょう。汗かいて濡れてるでしょう。風邪ひきますよ」

面倒めんどい……」

「しょうがない人ですねえ」


寝ぼけているにしろ、起きているにしろ、着替えはさせてやらねば。

八戸は高雄の自室から、新しいシャツとズボンを持ってくる。

ソファに片手をついて、仰臥位の高雄の背中に腕を回し、しっかり抱き込んでから起こす。

唸り声を上げるものの、高雄はされるがままに八戸へと撓垂れる。重い。

細腕にはこたえるが、もう慣れたものだ。

座位の状態で、汗ばんだシャツを脱がせていく。相変わらずされるがままだ。

あ、と小さい声が漏れる。左腕上腕部に包帯を巻いていた。どこかで傷を負ってきたらしい。


「怪我してるじゃないですか。何があったんです?痛みますか?」

「………………平気」

「嘘言ったら詰めますよ」

「なにを……?」

「正直に言えば知らずにすみますよ」

「……ナイフで刺された。結構痛い……」

「腕曲げられます?」

「ちょっと無理」

「分かりました。それと、次にまた傷のこと隠したら怒りますからね」

「ん……」


先に体の左側から服を脱がせ、右側は自分で脱いでもらう。介護の基本は半自立だ、と近所に住む介護士が言っていた。特に着替えに関しては。

すかさず持ってきた新しいシャツを着せて、素早くボタンを閉める。朝のスケジュールが押している。

ズボンも同様に脱がせる。大抵、介護される側というものは、ズボンの着脱に抵抗を示すものだが、高雄はそれに反抗の一言すら漏らすことはない。

八戸としては大変楽だが、如何せんずっと脱力したままなので、脱がせる時が一番難しい。

「高雄さん、足伸ばしてください」などと一言ずつ声をかけて、ズボンを剥いで、新しいズボンに足を通す。

八戸は最近気づいたが、高雄は腰を背中側から叩くと無意識に尻を上げる癖がある。これを知ってから着替えが楽になった。

最後に血まみれの靴下から足を引っこ抜いてやる。足に傷はないので、せいぜい血溜まりを踏んだ程度だろう。洗濯籠が早くも血生臭い。

着替えが終わると、また高雄はソファに丸くなり(尤も、足ははみ出たままだ)眠りに落ちる。


「(高雄さん、また生傷増えたなあ。ここのところ、絶対どこかに傷跡こさえて帰ってくるんだから……)」


傷の程度は軽いが、体力の消耗が見られた。暫く寝かせておいた方がよさそうだ。

血の付いた衣服は一旦、熱いお湯に入れて揉み洗いする。血抜き用の洗剤もそろそろ買い足さなくては。

八戸は溜まっていた衣類を洗濯籠に詰めて電源を入れ、買い物リストのメモに洗剤や足りなくなった食材をメモしていく。

久々に帰って来たのだから、精のつくものを食べさせよう。肉じゃがなんかよさそうだ。

人参と玉ねぎ、じゃがいものストックは足りている。となれば、しらたきか糸こんにゃく、それに豚肉を買い足した方がいいかしら……。

昼食は決まり、夜は後で考えよう。ひとりごちて、電話をかける。

連絡先は青海あおみという若い女外科医だ。高雄が外で傷を負った時、いつも面倒を見てくれる。


『おはようございます、青海です』

「朝早くからすみません、青海先生。いつもお世話になっています、宮田です」

『ああ、久しぶり宮田くん。私に連絡をくれたということは、また高雄さん絡みかい』

「ええ、外でどうやら怪我したみたいで。腕だけだし、程度は軽そうなんですけれども。診てもらうことは出来ますか?」

『彼の仕事は何かと無茶が絶えないね。……昼休みにそちらへ向かおう。丁度いい、話もあったことだからね』

「話、ですか?」

『私の患者が探偵を探していてね。依頼を受けてくれないかい』

「モノによると思いますよ」

『美女の若い人妻が依頼人でも?』

「なおさら駄目ですよ。絶対。美人の若い人妻だなんて、答えが目に見えてる餌で釣ろうとしないでください」


ちらり、とソファで眠る高雄を盗み見る。

すっかり寝入っているようで、クッションを抱いたまま微動だにしない。

もし今の会話を耳にしていれば、美人に目のない彼は、二つ返事で了承したことだろう。

高雄ジュンという人間のことは、八戸もそれなりによく分かっているつもりだ。

彼は美人と酒、そしてトラブルの気配を好む。危険に首を突っ込むことに魅了を超えて、偏執さえ覚えているような男なのだ。

八戸の澄んだ翠の目が困惑に揺れる。

少し押し黙り、青海は「患者のプライベートは本来口に出来ないからね、他言無用だよ」と念を押し、口を開く。


『まあまあ、ただの美人で若い人妻ってだけで終わらないから、君に話しているんじゃないか』

「……大方、夫の素行調査だとか、家族を探してほしいだとか、そういった類でしょう?よそでも出来る仕事じゃないですか」

『勘が鋭いねえ、前者の方だよ。ただ、この素行調査が成功した試しがないらしくて。詳しいことは本人から聞いてくれないか』

「好きで聞いてるわけじゃないですし、まだ受けるとは言っていませんよ」

『成功したら、相応の報酬をお支払いするとさ』

「いや、お金の話じゃなくですね。高雄さん、怪我人なんですよ?それでなくとも、いつも何かとおかしな依頼ばっかり寄越されて……」

「おい」


八戸の頭上に、声が落ちてくる。

ぎょっとして肩をこわばらせ、振り返る。まだ眠たげな金色の目が、八戸のうなじを見下ろしている。

通話が繋がったままのスマートフォンをひったくり、高雄は尋ねた。


「事務所の住所と電話番号、その奥さんとやらに伝えておいてくれ」


そう返すなり、青海との数度のやり取りの後、電話を切る。

言葉を挟む余地すら入れてもらえなかった。ぽいっとスマートフォンを投げて返し、高雄の巨体は再びぼすん、とソファに沈む。

置いていかれた八戸は、唖然と一連の行動を見ている他なかった。

呆れたとばかりの視線に気づくと、高雄はへら、っとだらしなく、無精髭だらけの顔で笑いかけた。


「美人の依頼は断らない。うちのモットーだからな」

「……もう!高雄さんのばか!すけべ!知りませんからねッ!」

「お昼はチャーハンがいい」

「今日は肉じゃがって決めてるんです」

「でもチャーハンがいい。エビが入ったやつな」

「もうッ!買ってきます!ばか!」


ぷりぷりと怒りを露わに、八戸は財布とエコバックを手に、玄関へと駆け去る。

高雄は「うるせえ」と笑いながらテレビをつけ、そのまま夢の世界にダイブする。

もう一度八戸が「高雄さんのばーか!」と喚き、玄関の扉を閉める。

怒る八戸を茶化すかのように、洗濯機がピーッピ、と、洗濯終了の音声を流していた。


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