額縁
生ぬるい風が、絶えず居間に流れてくる。
家といいつつ、どこからどこまでが家なのか――――。
隙間風がそう思わせる。
ああなんだって私は、こんな家に生まれたのだろうか。
思えば、何をやるにも制約があった。
少し離れた、それでもまあ近所のみちちゃんは、習い事も多かったし、CMで流れている子供向けの商品はそれなりに持っていた。
うちには来なかったサンタも毎年来て、誕生日などという素敵なイベントには、思い出の詰まったアルバムを皆で眺め、その日までで一番欲しかったものを必ず貰っていた。
比較して私はどうだっただろう。
したいと思った習い事は悉く却下されたし、子供向けのCMが流れると、不機嫌になる父親の顔を見て、言葉を選んでお茶を濁し、手持ち無沙汰に麦米を口に運んでいた。
サンタなんて来た事もなければ、アルバムすら無いし、誕生日のプレゼントは母の作ったひどく甘い牛乳寒天か、少し贅沢な年は市販のお菓子の素を使った、鼻に抜ける香りがやたら甘ったるい、これでもかと後を引くお菓子が出て、小躍りしたものだった。
ケーキなんてものは勿論無かったが、みちちゃん家では、誕生日には当たり前に出るものであったそうだ。
それでもうちが貧乏である……なんてことに気付いたのは、意外にも遅かった。
高校生になって、学食に割く予算の違和感に気づいた頃であっただろうか。
私はうどんに具なんて乗せられなかったけど、友達は皆具が乗っているものか、それか少しばかり豪華なおかずと、米ではなく麺でもなくパンでもないような、高いくせによく分からない主食をオシャレだと言ってこぞって頼んでいた。
腹にもたまらないそんなもの、誰が望むんだろうかと思っていたが、どうやらその人自身ではなく、他人に向けて金を使っていたようだった。
現行型のスマホを持って、学食のくせに背伸びしたオシャレなランチ、それを撮ってSNSに載せて、そこから……そこから、コメントが来て、羨ましいねなんて言葉が、何よりも嬉しいんだそうだ。
現行型のスマホだって、とんでもない贅沢だ。
私なんて叔父さんのお古のスマホで、夏場はすぐさま調子が悪くなるし、流行りのアプリだって対応してない事が多くなってきた。
と、貧乏話はここまで。
何故ここまでなのか?今私は希望に満ちている。
なぜならば、高校生という時分は、自ら金銭を稼ぐ事ができるのである。
私は今、バイト募集のパンフを隅から隅まで眺めつつ、稼いだお金を何に使うのか、ただひたすらに心を躍らせている。
「ラブちゃん、宿題はやった?」
気怠げな母の声は、やけにイラつく。
「やったよ。そもそも、今宿題って言う人がもう少ないんだけどね。」
「ああそう。そうなの?なんだか歳食っちゃったって感じね。貴方の方がよっぽど、今に詳しいんだって事かな。」
呆れたようで、惚けたように肩をすくめる。
そんな仕草が、尚更私を苛立たせる。
「くだらない事話してる暇なんてなくてさ。私は勉強だって勿論やらないといけないし、何より、働けるようになったんだよ。自分の意思で、自分の働きたい時に。まあ、時間の年齢制限はあるけどね。集中したいからあんまり話しかけないで。」
母の惚けた顔は、捻られたように見た事もなく歪んでいた。
「あなた、それ本気で言ってるの?」
「本気じゃなかったら何?私だって、皆と同じ様に親に頼って生きたいよ!でも、そうは行かないでしょ?だから自分で稼ぐって言ってんの。」
吐き出した気持ちの納まりもなく、納め方も知らずただ母の表情を凝視する私と、絶句した母がまたうやうやしく手を口に添えるその動きが、殊更に私を苛つかせた。
濁音で金属が激しく擦れる音が鳴り、乾いた音と同時に、緩い風が壁の隙間に滑り込んで行く。
父が帰宅したようだ。
ああ、また母はヒステリックに父に詰め寄る。
まあどうせまた、貴方の無関心がとか、安月給で飲み歩いてとかそんな話を――――
「既定のマニュアルより早く、反発心と自立心が確立されたみたいよ。」
「なんだって?この子がかい?いやそんな……ああそう、そうだね。人とはそういうものか。想定されたレベルとは所詮……そうか、なんとももはや……。」
顰めっ面をごまかすように父は咳き込み、向き直って私に告げた。
「ああ、いや、すまない。本来の予定ではこうはならないはずだったんだが、伝えなくてはならない。……本当は私は定職に就いていてね。そう、ああ公務員なんだが……給金もそれなりにあり、あ、そうボーナスもしっかりね。君の周りの友達の、その家庭よりも少しは……いやかなり裕福に」
「それもこれも、国の方針というもので、どこから話したら良いものか……。とにかく君は、社会のバランスを保つ一つの部品なんだよ。利益を独占する特権階級。本来であれば税制改正により再分配する筈が、日常的に献金を受ける政治家達は特権階級を保護する為に動き続けた。覆しようの無い格差の広がる中、下がり続ける中央値の生活水準。その中央値にあたる市民が、自分よりはまだマシと思えるような底辺家庭――といったものかな。その為に作られた家庭を、国の方針に則って演じて行かなければならない。中央値の市民が、政府に対するフラストレーションを溜めないようにね。」
急に打って変わった。などというレベルではなく、いかにも豹変した父の様子にまだ適応できていない私に、父は無情に告げる。
「私と君は、血など繋がってはいない。無論妻と君もね。本来であれば、君は底辺家庭に生まれ育ち、その環境のままに底辺の生活を死ぬまで続ける筈だった。大人になってやれ家庭のせいだと自身の現状を嘆くわけだ。しかし、君は早くも自身の環境を嘆き、打開する為に働こうとしたと。通常、売春なり犯罪なりに堕ちていくのが、想定される行動なんだが……。この環境にあって正当に自立を図る君は、ある意味国が求める誠実な人間なのだよ。」
今の今まで、血という堅い絆で結ばれていると思っていた男が、無機質な表情で告げる言葉に、私は現実を感じる事が出来ずにいる。
「その様な人材は、私や妻と同じように、底辺家庭を演じる役を担うことができる。国の求める、収まるべき額縁に沿った家庭をね。これは非常に光栄な事だよ。現に私は、他の人間を遥かに超える所得があり、その実は裕福に暮らしている。君も、やがてその役目を負うことになる。底辺の額縁に収まり、その実破格の報酬を得て過ごす。そんな日々をね。これは、君のように、貧乏の額縁に収まることを強いられ、且つ自身でもって未来を切り開く程の地力を持った人間にしか、得られない特権なんだよ。だから、安心して欲しいんだ。」
ああ、これが夢であればどれほど――どれほど。貧乏なだけの、まっさらな人間なら、どれほど――。
翠の悲鳴 @hankus
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