035「大団円」

 意識が落ちる瞬間。僕は彼女のことを思い出していた。


 相変わらず彼女の顔を思い出すことはできなかったけど、【黄昏】の住人となった後の姿は今でもきちんと思い出せる。


 目や耳や鼻が数え切れないほどに顔中を埋め尽くしていて、原型をとどめないほどに沢山の腕が身体中から生えていた。それらがもぞもぞと触角のように動き回り、汚らしい粘液と共に抜け落ちたり新たに生えたりを繰り返していた。


 それは、誰もが目をそらしたくなるおぞましい姿だった。


 社長は、僕が彼女の顔を思い出せないのは、僕が【黄昏】での彼女の姿を恐れているからだと言った。


 あの理解できない化物を遠ざけるために。

 思い出の中の彼女と結びつけないために。

 つまりは、記憶の中の彼女を守るために。


 僕は自分から彼女の顔の記憶に蓋をしているのだ、と。


 多分、社長の言葉は正しい。僕自身、あの化け物の姿を思い出すだけで身震いしてしまう。あの化け物と彼女が同一人物だなんて、信じたくない。


 でも……。


『あなたは、ここに来ちゃ、ダメ』


 あの言葉は、間違いなく彼女のものだった。


 命を落としながら、おかしくなりながら、元の姿が分からないほどに身体を痛めつけながら未練を追い続けることしか出来なくなっていた彼女が、僕の姿を見て言った言葉。


 大曲おおまがりを【黄昏】から引き戻そうとしたあの瞬間、僕はその言葉に込められていた想いをはっきりと理解した。


 化け物みたいな姿になっても、気が狂ってしまっても、彼女は僕のことを覚えてくれていた。僕のことを守ろうとしてくれた。


 それほどまでに、僕のことを想ってくれていた。

 あんな姿になってもまだ、僕のことを想ってくれていた。


 こんなに嬉しいことが、他にあるだろうか。


 やっぱり、間違いなく、あれは楓だった。


 それを、僕は今、全力で言う事ができる。

 すれ違った後悔と、もう会えない虚しさと、気づけなかった悔しさと……

 そしてめいっぱいの感謝を込めて。






「……うぅぅうう」


 病室のベッドの上で、低いうめき声と共に大曲おおまがりは目を覚ました。


「……気がついたか」


 病室は個室で、僕と大曲おおまがりしかいない。部屋はしんと静まりかえっており、僕らの声の一つ一つがやけに大きく響く。窓の外は既に真っ暗で、月明かりが差し込んでいる。


「……ここ、病院? なんで……?」

「ぶっ倒れたお前を僕が運んだんだ」


 僕の「あきおヴォルテッカー(スタンガン)」によって仲良く意識を失った僕と大曲おおまがりだったが、僕の方が先に目をさますことができた。


 すぐに大曲おおまがりの姿を確認する。気を失っているが息はあるし、身体に異様な変化も起きていない。ひとまず、無事に【黄昏】を出ることができたらしい。


 ただ、そのまま道に転がしておくわけにもいかず、満身創痍の身体にむち打って、伸びていた大曲おおまがりを背負う。幸い、病院は目の前にあった。


「お前、とりあえず一日入院だってよ。疲労と貧血と……あと腕の筋切れかけてるらしい。多分、僕のことぶん投げた時やっちまったんだろう。明らかにリミッター外れてた感じあったし」

「……」

「……いっとくけどな。こんな軽傷で済んでるのどう考えても奇跡だからな。一歩間違えれば奇形死体になっててもおかしくなかったんだから。ホント、偉大な先輩に感謝しろよ?」

「…………」

「おい、なんとか言えよ。あれか? いきなりスタンガンぶち当てたこと怒ってんのか? 悪かったよ。でもな、鈍痛よりも一瞬で強い痛みが走る方が効果的なんだよ。だからスタンガンが一番良くて……」


 頼まれてもいないのにべらべらと言い訳を垂れ流す僕を完全に無視して、大曲おおまがりはボンヤリと周囲を見回している。


「……いない」


 ぽつり、と大曲おおまがりがつぶやく。


「いない? なにがだ?」

「あの人達がいない……。手の多い人とか、身体細すぎる人とか、髪が長すぎる人とか……」

「? 【黄昏】の住人のことか? そんなの……」


 ああ、そうか。


 大曲おおまがりはここ数年、ずっと【黄昏】にいた。むしろ住人がいない光景の方が珍しいのかもしれない。逆に言えば、今、大曲おおまがりはきちんとこちら側に帰って来ることができているということになる。


 数年もの間、何があってもずっと【黄昏】から戻って来ることができなかった、つまりは自らの「生」を感じられずにいた大曲おおまがりが、なぜスタンガン一発で戻ってこれたのか。


『自分以外の誰かとつながりを持つこと。自分以外の誰かが確かにこの世にいることに気づくこと。そうすることで、自分の『生』はよりはっきりとした輪郭を帯びるものだからね』


 社長の言う事が正しいなら、大曲おおまがりが他者との「つながり」を強く自覚したからだ。自分以外の誰かのことを強く想ったことで、自分の存在を確認する事ができた。つまりは「生」を感じることが出来ていた。


 ただし、【黄昏】の中で強く誰かを想うことは死を意味する。想いの強さに身体が付いていくことが出来ず、肉体を損なって終わりだ。並木楓なみきかえでを追いかけた時の僕と同じように。


 他者を想わなければ【黄昏】を抜けられず、他者を想えば【黄昏】が「死」に導く。


 そんなデッドロック状態を解消させる為には、今回の方法しかなかった。

 つまり、「生」から「死」へと移行されるその丁度中間にいる、自分の身体をちゃんと感じることができる状態の大曲おおまがりに、強烈な痛みを与えて無理矢理こちら側に引き戻す。


 手荒で危険な、でも多分唯一の方法だ。


「……お前は戻って来たんだよ。【黄昏】から普通の世界にな」


 色々言いたいことはあったが、僕は取りあえずそれだけ言った。詳しく説明するのは難しいし、一気に情報を与えすぎても混乱するだけだ。コイツが退院してから、ゆっくり話せばいい。


「……どうして?」


 殆ど空気だけが漏れ出したような、か細い声がした。


「……なにがだよ」


 そう問い返す途中で、大曲おおまがりが突然僕の胸ぐらをつかんだ。


「どうして!?」


 叫び声と共に、大曲おおまがりは必死の形相でにらみつけた。本当に僕を恨んでいて、本気で殺そうとしている目だった。腕の筋を痛めていなければ、きっとそのまま殴られいただろう。


「どうしてそのままにしてくれなかった?! どうして行かせてくれなかった!?」

「……」


 大曲おおまがりはものすごい剣幕で叫び続けた。目にはうっすら涙が浮かんでいる。


「やっと、やっと見つけたんだ。自分がいる意味。ずっと分からなかった。お父さんとお母さんとお兄ちゃんが、どこかに行っちゃってから、あたしだけが捨てられて、置いて行かれてから、自分がいる意味が分からなかった。ずっとずっと……」


 大曲おおまがりは怒りにまかせてつかんだ胸ぐらを両手で揺さぶった。

 歯を食いしばって、耐えるような顔をしている。ケガしてるんだ。痛いだろうに。


「死んでるのと生きてるのの違いが分からなかった。何をやっても誰としゃべっても、何も感じられなくて、色んなことどんどん忘れていって、忘れることもどうでも良くなって、自分の身体の場所が分からなくなって、どれだけ怒られても、どんな痛みを受けても、自分のことに思えなくて、怖いとか、痛いとかも感じなくなって、化物みたいな連中を見ても、何も思わなくなって……」

「……」

「自分がおかしくなってることは自覚してた。でも、おかしくなってることすらどうでもよかった。あの日死ぬことができなかったあたしは、どうせ生きていても死んでいても変わらない。だからどうなってもかまわない。だから誰とも関わらない。テキトーに、その場限りでいい。ずっとっずっとそうしてきた!」


 大曲おおまがりは揺さぶった勢いで僕を投げ飛ばした。

 受け身を取れず、背中を強く打ち付ける。今日はこんなことばっかりだ。


「でも、でも、『救い』。お母さんとお父さんとお兄ちゃんを【黄昏】から解放する! それがあたしには出来るかもしれない!! みんなを助けられたら、『救って』あげたら、そしたら、そしたら……」


 あたしのことも、連れて行ってくれるかもしれない!!


 大曲おおまがりの声が部屋の中に響く。

 それは、恐らく初めて聞いた、大曲おおまがりの本音だ。


 大曲おおまがりがみつけた他者とのつながり。

 それは、亡くなった家族とのものだった。


 大曲おおまがりの「生」の輪郭を持たせたもの。

 それは、家族と共に死にたい、という強い想いだった。


「なのに、なのに……どうして邪魔したの? どうしてあのまま行かせてくれなかったの? どうして……」


 ぼろぼろと涙をこぼしながら、絞り出すように大曲おおまがりは言った。心の底から僕を恨んでいることが分かる声だ。どれだけヤツが本気だったかが伝わってくる。


 確かに、あのまま【黄昏】の中で家族の姿を探し続ける方が、家族と共に「救い」によって消滅する方が、大曲おおまがりにとっても幸せだったのかもしれない。


 仮に、家族を見つけられずに【黄昏】の住人として永遠にさまよい続けることになったとしても、何も感じられないまま、なげやりに生き続けるよりはマシなのかもしれない。


 でも、それでも、僕が大曲おおまがりをこちらの世界に引き戻したのは……。


「……お前が死にそうだったからだ」


 ゆっくりと立ち上がり、僕はそう言った。


 大曲おおまがりは一瞬わけが分からないという顔をした後、呆れかえったように乾いた笑い声を上げた。


「あはははは! 死ぬ? 話聞いてなかったの? 今更そんなことどうでもいいよ。身体が生きてるとか死んでるとか、もうあたしにとってはどうでもいいの」


 カラカラと乾いた笑いが続く。

 何もかも諦めた、聞くに堪えない痛々しい表情には、どこか既視感があった。


 そうだ。楓。あのときの楓と似ている。

 自分の絵と、自分が今までしてきたことと、自分の未来全てを諦めて、寂しく笑った時と同じだ。


『大丈夫。分かる人は、分かってくれるから』


 あの時、僕が言ったこと。

 それを僕はずっと後悔している。

 あんな突き放すような言葉じゃない。きっともっと言うべきことがあった。

 もっと、彼女に寄り添う言葉があったはずだ。


「どうでもよくなんかない」


 ベッドにゆっくり近づく。大曲おおまがりを真っ直ぐ見つめる。絶対に、目をそらさないように。心の中で意志を固める。


「なんで……あたしなんていてもいなくても……」


「少なくとも、僕は!!」


 そして、今度は僕が大曲おおまがりの胸ぐらをつかむ。

 驚きで見開かれた大曲おおまがりの瞳を、片方だけの目で真っ直ぐ見つめて言った。



「お前に死んで欲しくない!!」



 今までどうだったかは分からない。これからどうなるかも分からない。

 でも、それでも、今、目の前の僕という存在が、お前を必要としている。

 生きていて欲しいと思っている。


 これが正解かどうか分からないけど、正真正銘、僕にできる精一杯だ。

 かつて、僕が楓に伝えるべきだった想いの全てだ。

 そして、僕に大曲おおまがりに伝えられる想いの全てだ。



 叫んだ瞬間、部屋の中が静まりかえった。大曲おおまがりは、しばらく硬直したあと、うつむいて黙り込んでしまった。


 永遠とも思えるような重苦しい沈黙の後、大曲おおまがりがぼそりとつぶやいた。


「なにそれ。告白でもしたつもり?」

「違う」

「あたし、自分より背の低い人恋愛対象として見られないんだけど」

「奇遇だな。僕も自分より高身長は願い下げだ。今のはあくまで、職場の同僚として、だ」


 なにそれ、と大曲おおまがりは自嘲気味に笑った。僕は大曲おおまがりから手をはなした。


「そんなの、自分勝手じゃん。自分が死んで欲しくないから死ぬなって、そんなのエゴでしょ」

「もちろん。エゴだ」


 でもな、と僕は続ける。


「生きてれば、僕みたいなヤツはいくらでも現れる。勝手にこれからしがらみがワラワラ増えていく。お前に死んで欲しくないって思うヤツの勝手な想いで雁字搦がんじがらめになってくんだ。生きるってのはそういうもんだ」

「……」

「そんな煩わしいしがらみに絡まって、もがいたり、苦しんだり、時々支えられたりする中で、本当に大事な人間が見つかるんだよ。相手を想い、相手から想われる。そんな結びつきがな」


 桂木かつらぎさんと大貫おおぬきさんみたいな、死さえも乗り越えるような強いつながり。

 それが、これからお前にもできる。

 だから、「死」にしか向かわないつながりなんて求めるな。

 生きてることを心から喜べるような出会いが、つながりが、きっと待っている。


「それまでは、僕のエゴで生き続けろ」


 簡単に、死なせたりなんかしない。

 お前は僕の大事な後輩だ。



 大曲おおまがりは再びしばらく口をつぐんだ後、涙でしゃがれた声で言った。


「……せんぱい、そこは、『お前を一生大切にする』的な流れなんじゃないっすか? エゴで生き続けろって説得、聞いたことないっす」

「嘘はつけないからな。仕事の後輩以上の感情はお前に持ち合わせてない」

「変なところ律儀っすよね……ここは勢いで押し倒す位の甲斐性がほしいっす」

「ホントにしたらどうするつもりだ……」

「ぶっ壊れるほどナースコール連打するっす」

「殺意高!」


 自分が死ななくなったからって、僕を社会的に殺そうとするな!

 そんなところで帳尻あわせなくていい!!


 飛び退くように大曲おおまがりから距離を取った。が、上手くいかずに尻餅をついた。

 大曲おおまがりはそんな様子見て、ケタケタ笑った。


 ここ半年間何度も見た、見るものをイラつかせる笑い方だった。


「……もういい。帰る」

「もう、せんぱい拗ねないでくださいっす! 大人げないっすよ!」

「うるさい! お大事にな!!」


 もうすっかり元に戻ったらしい。忌々しい……。

 肩を怒らせて病室をでようとする。


「あ! ちょっと待つっす!!」


 大曲おおまがりが背中越しに呼び止めてきた。

 また罵倒でもされるのだろうか。と、覚悟を固めて振り返る。


 すると、そこには、見たことのないような満面の笑みを浮かべた大曲おおまがりがいた。


「ありがとう。せんぱい」


 そう言った大曲おおまがりの表情に、少しドキッとしたことは、それこそ死ぬまで秘密にしようと僕はそっと心の中に誓った。

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