032「回想〜大曲ななみ①〜」

「はぁ……はぁ……」


 大曲おおまがりを探して、街中を走り回る。既に街は日が落ちかけ、大分暗くなっていた。


 息が上がる。足が重い。徐々に自分の身体の境界線がぶれるのを感じる。少しでも気を抜くと全身がバラバラになってしまいそうだ。


 日が落ちた後の【黄昏】はいつも以上に危険だ。よりいっそう自分の姿を保つのが難しくなり、ほんの小さな「望み」でさえも自分の身体に変化が起こってしまう。


 走る息苦しさが増すほど、自分の身体の意識はより強くなり、【黄昏】から現世に引き戻されてしまう。


 高まる「生」の感覚を中和するように、頭の中で必死にトラウマを引きずり出して「死」を想起させるが、あまりにも自分を傷つけ過ぎればその苦しみから解放されたいという「望み」が生まれてしまう。


 そんな中で自分を保つのは気が変になるほど苦しかった。喉に手を突っ込んで無理矢理嘔吐感を引き起こし、はき出さずに無理矢理飲み込む。それを何度も繰り返す。そんな感覚だ。


 どう考えても長くは持たない。とっとと元の世界に戻らないといけないのに……。


「くそ……全然みつからねぇ……」


 にもかかわらず、大曲おおまがりは全く見つからなかった。


 焦りがさらに僕の頭の中を激しく揺さぶる。立っていられないような強いめまいを感じ、思わず足を止めた。


 大曲おおまがりは、それほど遠くには行ってないと思うが、そもそもあいつの足は僕よりも速い。その上僕はこのギリギリのバランスを保ち続けて走っている。ヤツが真っ直ぐ僕から逃げるように走り続けたら、原理上追いつくことは不可能といえる。


 だったら、闇雲に探し回っても危険なだけだ。大曲おおまがりがどこに向かったか考える事に集中した方がいい。


 大きく深呼吸をし、朦朧とする頭の中で、ここまでのいきさつを思い出していく。



 大曲おおまがりがおかしくなったのは、大貫おおぬきさんが【黄昏】から解放される直前からだったと思う。大貫おおぬきさんが「救い」の光を帯びたあたりからいつもの薄っぺらいにやけづらはなりを潜め、真剣な表情でわなわなと震えていたのを覚えている。


 最初は大貫おおぬきさんとの別れを惜しんでいるのだろうと思ったが、その後の様子をかんがみるに違ったようだ。


 今になって思えば、あの時の大曲おおまがりは、悲しみというより、何か喜びをかみしめているような顔をしていたような気もする。


 仮にそうだとして、あいつは、なぜそんな顔をしていたんだ?



 そういえば……。


 大曲おおまがりと初めて【黄昏】に入った時、かなり「救い」に執着していた。何度も【黄昏】の住人がどうやったら解放されるか、僕らにできることはないかとしきりに僕に問いかけていた。


 それに、僕が「救い」は滅多に起こらないことや、僕らが【黄昏】の住人達にしてやれることが殆どないことを伝えると、ヤツはいつも以上に投げやりな態度をとっていたような気がする。



 どうして大曲おおまがりがそれほどまでに【黄昏】からの「救い」に固執するのか。


 それについては、社長の話、つまりは、大曲おおまがりが何年も生きながら【黄昏】の住人であり続けていることが答えになると思っていた。


 自らも【黄昏】の住人であるがゆえに、あの世界から解放されるなんて話は、他人事に思えなかったのだろうと。もっと言えば、自分自身が「救われる」可能性を、強く望みはしないまでも、無意識に期待していたのではないかと。僕はそう勝手に納得していた。


 しかし、それが間違いだったとしたら。

 大曲おおまがりが、もっと具体的に【黄昏】から救いたい誰かを想像していたとしたら。

 その誰かを想像した上で、ずっと諦めて、期待を抑え込んでいたいたのだとしたら。


 大貫おおぬきさんの「救い」を見て、その可能性に触れて、期待が現実味を帯びる。

 あいつはそれに震えるほどに喜んでいたんじゃないか?


『マッテテ、マッテテ……』


 狂気に満ちた笑顔を浮かべながら、大曲おおまがりが最後につぶやいていた言葉を思い出す。

 もし僕の考えが正しいなら、あいつは、今、誰かに会いに行っている。

 救いたい誰かの元へ。


 そうだとしたら、大曲おおまがりが【黄昏】から解放したい誰か。

 それが分かれば、ヤツの居所もわかるはずだ。


 ひとつひとつ、記憶をたぐっていく。

 大曲おおまがりとの会話。桂木かつらぎさんと大貫おおぬきさんの依頼。僕が見た夢。社長の言葉。

 そして、大曲おおまがりの過去のこと……。


 ばちん、と頭の中で火花が散った。

 全ての歯車がかみ合ったような感覚、気づいた途端になぜ分からなかったのか自分を問い詰めたくなるような苛立ちが全身に広がる。


「……馬鹿か僕は、ちょっと考えれば分かりそうなもんじゃないか!」


 大曲おおまがりが【黄昏】から救いたい人。

 ここまで来れば、間違いない。


「あいつの……家族だ……!」


 残った体力を振り絞って、足に力を込める。

 目指すのは、最初にいた公園から目と鼻の先にある。

 僕は、踵を返して、来た道を全力で戻った。





――――――――――


 いつからだろう。あたしの人生にあのバケモノたちが現れたのは。

 いつからだろう。夢と現実の区別がつかなくなってきたのは。

 いつからだろう。自分が生きているか死んでいるか分からなくなったのは。


 あたしの脳みそには常にぼんやりとしたモヤがかかっていて、見るものすべて、聞こえるものすべて、感じるものすべてに現実感がない。眠っている時と起きている時の違いが分からない。ずっと夢の中にいるような感覚。


 何を見ても全部録画された映像を見ているようだったし、何を聞いてもひどく遠くで鳴っているに聞こえたし、何を食べても味がしない。そんな日々が何年も続いている。


 一度目を閉じれば、すぅっとそのまま二度と目が開けなくなるような。

 ふっと自分が立っている場所がどこだか分からなくなるような。

 今、見えているものが全て夢だと言われれば、「やっぱりそうだったかー」って認めてしまえるような。


 多分、こういう感覚は、人としての欠陥なんだろう。

 でも、そんなこと、どうでもよかった。

 あたしにとっては、ありとあらゆることがどうでもよかった。




 あたしがこうなったのは、多分きっかけがある。

 ほとんど覚えていないけれど、というか、あたしに記憶なんてものはほとんどのこっていないのだけど、あたしがこんな風になったのはあの日からだったはずだ。


 たしかその日は珍しくお父さんとお母さんが家にいて、旅行に行くって話だった。あたしの家が貧乏なのは、幼い当時のあたしでも薄々感づいていたし、旅行なんていくお金の余裕も時間の余裕もなかったことは分かってた。「どこにいくの」と聞いても、「ちょっと遠くまでだよ」としか言わなかった。


 なんだか変だな、とは思った。でも、その日、お父さんは久しぶりに優しかったし、お母さんもニコニコ笑っていたし、お兄ちゃんは何にも気づかずにはしゃいでいたし、その時の家族の雰囲気が嬉しかったのは覚えている。


 私達は車に乗って、家を出た。車の中で、お父さんもお母さんも見たことないくらいに上機嫌だった。あたしたちにしきりに「心配かけたな」とか「もう大丈夫」と穏やかに言った。お母さんも嬉しそうに頷いた。


 細かいところはよく知らなかったけれど、仕事が上手くいかなくて、お父さんもお母さんも私が物心ついた時から常にピリピリしてた。怒鳴るお父さんの姿も見てきたし、泣きながら叫んでいるお母さんの姿も見てきた。


 だから、正直にいうとこの時の二人の雰囲気はちょっと不気味だった。でも、何が不気味なのかはあたしには説明できなかったし、お兄ちゃんは素直に喜んでいたし、二人は見たこともないくらい穏やかな表情をしてた。


 今のあたしなら、二人の気持ちはよくわかる。

 全てを諦めた人間は、すべてがどうでもよくなって、いろんなことに優しくなれる。

 ただ、それだけのことだ。


 でも、当時のあたしにはそんなこと分からなかった。きっと、あたしの知らない良いことがお父さんとお母さんに起きたんだろうなって納得することにして、私も途中から笑うことにした。


 それから、車の中は大はしゃぎだった。お兄ちゃんは車の中で学校で習ったという歌を歌って、あたしも一緒に歌った。お父さんも自分の好きな曲を車の中でかけて歌ってくれて、お母さんはその曲を聞いて懐かしそうに身体を揺らした。私は学校であった面白い話をして、お父さんもお母さんも笑ってくれて、車の中で滅多に食べないコンビニのお菓子を食べて……。


 お兄ちゃんははしゃぎすぎて眠ってしまい、あたしもウトウトしてしまった。お母さんは「着いたら起こしてあげるから」なんて言ってくれたけど、あたしは眠るのが嫌だった。眠ったら、この幸せな時間が終わってしまうという怖さがあった。


 どこに行くのか知らなかったけど、目的地なんかつかなければいいのに。ずっとこのままの時間が続けばいいのに。そう思いながら、あたしはずるずると引きずり込まれるように眠りに落ちた。


「二人は?」

「寝てる。大丈夫よ」

「そうか……」


 ぼんやりした意識の中で、お父さんとお母さんの声が聞こえる。

 さっきまでの楽しそうな声じゃない。とても疲れた声だった。


「……悪かったな。こんなことに巻き込んで」

「……もう今更よ。あなたを選んだこと自体は後悔してないわ」


 車の中に自分がいることはわかった。外の様子は分からないけど、やけに暗かった。二人の会話がぼんやりと部屋の中に浮いている。表情は見えない。隣からはお兄ちゃんの寝息が聞こえている。


「お前と子供達は別に付き合わなくていいんだぞ。俺の生命保険もあるし……」

「そんなの、雀の涙よ。このまま苦しい人生に身を置くよりも、このままゆっくり眠り続ける方が、二人もきっと幸せよ」

「そう、だよな……ごめんな」

「謝らないで……そういう運命だったのよ」

「そうかもな……じゃあ、最後に」


 声を出そうかとも思った。でも、もう少し二人の会話を聞いていたかった。

 細く目をあけると、運転席と助手席で、お父さんとお母さんが缶を合わせていた。カツンと、力のない音がする。


「最期がこんな安酒なんて、ちょっと味気ないよな」

「私達っぽくていいじゃない」

「ははは。そうかもな」


 その後、二人はゆっくり缶を傾けた。

 何か嫌な予感はした。何というか、このまま二人が遠くに行ってしまうようで、身体中に悪寒が走った。声を出すべきだ、助けを求めるべきだ、車の外に出るべきだ。それだけはわかった。


 でも、二人の雰囲気はなんだか邪魔をしてはいけないような、ひどく閉じた、完成した世界だった。


 ああ、もう私は、二人の世界にいないんだな。


 そう思った途端、すべてのことがどうでもよくなった。

 目をあけているのが億劫になって、ふっと目を閉じた。



「もう目が開かなくてもいいかな」



 目を閉じる瞬間、そう思った。

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