031「『救い』と狂気」

千曲川ちくまがわさん、大曲おおまがりさん。本当に、ありがとうございました」


 大貫おおぬきさんは、とても丁寧に僕らに頭を下げたあと、にっこりと笑った。


 色々あって忘れていたけれど、大貫おおぬきさんはそこいらのアイドルや女優顔負けの別嬪べっぴんさんだ。自慢の髪も完全復活となれば、その破壊力たるや筆舌に尽くしがたい。


 こうして改めて正面から笑いかけられると、あまりのまぶしさに目を細めてしまいそうになる。


 こんなに綺麗で、心優しい女性と知り合えたことを、僕は誇りに思う。

 だけど、だからこそ。

 これから起こるであろうことに、心が痛む。


「せんぱい、顔がキモいっすよ! 得意の妄想はおうちに帰ってからして欲しいっす!」

「……」

「……? あれ、せんぱい? 反論しないっすか?」


 大曲おおまがりが不審そうな視線を僕に向けるが、僕はそれを無視した。

 本当に、残念だ。


「せんぱい、どうかしちゃったっすか? 大貫おおぬきちゃんの美しさにやられちゃったっすか? 確かにせんぱいのキノコの繁殖場みたいな暗くてじめっとした人生で知り合えるような子じゃないっすから、気持ちは分からなくもないっすけど!」

「……そうだな」

「あ、あれ? せんぱい、本当にどうしちゃったっすか?!」


 大曲おおまがりが首をかしげるが、僕はそれも無視した。

 悪いが、付き合う気になれなかった。


「……しっかし、本当に美人っすよねー大貫おおぬきちゃん。後光が差して見えるっす……って、あれ……?」


 大曲おおまがりも、何となく大貫おおぬきさんの姿に違和感を持ったようだ。


 今、大貫おおぬきさんには、比喩ではなく、「本当に」後光が差している。



 正確に言えば、彼女の輪郭がボンヤリと光始めている。

 柔らかい光が彼女を包み、ほろほろと崩れ始めている。



「これ、なにが起こってるっすか?」

「……大曲おおまがり、よく見とけ」



 【黄昏】は死してなお、強い未練を持つものが流れ着く場所。

 その住人たちは延々と、自らの姿さえ失いながら、答えのない未練を追い続ける。


 では、その未練が無くなったら?

 簡単だ。その者は退場を余儀なくされる。

 普通の死者と同様、完全にこの世界から消える。


 これが、「救い」だ。


「……残念です。僕も、もっとあなたと話したかった」

「……嬉しいです。でも、仕方ありませんよ。私はもう死んでいるんです。それが正しい姿です」


 悲しげで、でもどこか満たされた表情で、大貫おおぬきさんはほほえんだ。


 日の光が水面に映るように、彼女の姿が揺らめき出している。


「せんぱい、これどうなっちゃうっすか? 大貫おおぬきちゃん」

「どうもしない。元に戻るだけだ」

「どこにいっちゃうっすか?」

「どこにもいかない。これで終わりだ」

「……もう、会えないっすか」

「……ああ」


 僕が絞り出すように言うと、大曲おおまがりはうつむいた。


 そして、わずかにわなわなと震え始めた。涙をこらえるような静かなうめき声をあげている。


 たった二日間しか関わっていないけれど、彼女が素敵な人間だということは充分に分かった。どれだけ想われる人であるかも、どれだけ人を想う人であるかも、痛いほどに分かった。


 僕たちは所詮部外者だ。ただの運送屋でしかない。

 それでも、形式的な言葉じゃなく、心から、彼女の冥福を祈りたい。


「あ、そうだ!」


 空間にとけるみたいに、徐々にその姿が薄まっていく大貫おおぬきさんが、何かを思い出したように手をたたいた。


千曲川ちくまがわさん。『依頼書』! ハンコ、押さないと!」

「うお! ホントだ!」


 言われて思い出す。感傷的になるのはまだ早かった。


 受け取りの印を彼女からもらわなければ、桂木かつらぎさんにちゃんと届けたことを伝えられない。


 そんなことをお客から言われて思い出すなんて、僕も相当に動揺していたらしい。


 僕はすぐに桂木かつらぎさんが書いた「配達依頼書」を取り出し……。


 そして、気がついた。


 受領印に大曲おおまがりの押した印があることに。


「……うぉあああ!」


 思わず叫び声が出る。自分でも驚くような素っ頓狂な声がでた。


千曲川ちくまがわさん? ど、どうされたんですか?」

「い、いいえ何でも……」


 や、やべえ。やっちまった!さっき話聞いた時に桂木かつらぎさんからもらい直せばよかった!


 これ、いけんのか? 印鑑欄の空いてるところに押してもらえばいいのか?


 でも、そんなことしたら「なんで二つ押してあるんですか?」って絶対に桂木かつらぎさんに聞かれるだろう。


 その時「片方は大曲おおまがりが押しました☆」なんて言ったら、これまでのハートフルな物語が一気に信用出来ない、胡散臭いものになってしまう。


「配達依頼書」には【黄昏】の住人でしか印を押せない。その事実こそ、僕らの仕事の根幹であり、大前提だ。


 ど、どうする? このままでは……。



「あの……多分私、あんまり時間なさそうなんですけど……」

「も、もちろんです。もう少し、もう少しだけ……」



 祈るような気持ちで、もう一度「配達依頼書」を見る。そんなもの、何度見ても状況が変わるはずがないのに……



「……?」


 どうも、「配達依頼書」の様子がおかしい。


 受領印の欄の大曲おおまがりの印が、そこだけ燃えているかのように細く煙を上げている。


 火のついた導火線が徐々に灰になって消えるように、印が煙を上げながら消えていっている。


 それからものの数秒で、大曲おおまがりの押した印は跡形もなく消え、受領欄はまっさらになった。


 いったい、何が……?



千曲川ちくまがわさん……私、そろそろ限界っぽいんですが」


 大分輪郭のぼやけた大貫おおぬきさんがおずおずと申し訳なさそうに言う。


 いかん。ともかく、印をもらわなくては……!


「お待たせしました。もう大丈夫です! こちらにお願いします!!」

「あ、はい。ええと……」


 大貫おおぬきさんは僕が差し出したインク瓶に親指をそっと入れ、同じく差し出した「配達依頼書」の受領印欄にそっと押した。


「……これで、メイちゃんに受け取ったって伝わるんですよね」

「はい。ばっちりです。……ごめんなさい。締まらない最後で……」

「いえいえ。湿っぽくなりすぎるのも嫌でしたから」


 そう言いながら、大貫おおぬきさんは優しい笑顔を僕に向けてくれた。すでに、ほとんど身体は消えかけている。


 その笑顔に心から安堵すると共に、こんなに優しい人がいなくなってしまうことがやるせなかった。


「……そろそろ時間ですね。お二人とも、本当にありがとうございました。どうか、ご達者で」

「僕らこそ、ありがとうございます。大貫おおぬきさん。あなたに会えて、本当によかった」


 大貫おおぬきさんは、嬉しそうに目を細めると、丁寧に頭を下げた。



「メイちゃんを、よろしくお願いします」



 その一言を最後に、大貫おおぬきさんの姿は世界にとけるように消えていった。


「……最後、桂木かつらぎさんとおんなじこと言ってたな」


 つくづく、この二人のつながりは、羨ましいくらい強くて綺麗だ。

 きっと、そのつながりは「死」なんかに負けない。本当にそう思う。




「……さて、現実にもどるぞ、大曲おおまがり


 あたりは既に陽が落ちかけて、いよいよおどろおどろしい色合いに変わりつつあった。妖怪変化が色めきだつ逢魔が時だ。仕事も終わったし、とっとと退散する方がいい。


「ああ、そうだ。『依頼書』の件は社長には言うなよ? もらい忘れそうになった、なんてバレたら一生馬鹿にされそうだ」

「……」

「おい、なんだよ。お前だって責任の一端はあるんだからな。そもそもお前あそこに印なんか押さなければ……」

「…………」

「わかったよ。なんか奢るから黙っててくれ、前言ってたラーメンでいいならこの後にでも……」

「……………………」


 大曲おおまがりはずっと僕の呼びかけを無視して、わなわなと震え続けている。


 そんなにも「救い」の光景がショックだったのだろうか。こんなにも動揺している大曲おおまがりは初めて見た。


「……大曲おおまがり大貫おおぬきさんが亡くなったのは確かに悲しいけど、いつまでもこうしているわけには……」


 慰めるように大曲おおまがりの肩に触れようとした、その瞬間。




「………………………………きひひ」




 聞いたことがないような、不気味な笑い声がした。




「……お、大曲おおまがり?」


 僕の呼びかけを無視して、大曲おおまがりは笑い続けた。


「きひひ。きひひひ。きひひひひひひひ」


 明らかに、僕の声が聞こえていない。どう考えても様子がおかしい。なにか暗い、危険な雰囲気がする。


 大曲おおまがりは、ぶつぶつと何かをつぶやき始めた。


「きひひひ。本当にあった。『救い』は本当にあった。あった。『救い』はあった。本当にあった。きひヒヒ。これデ、コレで、助けラレル。コレデ皆ニ会エル。皆、今イクカラネ。イマイクカラネ。アタシガタスケテアゲルカラ。『救ッテ』アゲルカラ。マッテテ。マッテテ。マッテテ、マッテテ。スグ、スグニイクカラ、キヒ、キヒヒヒヒ、キヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒ」


 狂気じみた高笑いをあげ、大曲おおまがりは見たことないほど感情をあらわにしている。


 やばい。これは……何が起きてるんだ?


「おい! 大曲おおまがり!! どうした!!!」


 僕がそう叫ぶか叫ばないうちに、大曲おおまがりは奇妙な笑い声を上げたまま、突然走り始めた。


「マッテテ、マッテテ……」


 そして、そんなうわごとを残し、瞬く間に公園から走り去って行った。

 一瞬見えた表情は、いつものヘラヘラした顔じゃない、狂気に満ちた笑顔だった。



「……どうなってんだよ」


 取り残された僕のつぶやきが、ぽつりと公園に落ちた。


 そういえば……昨日も、こんなことあったな。


 ひどく混乱する頭の中、ボンヤリとそんなことを思った。

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