027「『いい【黄昏】を』」

 桂木かつらぎさんが去った後、僕と大曲おおまがりはすぐに事務所を出た。すでに時刻は16時を回っていて、世界は徐々に橙色に染まりつつある。


「せんぱい、遅いっすよ! ダッシュダッシュっす!」


 前を走る大曲おおまがりがせかしてくる。片手に桂木かつらぎさんの荷物を抱えているというのに、走るのは僕よりも遥かに早い。


 悔しいが、足の長さの差が如実に出ている。ストライドが違いすぎるのだ。


「……時々思うっすけど、せんぱい、身長のことイジられたいっすか? イジられたくないっすか?」

「なんだ藪から棒に」

「いや、自分で低身長ネタにする割にはあたしが言うとめっちゃ怒るじゃないっすか!」

「そんなの決まってるだろ。自分で言うのは良いけど、人から言われるのは嫌。ただそれだけだ」

「えぇ……みみっちいっす……人間も小さいっす……」


 うるさい。人間なんてだいたいそんなもんだろ。


 別に、僕だって事態が一刻を争うことを理解していないわけではない。おそらく、大曲おおまがりよりも状況の深刻さは分かっていると思う。


 【黄昏】の中にいる時間が長い住人ほど、意思疎通を図るのが難しくなる。それには様々な理由があるが、一番は、「言葉」というものの使い方が変わってしまうからだ。


 言葉は他者とのコミュニケーションの手段である一方で、自分の考えをまとめたり、思想を深めたりするための道具でもある。


 他者との交流が一切無い【黄昏】において、前者のような言葉の使い方は退化し、後者の役割が異様に発達してしまう。伝えるためではなく、自分の内面を掘り返す為だけに使われる言葉は、その人の為だけの閉じた体系を作り上げてしまう。


 要するに、言葉による対話が不可能になってしまうのだ。そうなればもう依頼は絶対に不可能、少なくとも、僕たちに出来ることはもうない。


 大貫さんが完全に【黄昏】の住人になってしまってからもう丸一日経っている。時間はほとんど残ってないと言えるだろう。


 しかし、全速力で走れば息が上がり、より強く自分の身体を、つまりは自分の「生」を感じてしまう。「生」と「死」が曖昧になった状態でないと【黄昏】に入れない以上、呼吸を整えながら進むのが一番の近道だ。


「そういうもんっすか?」


 大曲おおまがりが渋々といった感じで僕に歩調を合わせる。


「ああ、【黄昏】で大事なのはバランスだ。できるだけアップダウンが少ない状態を維持する必要がある」


 それは、身体だけでなく、心の状態においても同じことが言える。


 今回の桂木かつらぎさんの依頼、絶対に成功させたい。桂木かつらぎさんの想いに、ちゃんと応えたい。心から僕はそう思っている。


 しかし、強い気持ちは当然強い「生」を想起させる。そうすると生と死が曖昧な状態にならず【黄昏】に入ることもできない。


 仮に入ることができたとしてもそれはそれで危険だ。「依頼の成功」が僕の「望み」としてとらえられる可能性がある。望みを叶えるために僕の身体が変化し始めたら、今度は右目程度では済まないかも知れない。そうなれば依頼どころではなくなってしまう。


 綱渡りのようなバランス感覚。それが【黄昏】を往来することを生業とする僕らの必須スキルだ。


「よくわかんないっす……」


 難しい話はごめんだ、とばかりに大曲おおまがりは顔をしかめた。


 ……そういえば、コイツはずっと【黄昏】にいたんだったな。何も望まないままに「生」と「死」をたゆたう。そんな狂気じみたバランスを何年もとり続けているコイツには釈迦に説法だったかもしれない。


「……ん?」


 ふと、疑問が浮かんだ。


 じゃあ、コイツ、大曲おおまがりは、どうやったら【黄昏】を抜けられるんだ?


 何かを望むことが命取りになる【黄昏】の中で大曲おおまがりが未だに生きていられているのは、「何も望まないから」だ。言い換えれば、大曲おおまがりは生きることに一切の執着を持たないおかげで生きながらえている、という逆説的な方法でバランスを取っている。


 そんな危険な綱渡り状態の大曲おおまがりが【黄昏】から現世に戻るには、どうすればいいんだろうか。


「つながり」を持つことだと社長は言った。


 一家心中というあまりにも強烈な過去の体験のせいで、大曲おおまがりは痛みですら「生」を感じられないでいる。


 しかし、他者と強いつながりを持つことができれば、自分が想い相手に想われる関係の他者ができれば、その存在が自らの「生」の輪郭を鮮明にする。それが、「生」と「死」が混ざり合った曖昧な状態から抜ける術だと、社長は昨日そう語ったし、僕もそう思う。


 ただ、もし【黄昏】の中にいる大曲おおまがりが「つながり」を求めたとしたら?


 友達にしろ、恋人にしろ、パートナーにしろ、誰かと深く関わりたいと願ったら?


 それは、間違いなく「望み」だ。それを望んだ瞬間、保っていた絶妙なバランスは崩れ、大曲おおまがりはきっと完全なる【黄昏】の住人となる。そして、きっとその命を落とすだろう。


 つまり、それって……

 詰み、じゃないのか?


「せんぱい、ついたっすよ!」


 大曲おおまがりの声で我に返る。いつの間にか目的地の裏路地に着いていた。


「あ、ああ。すまん」

「ほんと、さっきから大丈夫っすか? ぼーっとしちゃって……恋の初期症状っすか? せんぱいのくせに生意気っすよ!」

「どういう意味だそれ……」


 大曲おおまがりはケラケラと緊張感なく笑っている。平常運転過ぎる表情に、僕も肩から力が抜けてしまった。


 まあいい。大曲おおまがりのことはまた今度考えよう。今はとにかく桂木かつらぎさんの依頼だ。

大曲おおまがり、準備しろ。行くぞ。【黄昏】」

「あいあいさーっす!」


 大曲おおまがりはぴしっと敬礼のポーズをして見せた。


 コイツに【黄昏】に入る準備など必要もないはずなのに、そんな質問をした自分の白々しさに心が冷えるのを感じる。


 僕はおもむろに例のファイルを取り出し、最初のページを開いた。そして、自分の脳に手を突っ込むように、過去のトラウマを引きずり出す。


 昨日、並木楓なみきかえでとの過去を夢に見たせいか、いつもよりも記事のひとつひとつ、文字のひとつひとつが、より強いリアリティを持って僕の心を傷つけた。次々と、彼女の言葉が頭に浮かぶ。


『……込めた想いが届かないのが、一番寂しいんだよ』

『……あなた、この絵、どう思う?』

並木楓なみきかえで。ひっくり返すと『楓並木かえでなみき』になるから覚えやすいでしょ』

『自分にしか出来ないモノが描きたい。ただそれだけなんだよね』

『【黄昏】……かな』

『創る側がどう見て欲しいかを押しつけるのは間違いだもんね』

『うーん。自分探し、かな』

『欲しがってたでしょ。それ、全部あげる』……










 いつの間にか僕は駅のホームにいた。

 黄色い点字ブロックのその先。

 本来線路が敷かれている部分は暗闇になっている。


『また、来ちゃったんだね』


 どこかから声がする。聞こえるのは声だけで、声の主は見えない。


 聞き覚えのある声だった。


 きっと彼女だ。


『ねえ、なんでいつも駅のホームなの?』


 ホームであることに特に、意味はない。


 単純に僕にとって「生」と「死」の境界線として一番イメージしやすい場所だったからだ。


『ふーん。そうなんだ』


 声は頭の中に直接流れ込んでくる。以前からこんな風に声が聞こえることはあったが、今日はいつもよりずっと多い。会話のようなものが成立しているのも初めてだ。


『まだ、私のこと思い出せない?』


 ああ、ごめん。


『謝らなくていいよ。いつか、その日が来るのを待ってるからさ』


 うん、ありがとう。


『ところでさ。隣の子、誰?』


 ……別に、ただの同僚だよ。


『ふーん。あっそー』


 ……なんでちょっと嬉しそうなんだよ。


『べっつにー。ちゃんと生きてんじゃんって思ってさ。大切にしてあげるんだよ?』


 なんだよそれ。変な勘違いすんなよ。


『まあまあ、いいじゃん……また依頼?』


 ああ。


『そう……気をつけてね。私を探したりしちゃダメだよ?』


 …………ああ。


『あ、ちょっと迷ったでしょ。ダメだからね! 流石にあの姿恥ずかしいんだから!』


 ……しないよ。もうそんなこと。


『……そう。ならよかった』


 彼女は嬉しそうにそう言うと、ホームと暗闇の狭間に立つ僕の背中をそっと優しく押した。


 遠くから電車に似た暗い塊が迫ってくるのが分かる。目を閉じ、その暗闇に身を任せる。すぐに暗闇が僕の身体を包み込む。中は妙に暖かく、僕の境界線を曖昧にしていく。


 すうっと意識が遠く離れていく感覚がする。完全にイメージから切り離される直前、彼女の声が頭の奥で鳴った。



『行ってらっしゃい。いい【黄昏】を』

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