017「回想〜千曲川あきお①〜」

 酷い夢を見た。


 何度も繰り返し見ている酷い夢だった。


 それは、かつての恋人、もしくはそれに類する存在だったあの人の夢だ。


 並木楓なみきかえではいつも難しい顔をしている女だった。創作をしている人間はみんなそうなのかもしれないけれど、いつも何か不満そうに空中をにらみつけていた。不機嫌そうに見えるからやめた方がいいと言ったこともあるけれど、元々そういう顔なのだと本人は主張していた。

 

 だけど、笑う時は本当に屈託なく笑う子だった。彼女に言ったら絶対に怒られるだろうから一度も言わなかったけれど、僕は彼女の描く絵よりも彼女の笑顔の方が好きだった。


 でも、今はもう、その顔を思い出すこともできない。夢の中は当時の状況をかなり正確に復元していたけれど、彼女の顔だけは常にモザイクがかかっているみたいに曖昧だった。




 当時の僕は何の変哲も無い大学生だった。目には眼帯もなく、平凡な顔立ちに良くも悪くもない成績の、どこにでもいる普通の学生だ。


 その時美術館に行った理由も、せっかく大学生になったのだから絵画の一つでも語れた方がモテるだろうとか、もし彼女ができたら二人で美術館に行くみたいなおしゃれなデートができるかもしれないとか、その際飾ってある絵を解説できたらカッコイイよなとか、そんな不純で面白味のないものだったと思う。


 そして、美術館に入ってから数分でその退屈さに後悔し始めたのも、嫌気がさすほどテンプレートな反応だろう。


 知識も感性も持ち合わせていない当時の僕にとって、どんな絵画も同じようなものにしか見えなかった。一人で絵の下に書いてある解説を読んで、分かったような顔をしながら頷くことしか出来ない時間に酷く空虚な気分を味わっていた。


 早く帰りたい。途中から、そんなことばかり考えていた。でも、学生割引を使ったとはいえ一回の昼食分くらいの金を払ったのだから、一応全部の絵を見ておきたいという貧乏性もあって、僕は絵よりも解説だけを追いかけ続けた。


 その道中、一人の奇妙な女を見かけた。その女は、地面にあぐらをかいて座り込んでいた。脚の上にノートを広げ、食い入るように目の前の絵を見ている。時折何かに気がついたようにメモを取っていた。


 変わった人がいるな、と思って避けて通った。普通に危ない人だと思った。いくら掃除の行き届いているカーペットだからって地面にべったり座り込むなんて汚いと思ったし、いくら平日の昼間でお客さんが少ないからといって、通路に座り込むのはマナー違反だ。平然にそういうことをするなんて、常識が無いのだろう。そういう人とは関わりあいにならないのが一番だ。そう思った。


 ただ、そのまっすぐな視線と、異様に真剣な雰囲気は妙に印象に残った。


 お察しの通り、この奇妙な女こそが並木楓なみきかえでだった。


 結局それから僕は、調べればネットに書いてありそうな解説文を読むだけの非生産的な時間を過ごし、気がつくと美術館の出口についていた。振り返ってみて、今日見てきた絵を思い出そうとしてみたが、一つとして思い出すことができなかった。


 思い出せたのは、あの地面に座る女のことだけだった。そんなに真剣に彼女はあの絵の何を見ているのだろうか。そんなに素晴らしい絵だったのだろうか。僕が気づいていないだけなのだろうか。気になる。彼女にはあの絵がどんな風に見えているんだろう。彼女の目にはどんな世界が広がっているのだろう。それがとても気になった。


 ……彼女は、まだあの絵の前にいるのだろうか。


 僕は踵を返し、美術館の道を引き返した。順路を逆走する僕を他のお客は不思議そうに眺めていたけれど、そんなことは気にならなかった。


 例の絵の前まで戻ると、まだ彼女は座っていた。かれこれ30分くらい経っているのにさっき見た時から微動だにせず、ひたすら絵を眺め、メモを取っている。


「何を、そんなに……」


 思わず、声に出してしまった。館内が静かだったせいで、想像以上に僕の声が響いた。女は驚いたように僕の方に振り向いた。もちろん、当時はそこに顔が(それも可愛らしい顔が)あったわけだが、夢の中では、やはりモザイクがかかっている。


「いや、その、ずっと見てるから……なにか、すごい意味のある絵なのかなって……」

「……あなた、この絵、どう思う?」


 そんなこと聞かれると思わなかったから、僕はややうろたえた。こういうときにはちょっと分かってる風な感想の一つでも言うべきなのだろうと、さっき読んだ解説を思いだそうとしたが、思い出せなかった。


「いや……ごめん。分からない」


 口にした瞬間、間違えたと思った。感想に答えなんてないのだから、分からないもクソもない。適当な印象を言っておけば良かった。世界観がどうたらとか、色合いが好きとか、そういうことを言うべきだったかもしれない、と。


 しかし、目の前の彼女の反応は意外なものだった。


「そう……私も同じ」

「同じ?」


 同じって、分からないってことか? 分からないのに、こんなに長い時間、こんなに一生懸命にこの絵に向き合ってたってことか?


「……じゃあ、なんでずっとこの絵を見てるんだ?」

「分からないから、見てるの」


 


「この絵をなぜ描こうと思ったのか。どうやって描かれたのか、どうしてその技法を使ったのか。どうして素晴らしいとされているのか。何を表現しようとしているのか。それが分からないの。分かってあげられないことが、悔しいの」

「どうして、そこまで……」


 僕がそう言うと、彼女は、どこか切実な声で言った。


「……込めた想いが届かないのが、一番寂しいんだよ」


 それだけ言うと彼女はまた絵を眺め始めた。


 随分実感のこもった台詞だった。もしかして自分でも何か描いてる人なのかもしれない。これだけ芸術に入れあげるなんて、美大生かなにかなのだろうか。まったく、ご苦労なことだ。一枚の絵にこんなに時間をかけるなんて……


 ってまさか……!


「あんた、全部の絵で同じ事をするつもりなのか?!」

「? もちろんそのつもりだけど」

「そんな、そんなことしてたらこの美術館見終わるのに何日も、下手したら何ヶ月もかかるぞ?!」

「描く方はもっと時間かけてる。別におかしな事じゃないでしょ」


 背中越しに、彼女は平然と言ってのけた。僕は二の句が継げなかった。


 なんて変わった人なのだろう。なんて不器用な人なのだろう。


 そして、なんて真っ直ぐな人なのだろう。



 僕は、なぜかその場を去ることができなかった。そこを去ってしまったら、何か大切なもの失ってしまうような怖さがあった。僕はそのまま彼女の後ろに立って、絵とそれを見る彼女の背中を眺め続けた。





「……あれ、まだいたの?」


 閉館を告げるアナウンスが流れる中、彼女は意外そうに僕を見た。結局、僕は三時間近くその絵の前に立ち続けていた。


「ああ。邪魔してたんだったらごめん」

「いや、別に気にしてないけど……もしかして、あなたも同業者?」

「同業?」

「なんか描く系の仕事かってこと。そういうことならもっと早く言ってくれれば……」

「全然。ただの学生だよ」

「……? 美大生ってこと?」

「いや。普通の四年生大学。ほら、駅前にあるやつ」

「……え。じゃあ芸術系の学科とか、そういうこと?」

「たしかに文学部だけど、専門は近代文学だから、あんまり関係ないかな」

「……なのに、この絵三時間見てたの?」

「結果的に、そうなるな」

「なんで?」


 向けられたのは、奇妙なモノをみるような視線だったと思う。

 なんでって……。


「自分だってやってたじゃないか」

「そりゃ、私は仕事の一部でもあるから……」

 

 そうだったのか。それならこれだけ熱心なのも頷ける。


 自分でもおかしな事をした自覚はある。普段の僕なら変化のない絵の前で三時間も佇むなんて、絶対にあり得ない。でも、段々と絵そのものに引き込まれていったことも事実だった。


「……段々、あんたが言いたいことが少しだけ分かってきた。見続けることで分かることもあるんだなって。絵を見るのって案外時間がかかるもんだな」


 彼女はポカンとして、僕のことをまじまじと見つめた。


「あなた……めちゃくちゃ変わってるね」

「いや、あんただけには言われたくない」


 僕がそう言うと、彼女は弾けるように笑い始めた。今となってはもうどんな顔だったかは思い出せないのだけれど、その時の笑顔に心奪われたことだけは記憶している。有り体に言えば、この瞬間、まだ名前も知らない彼女に、僕は惚れてしまったのだ。


 これが、僕と並木楓なみきかえでの出会いだった。

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