018「回想〜千曲川あきお②〜」

並木楓なみきかえで。ひっくり返すと『楓並木かえでなみき』になるから覚えやすいでしょ」


 自己紹介でそう言って笑った彼女が、絵画の世界ではかなりの有名人であることを知ったのは、僕らが付き合い始めてからしばらく後だった。


「もうちょっと早く言ってくれればよかったのに」


 そう苦言を呈したこともあったが、


「別に、聞かれなかったからね」


 とはぐらかされてしまった。そう言われれば返す言葉もない。本人的にはあまり世間からの評価は触れて欲しくないポイントらしかった。


 国内最高峰の東都美大に在籍しており、既にその作品はすでに多数のメディアにも取り上げられている。特に、色彩感覚について非常に高い評価を受けていた。あらかたの新人賞を総なめにしており、「並木 楓」の名前で検索をかければ、少なくないページが彼女の作品への賛辞を述べていた。


「見る目ないよね。あんなの全然まだまだなのに」


 が、しかし本人は全く納得いっていないらしい。自分を賞賛する記事を見つけるたびに眉間に皺を寄せていた。


「いや、十分すごいだろ。この雑誌みてみ? 『新世代の天才』『新進気鋭のアーティスト』だってさ」

「そんなのいくらでもいるよ。ちょっと若い子がそこそこのモノ描けたら、みんなそうやってはやし立てるもんなの」

「そんなに謙遜すんなよ」

「本当だよ。あと雑誌映えもあるしね。ほら、私って可愛いじゃない?」

「そこは謙遜しろよ」


 そんなことを言う彼女であったが、僕は芸術家「並木 楓」の絵が好きだった。もちろん、彼女を評する専門家たちのように、高尚な言葉や技法について解説なんてできないけれど、ともかく、彼女の真っ直ぐな情熱がそのままあふれているようで、なぜかずっと見ていることができた。


「自分にしか出来ないモノが描きたい。ただそれだけなんだよね」


 彼女はよくそう言った。特に酒に酔うと、そういう話ばかりした。


「独創的過ぎたら誰にも分かってもらえなくて、共感できすぎたら凡庸だって埋もれちゃう。芸術ってそもそも矛盾してると思うんだ。でも、それを受け入れた上で、その人にしか出来ないことを感じたい。自分にしか出来ないことがしたい。そういう意味では、私は全然、まだまだだよ」


 そう熱く語っては、語りすぎたことを恥じ入るように強い酒をあおり、酔いつぶれ、僕が家まで送るという流れがお約束となっていた。


 付き合う中で分かったことだが、芸術家として優秀であっても、並木 楓の中身は普通の女子大生というか、人並みに喜び、人並みに悲しみ、人並みに調子に乗り、嫌いな教授の悪口をいい、くだらないジョークでゲラゲラ笑う、普通の女の子だった。


 ただ、彼女は芸術に関しては究極的にストイックだった。芸術家なんてみんなそんなものなのかも知れないが、作品一つを鑑賞するにしても異常に時間をかけるし、自分の作品を創り始めると一日大学の作業場にこもりきりになることもザラだった。そのため僕らのデートは大体美術館を巡るか、図書館で本を読むかということが多かった。


「私と付き合ってても面白くないでしょ」


 彼女がそうつぶやいたことがあった。確かその時は本屋で写真芸術の本を漁っていた時だった。


「なんで?」

「いや、普通のデートってこういう所じゃなくて、遊園地とか映画館とかそういうところ行くものじゃない?」

「出会い方が出会い方だからな。そういうものについては最初から期待してない」

「……その言い方はムカツクなぁ。じゃあ、なんで私と付き合ってんの?」

「また急だな」

「私が可愛いから?」

「毎度思うが、その自信はどこから……」

「私があなたより背が低いから?」

「それはある」

「あるんだ……」


 別にいいだろ、そのくらい……。

 まあ勿論それだけじゃないけど。


「……僕はこの時間が嫌いじゃない。だから一緒にいるんだ。問題あるか?」


 嫌いじゃない、なんて遠回しな言い方をしたが、むしろ僕は彼女のそういうところが好きだった。


 誰かの残した芸術を、理解しようと、感じ取ろうと必死になる彼女の優しさがまぶしかった。

 真っ直ぐに表現に向かって自分にしかできないモノを追い続ける彼女の姿が美しかった。


 その姿を眺められるというだけで、ずっと隣にいたいと思えるほどに。


「ほほう……」

「なんだよ」

「べっつにー」


 僕の記憶が、僕の都合の良いように改竄されていなければ、その時彼女は笑っていたと思う。ありのままの自分の姿を認めてもらえたことに安心したように。押さえられない喜びを押し殺すように。


 ただ、今の、夢の中のモザイクだらけの顔では、何を考えているかは分からなかった。



 僕らの交際はそのまま1年近く続いた。多分、良好な関係を築くことが出来ていた、と思う。


 ちなみに、そのころから彼女の影響で、僕も絵を描くようになった。もちろん、彼女ほどの本格的なモノではないが、せめて彼女が何をやっているのか、彼女がどれほど高度なことをやっているのか、肌感覚で理解してみたかったのだ。


 しかし、僕の絵やデザインについての才能は、彼女曰く「『無』を通り越して『虚無』」であるらしく、僕の最初の作品は「墨を塗ったミミズを紙の上で這い回らせた方がマシ」とのことだった。


「いや、本格的な道具があったら僕だって……」


 あまりの言いように、思わずそんな反論をしてみたが、


「じゃかあしい! あなたに私の道具は一ミリたりとも触らせないから。宝の持ち腐れっていうか、あなたが触れるだけで腐敗していくから!」

「ゾンビか何かか僕は!」


 以降、僕は彼女に作品を見せるのをやめた。


 僕が大学3年を終えるころ、僕は就職活動で、彼女は国際公募に発表するための作品の制作とお互いに忙しくなっていたが、それでも関係は継続していた。お互いがお互いの邪魔にならないように、しかし、関係が切れているのではないことを確かめながら。


 特に、彼女の方の気合いの入り方は、尋常ではなかった。詳しいことは分からなかったが、彼女がずっと目標にしていたコンテストらしく、受賞すれば絵描きとしての未来が大きく変わるそうだ。彼女は受賞候補ともささやかれており、密着取材も付いているらしかった。


「正直、自分のキャリアアップとかには興味ないんだけど、自分が描いたモノが世界からどう見られているか、知りたいんだよね。だから、一切妥協したくないの」


 彼女らしい、とても真っ直ぐな言葉だった。そしてその言葉通り、彼女は何日もアトリエに泊まり込み、神経をすり減らしながら制作に取り組んだ。時々、没頭しすぎて数日食事を取らず、僕が補給物資を持ってアトリエへ向かったこともあった。



 そんな日々を送る中、僕が大学四年になった四月のある日。僕の携帯に彼女からのメッセージの通知が入った。メッセージはとてもシンプルだった。



「できた。みにきて」



 その二言だけで、分かった。


 たった今、傑作が生まれたのだ。「並木 楓」が納得のいく作品が。


 急いでアトリエに向かった。一秒でも早くたどり着きたかったから、滅多に使わないタクシーに乗った。でも、彼女が精も根も尽き果ててぶっ倒れているかも知れないから、流動食とスポーツドリンクだけは買っていった。


 アトリエの入ったビルに着いて、飛び込むように彼女の元へ向かう。


「おつかれ! どうだっ……」


 扉を開くと、正面に絵があった。


 一目見た途端、僕は持っていたドラッグストアの袋を取り落とした。そのことに一瞬気づかないほど、目の前の絵に意識を持って行かれてしまった。


 その絵は、「夕暮れ」の絵だった。いや、太陽や雲などの夕暮れを示すようなモノは何一つ描かれていないのだが、「夕暮れ」であることが一目で分かった。ただひたすらに色合いだけを使って、「夕暮れ」を表現している。


 暖かでありながら、一日が終わるその寂しさと、吸い込まれるような「死」を連想させるような……。強烈な存在感を持ちながら、この世のものとも思えない幻想的な色合い。いや、言葉を尽くせば尽くすほど、実態から遠ざかるような美しさがあった。


「……どうよ」


 どこからともなく、彼女の声がした。見ると、部屋の隅のイスに座ってこちらを見ていた。疲弊しきって、蚊の鳴くような声だったが、その声には自信がみなぎっている。


「……すげえ。今はそれしか言えない」

「えー。語彙力ないなぁ。もっとないの?」


 不満そうに彼女が口をとがらせた。僕はそれには答えず、絵に近づいた。


 そして、その目の前に座って腕を組んだ。


「……少なくとも、あと三時間は見ないとな」

「……そっか」


 彼女は、心底安心したような声で言った。


 それから僕らはじっとその絵を眺めた。黙って眺め続けた。ただひたすらに、その絵とそれを描いた彼女を理解するために。多分彼女は、そんな僕の背中を眺めていただろう。ちょうど、僕らが出会った時と反対に。


「……タイトル、なんていうんだ?」


 僕がつぶやくように問いかけると、彼女は答えた。


「【黄昏】……かな」


 絵を眺めながらきっと、僕は確信した。この絵は、やすやすとコンテストを突破するだろう。そして、彼女にしか描けない作品がこれから世界に羽ばたいていくのだろう、と。



 しかし、その予想は外れることになった。それも、おそらく最悪の形で。

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