016「混沌」
「はぁ……はぁ……」
僕と
【黄昏】の中で冷静さを失うことが、感情に流されることがいかに危険であるか、僕は身をもって知っている。正確に言えば、僕の眼帯の下にある瞳がよく知っている。
しばらく走り、公園が完全に見えなくなるあたりで僕らは足を止めた。
「いやぁ……びっくりしたっすねー」
僕の全力疾走に涼しい顔をして並走してついてきた
「とりあえず、ここまで来たら大丈夫だろ」
「まあ、そうっすけど……この荷物、どうするっすか?」
受取人、
何よりも厄介なのは、
そうなれば依頼は失敗。
考えうる中で、最悪の展開だ。
「……とりあえず、一旦【黄昏】から出るぞ。その後のことはまた考えよう」
「了解っす!」
【黄昏】に入るための条件。それは「生」と「死」が曖昧になっていることだ。自分が生きているのか死んでいるのか、分からない状態になること。その状態で日が傾く夕方を迎えると、【黄昏】への道が開かれる。
言葉にするのは簡単だが、これがかなり難しい。自分の「生」に強烈な疑いを持つような、経験というか、トラウマと呼ばれるものが無ければ、この境地に達することはできない。いわゆるPTSDの症状の一つと言い換えることもできるかもしれない。
それに一度入ることができたからと言って、いつでも自由に入りなおせるわけじゃない。記憶は徐々に薄れていくし、突然フラッシュバックすることもある。強すぎるトラウマはコントロールが難しい。
時間を空けて繰り返し、しかも自分から【黄昏】に入るのは至難の業だ。そこには技術と経験が必要だ。僕の場合は、当時のニュースや新聞を読み返すという心理的自傷行為で、自力でPTSDを引き起こす、という方法をとっている。
一方、【黄昏】から出るのは非常に簡単だ。入るのと逆のことをすればいい。つまり、「生」と「死」が別物であること、自分が生きていることを強く実感できればいい。
方法はなんでも構わないのだが、最も手っ取り早いのは、強い「痛み」を身体に与えることだ。痛みには自分の身体の存在を強く意識させる効果がある。頬をつねると夢が覚めるようなものだ。
「じゃあ
ポケットから小型のスタンガンを取りだし、
「よっしゃ! せんぱい。覚悟を決めるっす!」
……え、よっしゃってなに? 覚悟ってなに?
「お前、何する気だ!」
「ソンケーするせんぱいにこんなことするのは気が引けるっす……。でも、これもせんぱいのため。一肌脱がせていただくっす!」
「いや、脱がなくていい! そのまま着ててくれ!!」
「問答無用っす!」
「くらえ! ななみちゃんスペシャル!」
「ぶべらっっっ!!」
だから、階級が違うって言ったじゃん……。
僕はそのまま意識を失った。
「いやー大変なことになったっすね」
事務所の安っぽいキャスター付きのイスに体重を預けながら、
「……大変なことっていうのは依頼のことか? それとも僕の顔面のことか?」
「なに言ってるっすか! せんぱいの顔面が大変なのはいつものことっすよ!」
「そう言う意味じゃねえ! ていうか、今の僕の顔を見て、何も感じないのかお前は!」
向かいに座る僕の顔面には、非常に大きな痣ができていた。もちろん原因は「ななみちゃんスペシャル」である。
「あ、せんぱい化粧変えたっすか? 似合ってるっすよ!」
「違う! ささいな変化に気づいてもらいたいわけじゃない!」
ていうか、化粧なわけないだろ。こんな青黒いグロテスクな色。
「いやいやー。センスあるっすよ。痛そうな傷跡が、イタい眼帯とマッチしてるっす!」
「言いたい放題だな!」
「よっ! 傷も滴る中二病!!」
「謝れよ! とりあえず!!」
一向に反省の色を見せない
おのれ……いつか絶対に仕返ししてやる……。
僕も必殺技、名前決めとこう……。
このままでは収集が付かなくなりそうなので、一旦僕の顔面の傷については気持ちをおさめることにした。
「……そういえば、お前、僕のことぶん殴った後、どうやって【黄昏】から戻ってきたんだ? スタンガンの使い方、教えてなかっただろ?」
「? あー。あれっすよ。殴る側の拳も痛い……的なやつっす」
なんだ? なんかはっきりしない言い方だな。まあ、帰ってこられてるんならいいんだけど……。
「そんなことより、どうするっすか? この依頼」
「……そうだな。これから先のこと考えないと」
「
「分からん……でも、二人の間に僕らが知らない確執があったのかもしれない」
「可愛さ余って憎さ百倍……的な話っすかね」
「かもな。ともかく、
そうでなければ
やっぱり、無理にでも荷物の中身を聞いとくべきだったか?
「この後、どうするっすか。もう一回、明日とかに【黄昏】行って、説得するっすか?」
「……」
それに、仮に話を聞いてくれたとして、一度受取を拒否している荷物を、おそらくは彼女の未練に直撃するような荷物を受け取ってもらえるとも思えない。
実質、この依頼は詰んでいると言える。
そんな依頼のために、僕はともかく、今回が初仕事の
潔く諦めて、
「……ねえ、せんぱい。ちょっと聞いていいっすか?」
黙り込んで今後の事を考えていると、
「もう、
「ああ、多分な。ああなっちまうと依頼の完遂は厳しい」
「……救いは、救いはないっすか?」
「救い?」
「さっき言ってたじゃないっすか。他人の話を聞いて、未練のとらえ方が変わったりしたら、あの地獄みたいな場所から抜けられるかも知れないって。あたしたちがどうにかすることで、
やけに
「どうにかって、何をするつもりだよ」
「いや、わかんないっすけど……何度も声をかけたらもしかしたら……」
でも、コイツはわかってないんだ。生きている人間にとって、【黄昏】という場所がいかに危険であるかということを。
「……【黄昏】の中でも言ったろ。そんなのは本当にレアケースだって。狙って起こせるものじゃない。今回は諦めろ」
ぴしゃっと、僕は少し強めに言い切った。自分でもびっくりするくらい冷たい響きの言葉になった。
「……そっすか。じゃあ、しょうがないっすね!」
「
気は引けるが、こういう悪い話は早めに伝えといた方がいい。引っ張れば引っ張るほど問題は悪化するからな。
「え、何言ってるっすか? そんな必要ないっすよ!」
ぶつぶつと今後の段取りをつぶやく僕の声を、
その表情は、いつも通りの何を考えているか分からない脳天気な笑顔だったが、なぜかとても不気味に見えた。
「いや、何言ってんだ。依頼が失敗したんだから依頼人に伝えないと……」
「せんぱい、よく考えるっすよ」
言いながら、
「せんぱい、
「確かに、言ったけど……」
「じゃあ、事実はどうあれ、ここにハンコがあれば、依頼は成功ってことでいいっすよね?」
いや、確かに、表面上はそういうことになるけど……。
「その時も言ったろ? この書類の受領印の欄は【黄昏】の住人じゃないと印を押すことも、触ることも出来ないって」
「でも、だからこそ、ここに印さえあれば、
そう言いながら、
「お前……なにやってんだ?」
「うっふっふ。まあ、見ててくださいっす!」
そのまま、「依頼書」の受領印の欄にインクの滴る親指を押しつけた。そして……。
「ほらほら! 見てくださいっす! 印、押せたっすよ!」
無邪気に依頼書を僕に見せつけた。確かにそこには赤い指紋の後がしっかりと付いている。
「うそ……だろ……?」
そんなはずはない。この特殊な「依頼書」は、依頼人に僕らの配達を証明する事が出来る唯一の手段だった。これがなければ【黄昏】なんてものを信じてもらうことは出来ないし、そもそも僕らがやっていることが単なるカルト宗教の詐欺と区別がつかなくなってしまう。
言うなればこの「依頼書」は僕らの仕事の根幹だ。
それが、こんなにたやすく突破される? ありえない。
何か書類に不具合があったのだろうか。受領印に触れようとしてみるが、やっぱり僕は触れることが出来ない。どんなに触れようとしても自分の指がよける。なんというか、用紙そのものに触れる事を拒絶されているのが分かる。
「さ、後はこの荷物を処理すればミッションコンプリートっすね!」
混乱する僕をよそに、
「お前、なんで、これ……」
「ん? ああ、これっすか? 別に大した話じゃないっす。単に長く居すぎたってだけの話っす」
何でもないように言うと、
「おい、ちょっと待て!」
「シュート!」
気の抜けたかけ声と共に、
「よっしゃ! ゴールっす!!」
嬉しそうにガッツポーズをする
「……お前、正気か?」
「え、でももういらないっすよね? じゃあゴミじゃないっすか」
何を当たり前のことを、と
「どうして、こんなこと……」
「どうせもう
それだけ言うと、「じゃ、今日は遅いんで帰るっす。おつかれっしたー!」と
「……GHQって呼ばれてたのは本当だったのかもな」
混乱の中、そんなことをつぶやいた。ふざけていないとおかしくなりそうだった。
色々な事が一度に起こりすぎて、頭がパンクしそうだ。
フラフラしながら、僕はゴミ箱に近づいた。何はともあれ、荷物を回収しないと……。
「……は?」
投げ込まれた衝撃で風呂敷包みがほどけ、中身が飛び出している。
ゴミ箱の中に広がっていたのは、真っ黒で艶やかな女性の髪の毛だった。
「もう、わけわかんねぇ……」
何一つ、意味が分からない。
僕はふらつきながら、手近にあったイスに倒れるように座り込み、全てを投げ出すように目を閉じた。
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