010「【黄昏】の入り口」

 僕、千曲川ちくまがわあきおが【黄昏】に不運にも足を踏み入れてしまったのは、ちょうど大学四年生も後半にさしかかったころのことだったと思う。


 正直、当時のことはほとんど覚えていない。もう四年近く前だから、いろいろなことが曖昧になっている。


 恋人(もしくは、それに類する人)と唐突に別れ、その恋人が変死体として見つかったというショッキングな出来事であっても、四年という歳月は、ゆっくりとその記憶を薄めてくれた。もしかすると、あまりにも辛い出来事だったから、自己防衛のために脳が記憶に制限をかけているのかもしれない。どっちにしてもありがたい話だ。あんな記憶、いつまでも明瞭に覚えていたら、生きていける気がしない。


 しかし、忘れられないこともある。その恋人らしき人との別れのシーンだ。そこだけは、何故か彼女のセリフも一言一句思いだせたし、扉が閉まる音までもはっきりと覚えていた。そのシーンの記憶はことあるごとに、ほんの些細なきっかけでフラッシュバックを繰り返していた。まるで、記憶そのものが僕に忘れないように訴えかけているように。


 ただ、奇妙なことに、彼女の「顔」だけはそのシーンであっても思い出せなかった。

 鮮明な記憶の映像の中、彼女の「顔」にはもやのような、モザイクのようなものがかかっており、どうしてもどんな顔だったか思い出せなかった。僕の中の何かが、僕を守ろうとでもしているように。彼女の顔を思い出し、僕が傷つかないように。


 ……でももう、今となっては全て過ぎたことだ。

 色々と考えるのはやめよう。時間の無駄だ。



「せんぱいせんぱい。それ、何持ってるっすか?」


 隣を歩く大曲おおまがりが、僕の右手に握られている年季の入ったファイルを指さして言った。逆の手には配達する風呂敷包みを持っている。


 事務所を出て、僕らは【黄昏】への入り口に向かっていた。道を知らない大曲おおまがりは僕の横をのんきな足取りでついてくる。そののんきっぷりは、とても今日が初仕事の人間のものとは思えない、堂々たるものだった。頼もしいような、不安なような……。


 徐々に日が傾き、世界はますますオレンジ色に染まりつつある。あまり時間は残されていないようだ。


「これか? 新聞の切り抜きとか、ネットニュースのコピーとかをまとめたものだ」

「ほえー……まさかあれっすか? 可愛い女の子の写真とかのコピーっすか? 一世代前のネットストーカー的なやつっすか?」


 ニヤニヤしながら大曲おおまがりが聞いてくる。こいつの中で僕の評価ってどうなってんだろう……。


 まあ、しかし。


「……そうだな。当たらずとも遠からずって感じだ」

「え、否定しないっすか! マジのやべーやつっすか?!」


 ババッと大曲おおまがりは僕から距離をとった。顔にはとってつけたような驚愕の表情が張り付いている。どう見ても演技とわかる大げさなリアクションだ。


「気にすんな。相手はお前じゃない」

「なるほど! じゃあ大丈夫っす!!」


 いつも通りヘラヘラと笑いながら大曲おおまがりは僕の隣に戻ってきた。


 自分で言うのもなんだけど、こんなごまかし方でいいのかこいつは……。


「ところで……あたしたちはどこにむかってるっすか? 道、入り組んでてよく分からなくなってきたっす」


 僕らはちょうど民家の立ち並ぶ住宅街の間を歩いていた。周りには何年前から建っているか分からない木造建築ばかりが建っていて、青々としたツタに侵蝕されている家屋や、人間の寝床というよりネズミの住処と呼びたくなるような建物が散見される。


 建物と建物の間はグネグネと入り組んだ道路があり、大曲おおまがりの言う通りかなり道筋は複雑だ。家々は夕日に照らされて、ノスタルジックな雰囲気を醸し出している。


「ああ、そろそろつく」


 僕はそう言ってどんどん細い路地へと進んでいった。大曲おおまがりは首を傾げながらついてくる。徐々に道幅は狭くなり、とうとう二人が通れるか通れないかギリギリの狭さになった。それでもさらに細い道を進んでいくと……。


「……行き止まりっすね」

「そうだな」


 目の前には普通の一軒家の壁があるだけの、行き止まりにたどり着いた。周囲の家は妙に静まり返っていて、人の気配がない。正直、【黄昏】の入り口はどこでもいいのだが、人の少なさと寂しげな雰囲気から、僕はいつもこの行き止まりを利用している。


「せんぱーい。道間違えちゃったっすか? 男子のドジっ子は中学生までに卒業して欲しいっす!」

「女子はいいのか?」

「女子は問題ないっす。需要があるんで!」

「わけわかんねぇ……あ、そうだ」


 僕は大曲おおまがりの方に向き直り、びしっと大曲おおまがりを指さした。


「【黄昏】における三つのべからず集。言ってみろ」

「えぇ! 今ここでっすか?!」


 露骨に嫌そうな顔だ。昨日死ぬほど確認したはずなんだけど……。


「むしろ今言えなかったら何の意味もない。ほら、一つ目!」

「ええと……『一人で入るべからず』! 【黄昏】には必ず二人以上で入ることっす!」

「よし、次。二つ目!」

「『長居すべからず』! どんなに遅くとも、日が落ち切ってから一時間以内に戻ることっす!」

「よろしい。三つ目!」

「後輩女子に手を出すべからず! って痛い!!」


 持っていたファイルで大曲おおまがりをはたく。

 僕が大曲おおまがりに手を出すわけがない。うぬぼれるな。


「たった今ひっぱたいたじゃないっすか……手出しまくりっす……」

「失礼な。教育的指導だ。時間がないんだから真面目にやれ」


 夕日の赤みが増している。時間はそんなに残っていない。

 だけど、最後の「べからず」だけは絶対に確認しなければならない。これが一番重要で、そして一番難しいからだ。


「『なにも望むべからず』……っす」


 渋々、大曲おおまがりは言った。一応、ちゃんと全部覚えていたらしい。


「よろしい。肝に銘じておけよ。……さて」


 僕は持っていたファイルを開き、一ページ目に貼ってある記事から読み始めた。


「え、先輩、何してるっすか?」

「準備だ……しばらく話しかけるな」

 

 そう言いながら、僕はスクラップされている新聞の見出しを目で追う。


『新進気鋭のアーティスト、並木楓なみきかえで その独特の世界観』『十代で新人賞総なめ、彼女の描く現代』『凶悪殺人、犯人・手口未だ不明』『有名アーティストにパクリ疑惑? 芸術家の倫理観にせまる』……


「え? え? せんぱい、なにしてるっすか? それ、今ここで読むんすか?!」


 珍しく慌てた様子を見せる大曲おおまがりを完全に無視し、僕は読み進める。


 文字が目に飛び込むたびに、心臓が少しずつ冷えていくのを感じる。脳の溝が深くなっていくような、自分の生命力が吸い取られていくような感覚。少しずつ、自分の身体と心のバランスが崩れて、境界線があいまいになっていく。


『終わらない狂気 猟奇的『奇形殺人』』『枯れた才能 並木楓なみきかえでの盛衰』『盗作疑惑の真相を追求』『人間には不可能? サイコパス殺人の手法』『犯人未だ手がかりつかめず』……。


 そして、ファイルの最後のページ。


『「奇形殺人」の次の被害者は、アーティストの並木楓なみきかえでさん(22)であることが判明し……』



 ふっ、と。



 自分のなかのブレーカーが落ちたように、僕の心は静まり返った。世界に対するありとあらゆる期待が消え去って、同時にこの世のありとあらゆるものに興味がなくなっていく。何かを諦めるようにゆっくりと目を閉じる。


 すると、一つのイメージがぼうっと頭の中で浮かんだ。









 誰もいない駅のホームだ。

 黄色い点字ブロックのその先。

 段差の向こう側をのぞき込む。

 本来線路が敷かれている部分は暗闇になっている。

 もし、ここに落ちたら。

 遠くから電車がやってくるのを感じる。

 迫る電車の振動が、音が、風が、僕を暗闇へと急かす。

 同時に頭の中で躊躇いが生じ、境界線上で対話が始まる。


 行かなくちゃ。行きたくない。

 


 落ちなくちゃ。落ちたくない。


 

 死ななくちゃ。死にたくない。


 相反する問答に、どこからともなく女の声が混ざる。

 

 忘れもしない。彼女の声だ。





『もうね、気づいちゃったの』

『その二つに違いなんてないでしょう?』




 まったく……その通りだ。



「ちょっと……せんぱい、どうしちゃったっすか?」


 大曲おおまがりの困惑した声がする。ゆっくりと目をあける。

 先ほどまでのホームのイメージが靄が晴れるように消えて行く。



大曲おおまがり、お前、【黄昏】入ったことあるよな」



 僕の口から、僕の声がした。僕の声のはずなのに、ものすごく他人行儀で、僕の声をスピーカーにして別の誰かがしゃべっているかのようだった。


「え、あ、はい。あるっすよ」

「その時の精神状態、今再現しろ」


 すごく冷たい、機械的な声だ。普段だったら人間相手に絶対に出さない、相手のことを人間だと思っていない、投げやりな声。


「……ああ、なるほど」


 僕の指示を聞いて、大曲おおまがりは得心いった顔をした。僕の一連の行動の意図を理解したようだ。


「不器用っすね~。せんぱい。そんな回りくどいことしなくても、あたしは別にいつでもいけるっすよ」


 そう言った後、大曲おおまがりは少しだけ寂しそうに続けた。


「もともと、区別なんてついてないっすから」


 大曲おおまがりの声は、僕が今しがた出した冷たい声にそっくりだった。


「そうか。じゃあ行こう」


 僕は行き止まりの路地を、元来た道へと引き返す。大曲おおまがりも後ろからついてきた。通ってきたとおりに細い道を抜け、来た道のとおりに曲がりくねった道路を渡る。そして、とうとう広い通りにでると……。


「【黄昏】に、到着だ」


 奇怪な見た目の怪異たちがひしめく、先ほどとは全く異なる景色が広がっていた。

 ただ、オレンジ色の夕日の光だけは、いつもどおりに街を照らしていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る