010「【黄昏】の入り口」
僕、
正直、当時のことはほとんど覚えていない。もう四年近く前だから、いろいろなことが曖昧になっている。
恋人(もしくは、それに類する人)と唐突に別れ、その恋人が変死体として見つかったというショッキングな出来事であっても、四年という歳月は、ゆっくりとその記憶を薄めてくれた。もしかすると、あまりにも辛い出来事だったから、自己防衛のために脳が記憶に制限をかけているのかもしれない。どっちにしてもありがたい話だ。あんな記憶、いつまでも明瞭に覚えていたら、生きていける気がしない。
しかし、忘れられないこともある。その恋人らしき人との別れのシーンだ。そこだけは、何故か彼女のセリフも一言一句思いだせたし、扉が閉まる音までもはっきりと覚えていた。そのシーンの記憶はことあるごとに、ほんの些細なきっかけでフラッシュバックを繰り返していた。まるで、記憶そのものが僕に忘れないように訴えかけているように。
ただ、奇妙なことに、彼女の「顔」だけはそのシーンであっても思い出せなかった。
鮮明な記憶の映像の中、彼女の「顔」には
……でももう、今となっては全て過ぎたことだ。
色々と考えるのはやめよう。時間の無駄だ。
「せんぱいせんぱい。それ、何持ってるっすか?」
隣を歩く
事務所を出て、僕らは【黄昏】への入り口に向かっていた。道を知らない
徐々に日が傾き、世界はますますオレンジ色に染まりつつある。あまり時間は残されていないようだ。
「これか? 新聞の切り抜きとか、ネットニュースのコピーとかをまとめたものだ」
「ほえー……まさかあれっすか? 可愛い女の子の写真とかのコピーっすか? 一世代前のネットストーカー的なやつっすか?」
ニヤニヤしながら
まあ、しかし。
「……そうだな。当たらずとも遠からずって感じだ」
「え、否定しないっすか! マジのやべーやつっすか?!」
ババッと
「気にすんな。相手はお前じゃない」
「なるほど! じゃあ大丈夫っす!!」
いつも通りヘラヘラと笑いながら
自分で言うのもなんだけど、こんなごまかし方でいいのかこいつは……。
「ところで……あたしたちはどこにむかってるっすか? 道、入り組んでてよく分からなくなってきたっす」
僕らはちょうど民家の立ち並ぶ住宅街の間を歩いていた。周りには何年前から建っているか分からない木造建築ばかりが建っていて、青々としたツタに侵蝕されている家屋や、人間の寝床というよりネズミの住処と呼びたくなるような建物が散見される。
建物と建物の間はグネグネと入り組んだ道路があり、
「ああ、そろそろつく」
僕はそう言ってどんどん細い路地へと進んでいった。
「……行き止まりっすね」
「そうだな」
目の前には普通の一軒家の壁があるだけの、行き止まりにたどり着いた。周囲の家は妙に静まり返っていて、人の気配がない。正直、【黄昏】の入り口はどこでもいいのだが、人の少なさと寂しげな雰囲気から、僕はいつもこの行き止まりを利用している。
「せんぱーい。道間違えちゃったっすか? 男子のドジっ子は中学生までに卒業して欲しいっす!」
「女子はいいのか?」
「女子は問題ないっす。需要があるんで!」
「わけわかんねぇ……あ、そうだ」
僕は
「【黄昏】における三つのべからず集。言ってみろ」
「えぇ! 今ここでっすか?!」
露骨に嫌そうな顔だ。昨日死ぬほど確認したはずなんだけど……。
「むしろ今言えなかったら何の意味もない。ほら、一つ目!」
「ええと……『一人で入るべからず』! 【黄昏】には必ず二人以上で入ることっす!」
「よし、次。二つ目!」
「『長居すべからず』! どんなに遅くとも、日が落ち切ってから一時間以内に戻ることっす!」
「よろしい。三つ目!」
「後輩女子に手を出すべからず! って痛い!!」
持っていたファイルで
僕が
「たった今ひっぱたいたじゃないっすか……手出しまくりっす……」
「失礼な。教育的指導だ。時間がないんだから真面目にやれ」
夕日の赤みが増している。時間はそんなに残っていない。
だけど、最後の「べからず」だけは絶対に確認しなければならない。これが一番重要で、そして一番難しいからだ。
「『なにも望むべからず』……っす」
渋々、
「よろしい。肝に銘じておけよ。……さて」
僕は持っていたファイルを開き、一ページ目に貼ってある記事から読み始めた。
「え、先輩、何してるっすか?」
「準備だ……しばらく話しかけるな」
そう言いながら、僕はスクラップされている新聞の見出しを目で追う。
『新進気鋭のアーティスト、
「え? え? せんぱい、なにしてるっすか? それ、今ここで読むんすか?!」
珍しく慌てた様子を見せる
文字が目に飛び込むたびに、心臓が少しずつ冷えていくのを感じる。脳の溝が深くなっていくような、自分の生命力が吸い取られていくような感覚。少しずつ、自分の身体と心のバランスが崩れて、境界線があいまいになっていく。
『終わらない狂気 猟奇的『奇形殺人』』『枯れた才能
そして、ファイルの最後のページ。
『「奇形殺人」の次の被害者は、アーティストの
ふっ、と。
自分のなかのブレーカーが落ちたように、僕の心は静まり返った。世界に対するありとあらゆる期待が消え去って、同時にこの世のありとあらゆるものに興味がなくなっていく。何かを諦めるようにゆっくりと目を閉じる。
すると、一つのイメージがぼうっと頭の中で浮かんだ。
誰もいない駅のホームだ。
黄色い点字ブロックのその先。
段差の向こう側をのぞき込む。
本来線路が敷かれている部分は暗闇になっている。
もし、ここに落ちたら。
遠くから電車がやってくるのを感じる。
迫る電車の振動が、音が、風が、僕を暗闇へと急かす。
同時に頭の中で躊躇いが生じ、境界線上で対話が始まる。
行かなくちゃ。行きたくない。
落ちなくちゃ。落ちたくない。
死ななくちゃ。死にたくない。
相反する問答に、どこからともなく女の声が混ざる。
忘れもしない。彼女の声だ。
『もうね、気づいちゃったの』
『その二つに違いなんてないでしょう?』
まったく……その通りだ。
「ちょっと……せんぱい、どうしちゃったっすか?」
先ほどまでのホームのイメージが靄が晴れるように消えて行く。
「
僕の口から、僕の声がした。僕の声のはずなのに、ものすごく他人行儀で、僕の声をスピーカーにして別の誰かがしゃべっているかのようだった。
「え、あ、はい。あるっすよ」
「その時の精神状態、今再現しろ」
すごく冷たい、機械的な声だ。普段だったら人間相手に絶対に出さない、相手のことを人間だと思っていない、投げやりな声。
「……ああ、なるほど」
僕の指示を聞いて、
「不器用っすね~。せんぱい。そんな回りくどいことしなくても、あたしは別にいつでもいけるっすよ」
そう言った後、
「もともと、区別なんてついてないっすから」
「そうか。じゃあ行こう」
僕は行き止まりの路地を、元来た道へと引き返す。
「【黄昏】に、到着だ」
奇怪な見た目の怪異たちがひしめく、先ほどとは全く異なる景色が広がっていた。
ただ、オレンジ色の夕日の光だけは、いつもどおりに街を照らしていた。
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