地をつつむ空

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地をつつむ空

 鳴り止まない蝉の声は、身体中に纏わりつく暑さをより強める。小林優香はハンドバッグからハンカチを取り出し、白い額を拭った。隣の小林圭人は歩きながらペットボトルの水を半分ほど飲む。駐車場から出て、まだそれほど時間が経っていないにも関わらず、二人は汗だくになった。

 5分ほど歩くとクリーム色の二階建の建物が見えてきた。入り口には『児童養護施設 楓』と書かれている。そこからは庭を駆け回る子や、砂場で遊ぶ子が見えた。優香と圭人は思わず微笑む。

 子どもたちを眺めていると、施設の中からポロシャツにジーンズを履いた中年の女性が出てきた。

「小林様ですね、お待ちしておりました」

 女性は二人を笑顔で迎え、施設の中に案内した。


 応接室に案内され、優香と圭人は来客用のソファに腰かけた。閉めきった部屋でもかすかに子どもたちの声が聞こえる。ここにはどんな子達がいるのだろうと優香が想像を膨らませていると、先程案内してくれた人とはまた別の女性が入ってきた。グレーのレディーススーツを着用し、少し垂れた目とふくよかな顔つきは、人が良さそうな印象を受けた。

「大変お待たせして申し訳ございません。初めまして、施設長の工藤と申します」

「小林圭人と申します。こちらは妻の優香です」

「よろしくお願い致します。早速ですが、小林様は養子縁組をご希望ということでお間違いないでしょうか?」


 工藤に案内をしてもらい、施設を見学する。

「この子達がここにいる理由は様々です。ご両親が病死された子や虐待、育児放棄など。子どもたちの中にはカウンセリング等の治療を行っている子もいます。その子の過去や性格、個性を尊重していただきますよう、お願い致します」

「はい、勿論です」

 優香と圭人は頷き、工藤の後に続く。施設内には様々な子達がいた。元気に鬼ごっこをする子や、ボール遊びをする子。中学生くらいの子は自分よりも下の子に勉強を教えていた。挨拶を元気良くする子もいれば、通りすがるときに俯いてしまう子もいた。

 

 一通り施設の見学を終え、二人は1階のレクリエーション室に向かった。ここにはちゃぶ台のような小さなテーブルが三卓と、腰ぐらいまでの高さの本棚があり、床には黄色いカーペットが敷いてある。皆が思い思いに過ごしている。

 優香は皆から離れてボードゲームをする小学校低学年くらいの少年に近づいた。

「こんにちは」

「こんにちは!」

 少年は笑顔で優香に挨拶を返した。こちらを向いたときに、艶やかな黒髪のキューティクルが光った。

「初めまして、優香って言います。ゲームをしてたの?」

「ボクは陸! そうだよ、人生ゲーム。空とこのゲームをするのが好きなんだ」

「空?」

「うん、ボクの双子の弟。ほら空、お前も挨拶しなよ!」

 少年は自分の向かいに声をかけた。

「ごめんなさい、空は知らない人と話をするのが苦手なんだ。ボクたち同じ顔なのに性格が全然違うの」

「空くんは陸くんの双子の兄弟なんだね」

「そうだよ! ボクたちいつも一緒にいるんだ。だから友達がいなくても平気」

「そう……。二人だけで寂しくない?」

「全然!」



 施設から出て30分ほど車を走らせると、流れていく景色が、木々から味気のないコンクリートに変わっていった。

「優ちゃんはあの子が気になってるの?」

「陸くんたちのこと?」

「そうそう」

「うん。あの子達だけの世界を生きてるって感じで何だか気になった」

「確かに。ちょっと回りからも浮いてたよな」

「そういうこと言わないで」

「ごめんごめん」

 平謝りしながら圭人はアクセルを踏む。優香は景色を見ながらぼんやりと考えていた。二人だけの世界に住む彼らがこの先大きくなったとき、自立して社会に出ることができるのだろうか。

「7歳だっけ、陸くんたち……」

「ああ……。そうだね」

「7歳か……」

 優香は呟いて再び窓に目をやった。圭人は静かにウィンカーを出し、ハンドルを右に切った。



「ねえ、私たちも混ぜて」

 優香はしゃがみ、陸に視線を合わせて訊ねた。

「うん、いいよ」

 今日も陸たちは孤立していた。何度か陸たちを訪ねているが、他の子どもと遊んでいるところは見たことがない。

 離れたところで子どもの元気な声が聞こえる。周囲にはルーレットの無機質なカラカラという音が小さく響き、弱々しく消えていった。

 


「ねえ陸くん、私たちと一緒に暮らさない?」

 優香が声をかけると、止まったマスの文章を読んでいた陸が顔をあげた。ポカンとした表情を浮かべ、優香と圭人を見つめる。

「すぐにって訳じゃないよ。これからもっと皆で遊びに行って、もっとお互いのことを知ってから……。どうかな?」

 圭人も陸を見つめ訊ねた。

「うん、楽しそう! ボク、優香ちゃんと圭人くんと暮らしたい! 空もそうだよね?」

「ボクは……。今のままでいい。ここにいたい」

 普段あまり話さない空が初めて声を出した。

「何で? 絶対に楽しいのに」

「そんなの分からないだろ」

 優香と圭人は互いを見合い、弱々しく笑った。

「そうだよね、突然だったよね。ごめんね」

 優香が謝まり、ゲームを再開した。圭人がルーレットを回す。カラカラ響く音が耳の中で木霊した。


「やっぱり空くんは私たちのこと信用してないね」

 食事を作りながら優香は圭人に声をかけた。圭人はテーブルに食器を並べ終え、キッチンに入ってきた。

「まあ、あんな過去があればな」


 何度目かの訪問の際、優香と圭人は施設長に彼らとの縁組を考えていることを伝えていた。施設長の垂れ目がさらに下がった。

「あの子達ですか…… 少し難しいかもしれませんね。陸くんはお二人に懐いているので大丈夫かもしれませんが、空くんが……」

「あの子は何故ここに? その理由と空くんがなかなか心を開いてくれないことに関係があるんですよね……?」

 優香の問いに施設長が重々しく答える。

「父親からの虐待です。近所の方が通報して保護されました。元々気性の荒い性格だったらしく、子どもだけじゃなく、奥様にも手を上げていたみたいです。最初こそ奥様はあの子たちを守っていたんですが、その生活にも疲れて、家を出ていってしまったそうです」

「だからあの子達は私たちに心を開かないんですね」

「空くんだけがそのことを覚えているのですが、陸くんはショックから、ここに来る前の記憶が所々なくなっていまして……。空くんは陸くんが傷つくことがないように守っているという状態です。悲しみから遠ざけているんです」


 

 カーテンの隙間から青白い光が差し込む。陸の黒髪が一筋だけ光を帯びる。陸は布団から少しだけ姿を見せる月を見ながら、優香と圭人のことを考えていた。

「ねえ、優香ちゃんってママに似てるって思わない?」

 月を眺めたまま陸は小声で空に訊ねた。

「あの人がママに……?」

「うん。優しくて、いつもニコニコしてる感じが似てる」

「……ああ、確かにママはいつも笑ってたね」

 陸の記憶ではね、という言葉を飲み込んで空は答えた。

 陸にとってママはいつでも優しくて明るい人だ。ボクらを置いていったことなんて覚えていない。

「ちょっと買い物に行ってくるね」と言って家を出たきり帰ってこない。パパから毎日暴力を受けていたんだから仕方ないと冷静に思った。それに……。

 陸にショックを与えたくなくて、ママは事故に遭ったのだと嘘をついた。陸は泣いて泣いて大変だったが、自分が捨てられたのだと知るよりずっと良い。辛いことはボクだけが知っていれば良いんだ。

「じゃあさ、圭人はどうなの? パパみたい?」

「分からないよ。もー! いつも言ってるだろ、パパのことは覚えてないんだって」

 それで良いんだ。辛い記憶はボクの中にあれば良い。

「空はあの二人の何が気に入らないの?」

「気に入らない訳じゃない。ただ、もう傷つくのは嫌だ」

「二人はそんなことしないよ。優しいし、楽しい

し。それに、ボクたちのことを変な目で見ない」

「今はね。けど、すぐに皆と同じになるよ」

「どうしてそうやって意地悪ばかり言うの?」

「意地悪じゃない……」

 空はそれきり言葉を返さなくなった。

 陸は優香たちと暮らす姿を想像した。ボクたちだけの部屋に、ボクたちだけのオモチャ。ご飯は沢山おかわりができて、好きなときにお菓子を食べられる。優香ちゃんと圭人くんとボクたちでゲームをして楽しむ。圭人くんは車が運転できるから皆でドライブにも行ける。

 考えているうちに陸は眠りに落ちた。



「二人のおうちに行くの、ずっと楽しみだったんだ!」

 陸はチャイルドシートから立ち上がりそうな勢いで優香と圭人に話しかけた。

「そんなに楽しみにしてくれてたなんて嬉しいな」

 圭人はバックミラーでチラリと陸を見て答えた。

 あの後も優香たちは陸たちを訪ね、一緒にゲームをしたり、ときには施設を出て遊園地や水族館で一緒に遊んだ。初めての体験に陸は毎回大喜びではしゃいだ。その度に優香と圭人は子どもの体力には際限がないのかと驚かされたが、同時に楽しんでいる姿がとても嬉しかった。

 今日は初めて優香と圭人の家に遊びに行く日だった。

 もし縁組の話が進めば、本格的に手続きをする前に半年ほど二人の家に住み、適正を調べる。

 相変わらず空は縁組に反対しているが、少しでも前向きに考えてもらいたくて今日という日を設けた。


 1時間ほど車を走らせビル群を抜けると、閑静な住宅街に着いた。路地の木々は紅葉の準備を始めていた。その色に負けるものかと競うように水色、黒色、クリーム色と、様々な色の家が並んでいる。陸が夢中で窓の外を見ていると、白い家の前で景色が止まった。圭人は慣れた様子で車庫に車を入れた。

「はーい到着」

 圭人が後部座席に体を向けて言った。優香がチャイルドシートのベルトをはずし、車のドアを開ける。

「ここが二人の家なんだね!」

 陸が車からピョンと降りながら言う。真っ白な家は陸には眩しく見えた。壁が日の光を反射する。「わー!」と声を上げ、陸は家の回りを駆ける。車庫の反対側には小さな庭があり、ミニトマトの鉢植えがあった。角にはピンクのスコップと緑色のジョウロが置かれている。

「お花も育てようと思ってるだ」

 優香が後ろから声をかけ、陸の隣にしゃがんだ。

「何を育てるの?」

「うーん、まだ考えてるところ」

「ひまわりはどう?」

「ひまわりかあ、ちょっと育てるには狭いかなあ」

 優香は苦笑しながら答えた。

「ねえ、空は何が良いと思う?」

 陸が問いかける。

「何でもいいよ。ボクらには関係ない」

「もー! またそうやって意地悪言う! 優香ちゃん、ごめんね」

「大丈夫だよ」

「おーい、冷たいカルピス入れたぞー。皆で飲もう!」

 圭人の声が正面玄関から聞こえてきた。

「はーい!」

 陸は声のした方へすぐに走り出した。


 おやつを終えて陸は優香に家の案内をしてもらった。それぞれの仕事部屋を案内されたとき、まるで施設の職員室みたいだと陸は思った。オモチャが置いてなくて、パソコンや本が沢山ある大人の空間。足を踏み入れると自分も大人になったような感覚になる。近くにあった本をパラパラと捲ったが、文字ばかりで絵がなく、何が書かれているのか全く分からなかった。

 しかし寝室には陸がよく読む少年漫画が置かれており、何だか安心した。まだ読んだことのない面白そうな漫画も沢山あった。目新しいものを見つける度に陸は空に「凄いね!」と話しかけたが、空の返事は素っ気なかった。


「よし、これで全部だよ。リビングに戻って皆でゲームしよう」

「全部? そこのお部屋はまだだよ」

 陸が斜め後ろを指差す。

「そこはね、まだ散らかってるから見られたくないんだ。もう少し片付いたらそこも案内するね」

 優香は困り顔で答えた。

「そっかー」

 陸は少し残念そうな声で言った。

「何か見せたくないものでもあったりして」

「そういうこと言わないで! 優香ちゃんごめんね」

「ううん、大丈夫。空くん、あの部屋は本当に散らかってるだけだよ」

「ふーん」

 納得のいかない顔で空はじっと扉を見ていた。


 圭人と陸がマリオカートで夢中になって遊んでいると、リビングにアラームの音が響いた。陸は音に驚き、アイテムを取り損ねた。

「ああ、もう時間か」

 優香はスマホをスワイプしてアラームを止めた。

「えー! 良いとこだったのに」

 陸はふてくされた顔でコントローラーを置いた。

 優香は帰り支度を手伝い、圭人は車の準備をしに行く。陸たちが使ったコップを流しに置き、ソファーの上から陸の鞄を持ってきた。

 陸は先に玄関に向かい、優香はもう一度部屋を見渡し、忘れ物が無いか確認した。大丈夫そうだ。

 日焼け防止の白いカーディガンを羽織り、リビングを出た。すると、廊下に立ってた陸にぶつかりそうになる。

「わっ! まだそこにいたの? もう車に乗ったと思った」

「ねえ、陸を傷つけない?」

「あ、空くんか。陸くんだと思った。傷つけないって?」

「陸は二人のことが本当に好きなんだ。二人と暮らしたいって思ってる。だけど、またもし傷つくことがあったら……」

「私たちは絶対に陸くんも空くんも傷つけないよ」

「そんな簡単に信じられない」

「すぐじゃなくて良いよ。空くんが私たちのことを信じてくれるまで待ってるから」

「どうしてそんなにボクたちと暮らしたいの?」

 空は俯いたままその場に立ちすくむ。

「うーん、それをすぐに説明するのは難しいな……。またうちに来たときじゃ駄目かな……?」

「おーい、まだー?」

 圭人が外から声をかけた。

「もうちょっと待って!」

「いいよ、分かった。今日はもう帰る」

 優香を置いて空は玄関で靴を履き、圭人が開けてくれていたドアから外に出る。

「優ちゃんも早く」

「うん、ごめんね」

 優香は答えるとカーディガンを羽織り直し、パンプスを急いで履いて車に乗り込んだ。



 クリーム色の壁紙には子どもたちが描いた絵や折り紙が貼ってある。部屋の真ん中には紺色のカウチに横たわる陸と白いテーブルで何かを書くスーツ姿の中年男性がいる。胸には “精神科医 山田” と書かれた名札がある。

「最近は何か楽しいことはあったかい?」

「うん! 優香ちゃんと圭人くんと遊んでね――」

 陸は一ヶ月に一度のカウンセリングを受けていた。

「それでね――」

 陸は身振り手振りで優香と遊園地に行ったことや、圭人がいかにゲームで強いかを説明した。山田はカルテにペンを走らせながら陸の話を聞く。

「けど、お化け屋敷は怖かった」

 山田はペンを止めた。

「空?! どうしたの?」

陸も驚き問いかけた。

「遊園地は確かに楽しかったけど、怖いものもちょっとあった」

「お化け屋敷か……。確かに怖いよね。私も苦手だよ。具体的に何が怖かったんだい? やっぱりお化けかな?」

「お化けはそんなに怖くなかった。真っ暗で何も見えないのが怖かった。大きな声とか、叫び声とか……」

「暗さと声か……。なるほど」

「そうだったっけ? ボクあまり覚えてないや」

「陸くんも一緒にいたんだよね? 全く覚えていないの?」

「うーん……。何となくお化け屋敷に入ったことは覚えているんだけど、どんなだったかは覚えてないや」

「そうか、分かったよ。ありがとう。……よし、今日はここまでにしよう。二人ともお疲れさま」


 全員の診察を終え、山田は再びカルテに目を落とした。

 今日の空には驚いた。彼に出会ってから2年になるが、空から話をするのは初めてだった。これは進歩だ。話しに出てきた夫婦の影響が大きいのだろう。

 これまでの問診では、陸の話には空以外の人物はほとんど出てこなかった。しかし今日はどうだ。優香と圭人との思い出をずっと話していた。この調子なら……。

 山田は陸と空のカルテに追記をし、荷物をまとめた。



 気がつくと陸は懐かしい場所に経っていた。古い木目の柱に、黒いドア。微かにバラの芳香剤が香り、玄関には大人サイズの靴が散乱している。昔住んでた家のようだ。ただ一つ違うのは、部屋の中に霧がかかっているところだ。そのせいでぼんやりとしか部屋が見えない。

 ドタドタと後ろから音がしたかと思うと、一人の女性が陸の前に現れた。茶色い髪が胸元まであり、薄いピンクのコートを着ている。

「陸、ごめんね。ママ忘れ物しちゃったから、買い物に行ってくるね。お留守番お願いね」

「ダメ!」

「どうしたの陸? ママ急いでるから早く行かないと!」

「ダメだよ! 今出ていったら事故で死んじゃう! ねえ、空も止めてよ!」

 陸は振り返り大声で話した。しかしそこに空はいない。あれ、空は? と思っていると、バタンとドアが閉まる音がした。目の前にいたママが消えている。

「ママー!!」


 次の瞬間、陸はいつもの見慣れた部屋に寝転んでいた。他の子どもたちの寝息と僅かに射す月明かりで自分が夢を見ていたのだと気づいた。

「ねえ空、そこにいる?」

 夢で起きたことが現実になっていないか不安で、陸は慌てて空を呼ぶ。

「いる。どうしたの? 怖い夢でも見た?」

 空がちゃんといることに安堵し、「大丈夫」とだけ答えて再び布団に潜った。

 ママの夢なんてほとんど見ないが、せかせかしてる姿を見て懐かしい気持ちになった。かすかに残る記憶の中のママは、いつも笑顔でバタバタと動き回っていた。しかし、夢の中ではいつもと少し様子が違っていたような気がした。ぼんやりとした視界だったためにハッキリとは分からないが、いつもよりも焦っているような……。余程大切なものを忘れてしまったのだろう。慌てん坊さんだなあ。



「今日は圭人くんに負けないよ!」

「おお、子どもだからって手加減しないからな!」

 陸と圭人は家に着くなり我先にとリビングに向かう。優香は二人の背中を見て、年の離れた兄弟みたいだと思った。思わず笑みがこぼれる。もしあの子がここに住んでくれるなら……。

 2階に上がった突き当たりの部屋を優香は見つめる。今日話そう。茶色いドアを開き、部屋の空気を吸い込むように深呼吸をした。少し埃っぽい段ボールの香りが鼻を抜けた。


「ねえ、ちょっと来てもらっても良い?」

 白熱のカーレースが終わったタイミングで優香は声をかけた。

「陸くんと空くんに見せたいものがあるの」

 そう言われると陸はコントローラーを床に置き、廊下に出た。優香の後をついて2階に行く。

「ここって……」

「そう、前に見せてあげられなかった部屋だよ」

 締め切られてたドアは解放され、部屋の中が見えた。開かれた窓から入る風で、水色のカーテンがそよそよとなびく。そのすぐ近くには段ボールがいくつか置かれている。

「入って」

 優香に促され、陸は部屋に足を踏み入れる。日当たりが良く、中はとても暖かかった。

「これがあったから、このお部屋を見せてあげられなかったの」

 優香が段ボールを一つ陸の前に置いた。

「見ても良いの?」

「うん」

 その場に座り、陸はそっと段ボールに手を掛ける。開けたときに少し埃が舞った。光に反射して上に下に不規則な動きをする。

 中には未開封のベビー服や、赤ちゃん用のオモチャが沢山入っていた。他の段ボールも同じだが、一枚だけ白黒のモヤモヤとした写真があった。

「それはね、私のお腹にいた赤ちゃんの写真」

 優香は写真を見つめ静かに言った。

「私たちにはね、赤ちゃんがいたの。私ずっと子どもが欲しかったんだけど、なかなかできなくてね……。ちょっと時間がかかってからやっとできたの。二人で本当に喜んで喜んで……。けどね、私のお仕事がとても忙しくて……。なかなかお休みがギリギリまで取れなかったの。睡眠もあまり取れなくて、体調が悪くなって……。それで……」

 写真にぽつりぽつりと雫が落ちる。優香は声を詰まらせ話を続けられなかった。

「優ちゃんのせいじゃない……! 俺だって……。何もしてあげられなかった……。ごめん……」

 圭人が優香を抱き締める。写真には更に水滴が落ちた。

「優香ちゃん……。圭人くん……」

 陸も二人をそっと抱き締めた。陸も知らず知らずのうちに涙が溢れてきた。会ったことのない二人の赤ちゃん。なのに自分の兄弟を失ったかのような悲しみがあった。


 圭人が差し出した紅茶を鼻声で「ありがとう」と言って優香が受けとる。陸にはグラスに入ったアイスティーが出された。

 静かに優香は紅茶を啜り、小さく息を漏らした。

「ごめんね、急に泣き出しちゃって」

「ううん、大丈夫だよ」

「もう落ち着いたからね」

 そう言ってまたカップに口つけた。

「もしあの子が生まれてたらね、陸くんたちと同い年だったんだよ」

「そうなんだ……」

「だからなのかな……? 初めて会ったときから陸くんたちのことが気になって。一緒に過ごしてると、ああ、あの子がいたらこんな感じだったのかなあって思ってね。そしたら、陸くんたちが本当に私たちの子みたいに思えちゃって」

「ボクも二人と一緒にいると、パパとママがいたらこんな感じなのかなあって思ってたよ」

「本当……?」

「うん! 本当のママとパパみたい」

「陸くん……」

「ボク、二人と一緒に暮らしたい!」



「何で勝手に決めるんだよ……」

 カラカラとルーレットの音が響く。相変わらず陸たちの回りには誰もいない。

「もしパパみたいにボクらを傷つけたらとか考えないの?」

「二人はそんなことしないよ」

「絶対しないなんて言えるのか? 言えないだろ?」

「言えるよ!」

 陸が大きな声で反論した。遠巻きにいた子どもたちは一斉に陸に注目する。そして目を逸らした。

「空も聞いただろ、あの二人の話を。あんなに悲しい思いをしたんだよ? ずっと子どもが欲しかったのに死んじゃって……。ボク、パパのことは空から聞いた話しか知らない。ボクたちをぶったりする怖い人だって言ってたよね? けど、大切な自分の子を亡くした人たちが、新しい家族を傷つけるなんてないと思うんだ。あの二人はパパとは違う……」

 空は何も言わずにルーレットを回す。お前には分からないさ……。人の良い面しか知らないお前には……。ルーレットは3を示している。静かに駒を進めた。



 陸はまた霧がかった昔の家にいた。しかし前よりも少し霧がおさまっているように思えた。

 家の中を見渡していると、背後からドタドタとママが玄関に向かっていった。

「ねえ! ボクも買い物一緒に行きたい!」

 ママの後ろ姿に向かって陸は言った。だが上手く声が出せない。喉の辺りで言葉が引っ掛かってるような感覚だ。

“ママ! ボクたちも連れていって!!”

 頭の中で自分の声が反響する。

 ママが行ってしまう――


 ガバッと勢い良く陸は起き上がった。額から汗がダラダラと垂れている。パジャマも濡れてしまった。しかしそんな気持ち悪さも、先程見た夢に比べたら気にならなかった。

 最近、よくママの夢を見る。そして見るたびに夢の中の一つ一つの感覚が、現実味を帯びているようだった。

 喉の詰まりが幻であることを確認するために、陸は「あー」と発声した。

 悪い夢を見るのは寝慣れない布団だからだろうか?

 優香と圭人は縁組の話を進め、遂に半年間の“お試し期間”となった。陸たちは施設を一時的に出て、優香と圭人の家で暮らしている。

 水色のカーテンは夜だとより濃い青色になった。段ボールがあった場所には折り畳み式の小さなテーブルが置かれていた。

「空、またママの夢を見たよ……」

 陸が声をかけても、空からの返事はなかった。

「空、ねえ、空?」

 空がいない。どこに行ったんだ?

 不安になり、陸は部屋から出て空を探しだした。優香たちの寝室のドアをそっと開く。中を覗いたが空はいない。

 二人の仕事部屋にも空はいない。1階に降り、リビング、キッチン、お風呂やトイレも見たが、どこにもいない。

 どこに行っちゃったんだ……。もう一度自分達の部屋に戻った。すると、折り畳みテーブルの前に座る空がいた。

「空! どこに行ってたの?」

「ずっとここにいたよ。寝ぼけてるんじゃないの?」

「ウソだよ、さっき見たときはいなかったじゃないか」

「あんま大きな声出すなよ。二人が起きちゃうだろ。とにかく何もなかったんだからもう寝なよ」

 絶対に部屋にはいなかったのに……。空の背中を見ながら陸はまた布団に戻った。自然と眠りに落ちていった。



 久しぶりに陸たちは施設に戻ってきた。今日は月に一度の問診だ。ここを離れてそれほど経っていないのに、陸には懐かしく感じられた。

 陸が素直に話せるよう、優香と圭人は応接室で待たせてもらった。

 いつものカウチに陸は横たわる。

「陸くん、元気だったかい? 新しい生活はどう?」

「すっごく楽しいよ!」

「おお、そいつは良かった。生活環境が変わって、何か君自身に変化はなかった?」

「うーん、特にはないかな……。あ……」

 陸の表情が少し曇る。山田はそれを見逃さなかった。

「どうしたんだい?」

「……最近、よくママの夢を見るんだ」

 陸は夢の内容を山田に伝えた。

「何だか見るたびに怖い夢になっていく……」

「怖いって、どんな風に?」

「よく分からない……。声が出なくなって、体が重くて、ママがどんどん遠くに行っちゃう感じがするんだ」

「夢の中のママの様子はどんな感じ?」

「凄く忙しそう。慌てん坊さんだったから、ママはいつも忙しそうにしてた。けど、いつものママよりももっと忙しそうで……」

「前に、ママはいつも笑顔で優しかったって言ってたよね? 夢のママはどうだった?」

「どうだったかな……。あまり顔は分からなかったから……」

 話が途切れたところで山田は急いで会話の内容をカルテに書き込んだ。再び陸に向き直る。

「今日は空くんとお話しできそうかい?」

「何が聞きたいの?」

 静かに空は答える。天井を見る目はぼんやりとしていた。山田はすかさず質問をした。

「君も陸くんと同じ夢を見るのかい?」

「ボクは夢を覚えてないから分からない」

「そうか……。空くんはママのことを覚えてる?」

「あまり覚えてないけど、優しい人だよ」

「それは陸くんが優しい人だと言ってるから?」

「そうだね」

「パパのことは覚えてる?」

「覚えてるよ。思い出したくもないけど」

「それはどうして?」

「自分のことを殴ったり、蹴ったりする人のことを覚えていたいなんて思わないでしょ?」

「パパは普段から暴力を振るっていたんだね」

「そうだよ。陸にも、ママにも……。もういい? 気分が悪くなってきた……」

「ごめんね、最後に一つだけ。本当にママのことは覚えていないんだね」

 空はもう何も答えなかった。少し青ざめた顔を山田から背ける。

「長い間お疲れさま。今日はもう終わりだ」

 空はそそくさと部屋から出ていった。乱暴に閉められたドアの音が部屋に響く。



「お前は本当に気味が悪いな! 何だその目は? そんな目で俺を見るんじゃねえ!」

 霧がかった部屋に、知らない男の人の怒鳴り声が響く。陸はその男を見上げていた。肩まで伸びた黒髪、ヨレヨレのTシャツを着て、息がとてもお酒臭い。

 気持ちが悪くて、怖くて、陸はその場から動けずに泣き出した。

「ああああああ!! 泣き喚くな、うるせえ!!!」

 次の瞬間、体が宙に浮き、そして地面に叩きつけられた。痛いはずなのに何も感じない。

「お前なんかいらねえんだよ! アイツにもおろせって言ったのに、勝手に産んでどこかに行きやがった! 全部お前のせいだ!!」

 お腹に男の蹴りが入る。また体が浮かび上がる。



 ここ数日、陸はまともに眠れなかった。眠るたびに怖い男の夢を見る。優香と圭人にその事を話すと、山田が勤務している病院に連れていってくれた。

 空に相談をしても、夢なんだから気にするなとしか言わない。

 最近空が冷たいと陸は感じていた。前はあんなに仲良く遊んでたのに……。一人で遊ぶことが増えていった。空がどこかへ勝手に行ってしまうのだ。

 


 “またこの夢か……”

 霧がかったいつもの部屋に陸は立つ。しかし今日はいつもより霧が少ない。部屋の景色が以前よりも鮮明に見える。

 バタン! バタン!

 後ろからした大きな音に陸は振り返った。ママの姿はとても疲れきっていて、髪は酷くボサボサで、顔には青アザが数ヶ所できていた。

 ママがタンスを開けて中から何か取り出した。急いでハンドバックに仕舞いこむ。

 ドタドタと陸の横を通り、玄関に走った。

「ごめんね、ママ忘れ物しちゃったから、買い物に行ってくるね。お留守番お願いね」

 見たことのない険しい表情でママは靴を履き始めた。

「待ってママ、ボクも買い物一緒に行きたい!」

「ダメダメ、良い子だから陸はお留守番!」

「嫌だ! 一緒に行く!」

 薄いピンクのコートの裾を掴んで陸は離さない。

「我が儘言わないでよ!」

 ママは陸の手を無理矢理裾から離した。その度に陸はまた裾を掴む。

「お願い! 一緒に行きたい! 空も行きたいって言ってるよ!」

 ママの顔はこれ以上ないくらいに赤くなり、陸を突き飛ばした。

「もうやめてよ、空、空って! 気味が悪いの! あんたのせいでアタシはもう限界なの!」

 突き飛ばされたときに打った頭が痛い。それでもまたママに陸はすがった。

「嫌だ、嫌だ、置いていかないでよ!」

「もううるさい!! 黙れええ!!!」

 次の瞬間ママが陸の上に馬乗りになって激しく頭を揺すった。

「もうママを困らせないで! 変な話をしないで!」

 ぐったりした陸を見て、ママはハッと我に返った。そしてそのまま家を飛び出した。

 苦しい……。動けない。

 陸は体を動かそうとするがピクリともしない。意識が遠のいていく。


 陸は真っ暗で狭い場所に座っていた。かろうじて足が伸ばせる。手を伸ばすと壁に当たる。

「出して! ここから出して!」

 ダン!ダン!と力の限りに陸は壁を叩く。何も見えない。苦しい。暑い。

「出して! 出して!」

 どれだけ助けを求めても誰も来ない。遠くから低い声がかすかに聞こえた気がした。怒鳴っているような声だ。声は聞こえるのに誰も来てくれない。このままボクは死んじゃうのかな……。

 “しっかりして!”

「え、誰……?」

 誰かの声がした。何だか聞き覚えのある声だ……。

 “ボクがいるから”

「君は誰なの……? どこにいるの?」

「何言ってるんだよ、ボクを忘れちゃったの? 弟の声を忘れるなんて酷いなあ」

「ボク、弟なんていない……」

「もー、またそんなこと言って! ボクたちは産まれたときから一緒だろ?」

 スゥっと意識が途切れると、今までの不安な気持ちが一気になくなった。陸はそこで不思議なことに気が付いた。“ボク”が目の前にいる。真っ暗で何も見えないはずなのに、ボクがハッキリと見える。

 目の前の“ボク”は微笑見ながら陸を見つめている。

 陸が状況を飲み込めずにいると、頭上から僅かに光が見えた。それは徐々に大きくなり、それと同時に息苦しさも消えていった。

「陸!! 大丈夫?! こんなにアザだらけで……。血も出てる……。生きてて良かった……」

 ママが泣きながら陸を抱き締める。しかし陸は何も感じなかった。痛みもママの温もりも何も感じない。ママが抱き締めているのは自分のはずなのに。どこか遠くからその光景を眺めている感覚だ。しかし、体を動かそうと思えば自分の思うように動いた。ママを引き離し、そっと声を発した。

「ボクたちのママなのに、見分けもつかないの? ボクは空だよ」



 ジリリリリリリ。

 目覚まし時計の音で陸は目覚めた。また汗まみれだ。

 ふと自分の横を見る。隣にいるはずの空がいない。いつも陸と同じタイミングで起きるはずの空がそこにはいなかった。慌てて1階に降り、リビングへと向かった。


「おはよう。どうしたんだ、そんなに慌てて?」

 圭人の挨拶も無視して、陸はリビングを走り回って空を探した。

「陸くん、どうしたの?」

 陸の必死な剣幕にただ事ではないと思い、キッチンから優香が声をかける。

「空が! 空がいないんだ! ねえ、空見てない? もう起きてきた??」

「ああ、空くんか……」

 圭人は優香に視線を合わせる。

「空くんならね、今出掛けてて遅くなるみたい。早くから出てっちゃった」

 優香は目玉焼きを乗せた皿を運びながら陸に言った。

「出掛けたってどこに?」

「工藤さんのお手伝いがあるからって言ってたよ。この前陸くんがカウンセリングを受けているときに話を聞いてね。空くんも良いよって――」

「そんなのウソだよ! だって空は――」

 陸は言いかけた言葉を飲み込んだ。ボクは今何を言おうとしていたんだ……。考えを巡らせていると陸は体に力が入らなくなってきた。フラフラと意識が遠のく感覚。

 次の瞬間には床がすぐ目の前にあった。あれ、体が動かない……。まだボクは夢を見ているの? 目の前が真っ暗になった。遠くで優香と圭人の声が聞こえた。



 真っ暗な空間で陸は目覚めた。ゆっくりと起き上がり、辺りを見渡すが、右も左も黒い空間が果てしなく広がっているだけだった。当てもなく歩いてみるが景色はいっこうに変わる気配がない。戻ろうと思っても、どこから来たか分からない。

 しゃがみこみ陸は泣き出した。誰もいない、何も見えない。怖い……。

「そんなに泣いてどうするんだよ?」

 聞き馴染みのある声がした。顔をあげると目の前には空が立っている。

「空……。空ああ!!」

 陸は立ち上がり、空に抱きついた。

「何で勝手にいなくなるんだよ!」

「ごめん」

「独りでずっと寂しかったんだ……。怖い夢を見て……。起きたら空もいない……」

 空は優しく陸の頭を撫でてなだめる。

「大丈夫。ボクはここにいるよ」

「ねえ、空……」

 陸は空を抱き締める腕を離し、涙と鼻水で濡れた顔を拭った。

「ボクが見た夢、ただの夢じゃないんだろ……」

 空は黙った。

「ママと空の夢を見た……。ママはボクが知ってるような人じゃなかった……。凄く怖くて……。けど、ボクのことを抱き締めて生きてて良かったとも言ってて……。ボク、分からないよ……」

「ボクのせいだ」

 今度は空が涙を流しながら話し出した。

「ボクが悪いんだ……。ただ陸を守りたかっただけなんだ。辛いことは全部ボクが代われば良いと思った。そのために産まれたんだ。だけど、ボクのせいでママまで変わってしまった……。優しかったのに……。本当にごめん……」

「そんなことない! ボク、空がいなかったら今はきっと……」

「陸はやっぱり優しいね、ありがとう……。」

 空は陸を優しく抱き締めた。陸も空を抱き返す。しかしその感触は柔く、酷く不安になった。陸は恐れていたことが現実になりかけていることを理解した。

 悪夢を見るたびに空と離れる時間が増えた。陸の中から消えていた記憶が呼び起こされる度に……。

 柔く脆い感触を逃さないように陸は腕に力を込め

る。

「ボクは空がいないとダメだ……」

 空が再び陸の頭を撫でる。

「陸はもう大丈夫だよ」

「大丈夫じゃない! 辛いことがあったとき、ボクは独りでどうしたら良いの……?」

「独りじゃないだろ? 優香や圭人がいる。あの二人なら、きっと陸の力になってくれる」

 空はもう一度陸の顔を見て力強く言った。

「お前はもう独りじゃない!!」

 空の声が真っ暗な空間に木霊する。強く抱き締めていたはずの空は、もういなくなっていた。

 陸はその場にしゃがみこみ、空の名前を何度も呼んだ。



 鼻をツンと刺激する消毒液の匂いで陸は目を覚ました。真っ白な景色が目の前に広がる。体が柔らかい何かで包まれていた。ゆっくりと起き上がると、心配そうな表情で優香と圭人が陸を見ていた。

「あれ、ボク……」

「陸くん……! 良かった……。目が覚めたんだね……!」

 優香がベッドに身を乗り出して声をかけた。

「良かった……」

 圭人はその場で静かに涙を流しながら呟いた。

「ボク、何があったの?」

「おうちで急に倒れたの。それで急いで連絡して、山田先生の病院に……」

 優香が説明をしていると、山田が入ってきた。

「陸くん、気分はどうかな?」

「何だか変な感じ……。夢を見てたけど思い出せなくて……。悲しい夢だった気がするけど……」

「夢に空くんは出てきたかい?」

「……空って……誰……?」



 2ヶ月前、陸の問診が終わった後に、優香と圭人は応接室で山田と話をした。

「お二人は既にご存じでしょうが、陸くんは“解離性同一性障害”です。多重人格障害という言葉の方がよく耳にするかもしれません。幼少期の辛い経験から“空”という人物を作り上げ、辛い、怖いなどの負の感情、負の記憶を自分から分断しました。

 2年間私は彼の症状を見てきましたが、ハッキリ言って、改善の見込みはないと思っておりました。ですがお二人と出会って、大人がくれる愛情を知り、陸くんの症状が段々と和らいでいきました。お二人がいなければ、陸くんは“空”という別人格との二人だけの世界から抜け出せなかったかもしれません」

 

 優香と圭人は真剣に山田の話を聞き、これからどうするべきかを訊いた。

 

 陸は段々と“空”の中に閉じ込めてた過去の記憶を取り戻しかけており、苦痛を伴うことが予想された。その苦痛は人格の統合が進むに連れ、悪化していくことも予め知らされていた。

 優香たちは陸が入院した方が良いのではないかと考えたが、陸の過去の経験から、最も信頼している二人から離して生活をさせるのは、懸命でないと山田は判断し、自宅での療養を行っていた。

 陸の場合、人格が統一されると、これまで過ごしていたはずの“双子の兄弟”を失うことになるため、更なるショックを与えないためにも、いなくなったとパニックを起こした際には、真実は伝えないでほしいということも注意した。

 

 結果、陸の人格は元通り一つとなった。しかしこれまで“空”が担ってた辛い過去を一気に背負うことになった陸は、精神面を考慮し、しばらく通院をすることになった。

 


 優香、圭人、陸はテーブルに集まり、少しくたびれた人生ゲームを広げて遊んでいた。

「1、2、3、4……。ああ!事業に失敗し借金をする。嘘だろおお」

 圭人の悲痛な声をあげる。優香と陸はそれを見て大笑いした。

「じゃあ次はボクの番!」

 陸がルーレットを回した。勢いをつけたルーレットはカラカラと元気な音を響かせる。

 リビングの窓からは青々と輝く植物が見えた。奥にある花壇には、空に向かって咲き誇る、4輪のひまわりがあった。




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地をつつむ空 @umineshu

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