一片
水野いつき
第1話
この物語は現実と共存しうる筆者の妄想の物語である。
自分の中から生まれ出るものを生きようとしたに過ぎない。ヘルマンヘッセはそれを難しいと言ったが、人間がまだ自我という外界との殻を認識する以前及び殻を認識した時まではそもそも外界と人間の境界は透明な膜に等しい。そんな幼児が愛しいという感情を他者に抱いたらどうなるだろうか。純粋に自分が一部に、相手は自分の一部に、つまり精神的な交わりとして一体になりないと思わないだろうか。融合したいという感情は最早、相手を神格化しているに等しい。近づけないものに手を伸ばすこと、その感情の根源は信仰心である。
幼児はそのとき相手に抱いていた感情が信仰心に近い愛情であるとわからなかった。なぜなら、外界と自我の境界を膜としてすら認識していなかったからである。幼児は信仰心をもってそれと知らずに跪き、相手の足を舌で愛撫した。指の溝に触れたとき、相手の足がぴくりと動いた瞬間。そのときに感じた圧倒的なまでの幸福感を胸に幼児は世界を知った。相手にひれ伏し望みを叶えた。幼児の中にのみ存在する相手という仮想の神に実感を持って触れたのだった。人類にとってそれ以上の幸福が存在し得るだろうか。自身の中にのみ存在する仮想の神へ実体を持って触れた至上の喜びだった。
しかしながら膜を破ったとき、膜のように見えていたものは殻であり幾重にも連なり破ることのできない自我と外界との断絶を幼児は味わったのである。2度と神との交わりが赦されることのない世界で幼児は1人、己が神に触れてしまったという罪を知った。神のいなくなった世界に幼児は罪の記憶のみを残して生きていった。
幼児の周りにはキリスト教が溢れていた。手を合わせては触れられなくなった神を思い、どうすれば救われるのかを殻の外側にいる世界の神に問うた。幾重にも幾重にも答えのない問いを続けるうちに幼児は気がついたら大人になっていた。
大人というのは、外界との殻を知りながらその殻を壊さないように人と触れ合うことのできる人間である。大人になった幼児は、人間との交わりを知った。幾重にも幾重にも交わりを続けるうちに、信仰心のない交わりを犯すことの罪を感じるようになった。幼児にとって愛とは信仰であり自身の殻の内側に存在して殻を破ることなく融合することであった。ただそこに存在する感覚のみを拾い上げる行為は幼児にとって苦痛となりえ、自身の殻を叩き割り心を嬲られるように思えた。
殻の最後の一片が叩き割られたとき、幼児はついに発狂した。殻のなくなった世界はあまりに醜く、その世界に存在する幼児の正体はさらに醜いものであったと理解してしまったからである。幼児はそうしてあまりの己の醜さに死を選んだ。だが死ぬことで得られる贖罪など精神世界には存在しない。死ぬことで得られるのはこれ以上世界を見なくてもいいということと己の実態がなくなることだけで過去に重ねた己の精神に刻まれた罪への贖罪とはならないのである。幼児は生まれ変わってまた己の醜さに発狂するだろう。そしてまた新たな神を見つけて罪を重ねるのである。
一片 水野いつき @ituki_mizuno
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