第14話 〈犬の先生〉と軽業坊や(二)

 それにしても、見事な月夜だ。

 空の高くに昇ってますます青白く、貴婦人のようにすましている。


「おいらも、聞いておきたいことがあったな」


 ちび犬に一座のみなをあらためて紹介したあと、軽業坊やは、そういえば、と、何か思い出したようだ。


「なんです?」

「気に障ったらごめんよ。

 お前さんの先生の話を、みんなが言うじゃないか。犬が宙返りをそろってしたり、足し算をしてみたり、悪魔に魂でも売ったんじゃないか、って。昼間も言われたんだよ」

「ははは、そんな。

 でも、坊っちゃんが噂を気になさるのもごもっとも。

 しかしね、たかが犬の芸のために魂を売るなんて、そんな馬鹿な話がありましょうかね」

「そうだよな。

 だけどさ、お客はそれだけ興味しんしん、てことだ。サーカスに来るように、おいら、ひと押ししておいたぜ。これも、噂さまさまだ。すごいな、先生は。

 そんなことより、先生、まえはお医者だったって?」

「はい。ちいさい村の名医でしたから、なんでも治しますよ」

「そうか」


 軽業坊や、それを確かめたかったようだ。


「父ちゃん、それもあって先生に声をかけたのかな。なんでかなあ、って思ってた。

 これで、うちの一座も、備えは万全てことだな」

「いやいや、その前にお怪我をなさってはいけません」

「まったくさ。

 じゃあ、おいらもう寝るよ。お前さんも、明日に障らないようにな」


 そう言って、坊やは寝床へ戻って行った。


「ここのお嬢ちゃんたちは、いい子ばかりで」


 ちび犬は、ひとりごと。


「白クマと犬の仲まで心配してくださるたあ……

 そもそも、あっしがうっかり転んだところを、軽業坊やの嬢ちゃんが介抱してくだすったのにびっくりして、あっしもうっかりお礼を言ってしまって秘密がばれたんだっけ」


 犬が口をきいて、坊やはさすがに少し驚いていたが、


『芸人の秘密は、墓場までだよ』


 と、笑っていたのである。


「まったくお若いのに、懐の大きいことで」


 そうしてちび犬は、とことこと、犬の先生の部屋がある箱へ戻った。

 不思議なことに誰の手があるとも見えぬのに扉が音もなくひらいて、ちび犬が入ると、ぱたん、と閉じる。


「ははは。いい月の晩だぜ。あんたも表へ出たいんだろうが……」


 聞きなれぬ声色。

 箱の中には〈犬の先生〉の家財道具に、犬たちの寝床。

 奥には、鉄の檻。

 その前に、何者かが。

 見ればいつもと様子の変わったちび犬だ。身体の大きさはそのままだが、声色がいつもと違う。目がらんらんと輝いて、口は大きく裂けている。


 犬たちは、それでも気にせぬようで、すやすやと眠っている。

 ちび犬が見据える檻の中には。金色に光るふたつの目。


「今も、あんたが噛みつきたいような溌剌としたお嬢ちゃんと話をしてきたところさ。はは。


 俺を犬に変えて、うまくいったと思ったかい?


 魂を売って成功を手に入れた報いからは、そうはいかないのさ。そうして今晩もひとり、獣の姿で渇きを味わうがよかろうよ。

 それとも、檻の扉を開けようか?

 怯える人間たちを追い詰め、爪と牙にかけ、肉を引き裂き血をすすりたいだろう?」


 ちび犬が、なにかおどかしを長々と檻に向かって言うものの、返事はない。


「ちぇ。落ち着きはらいやがって、面白くないやつだ。

 明日も頼みますぜ、

 ……おっと、」


 ちび犬、〈犬の先生〉のなにか書き物が乗っている小机にひょい、と前足をかけて、ぱたり、と閉じ、


「こんなものを開きっぱなしでは困りますぜ。秋祭の市には、こうした書き付けが好物の、ろくでもない奴だって紛れているんですからなあ」


 広場はそれから、朝まで静かだった。


 * *


 軽業坊やは自分の寝床へ戻り、たちまち夢路の入り口へ。


(先生)


 たちが悪くも人を惹き付ける、あの噂の続きの話が頭に浮かぶ。


(悪魔に魂を売った報いで、)

(先生は満月の晩に銀色の狼になるって)


 そう。犬たちは先生の狼の貫禄によって、いいつけを聞いているのだと。


(今夜は満月だけど、さっきだって先生の部屋は静かだったじゃないか。どこまでいっても、つまらない噂だなあ)


 そして何となく、〈犬の先生〉が一座にやってきた最初の日、その美男ぶりに娘盛りの姉がのぼせあがった時の事が思い出されてきた。


(『父ちゃんに内緒よ。あたし、行ってくるわ』)


 夜にひとり、先生の部屋へ忍んで行ったのである。誘惑すると意気込んで。


(ばかだなあ)


 ところが半時もしないうちに、彼女は涙を流しながら戻ってきたのであった。


(『写真があったのよ』)


 忍んだ部屋には先生がいた。

 そして、その書き物机の上には一枚の写真。

 美男が静かにとつとつと語ったのは、それは昔むかし、流行り病で亡くなった、今でも愛する妻と一人息子である、と。

 大切そうに飾られていたという。


(『かわいそうだわ。なんてかわいそうなの。

 そして、なんて美しい心の方なの』)


 姉はそのまましくしく泣いていた。

 それからというもの、彼女は先生へ色目を使う女の客どもをあしらう役を買って出ているのであった。


(姉ちゃんも、よくわからないなあ)


 親方のいびきもおさまっていたので、そのまま坊やはすとん、と、寝てしまった。


 寝る間際に、


(流行り病だなんて)

(お医者なのに、ご家族を亡くしてしまっただなんて。お力を尽くされたんだろうに)


 黒いちび犬が話していたことと、姉の涙がつながったのだが、眠りの力のほうが強かった。

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