第4話「夏目君」

 男子生徒が持っている本の表紙がふと目に入り、思わず出そうになった声をこらえたところまではよかったのだが、目の前にかつて探し求めた本があるという状況に正常な判断力を奪われた私は、無意識にその本を凝視しておそるおそる手を伸ばしてしまい、言い逃れのできない不審者と化した。男子生徒が声をかけてきた。なんだこいつと思ったことだろう。

「……な、何してんだ?」

私はそこでハッと我に返って、男子生徒の顔を見た。知らない人だった。どうしよう。

「あ、いや、す、すいません。ちょっとそこの書棚の本が見たくて…」

 精一杯の言い訳というよりもあからさまに嘘だったのだが、意外にも男子生徒は騙されてくれたようだった。

「あ、そうか。悪い、俺が立ってて邪魔したな。青瀬さん。」

と言って、その場から立ち去ろうとした。とりあえずは不審者扱いされて保護者召喚なんてことにはならずに済みそうなので、私はほっとしたのだが、男子生徒とあの本が遠ざかるにつれ、なんともいえない気分になった。このまま行かせてしまったら、あの本を読む機会はもうないのではないだろうか。そんな不安が私を襲った。書店にはどうも出回っていないようだ。インターネット検索でもだめだった。ここで持っていたということは図書室の本なのかもしれないが、何かの拍子で貸し出しされなくなるかもしれない。もしかしたらこれが千載一遇最後のチャンスでこれを逃すともう二度とあの本の結末を知ることができなくなるかもしれない。せめてタイトルだけでもわかれば。そんな想像が頭の中でごちゃごちゃになった。

「あ、あの、すいません!」

 思わず大きな声が出た。普段から大きな声なんて出すことがないので、まるで他人の声みたいに聞こえた。

「その本、読み終わったら私に貸してくれませんか?」

 知らない相手に向かって私は何を言っているのか。どちらかというと人見知りをするような私が、いきなり知らない人に本の貸し出しを頼むなんて自分でも驚きだった。

 男子生徒は振り返り、私の前まで歩いてきた。ゴクリと唾飲み込む音が聞こえた気がした。

「ほい」

 私の前に、田舎の駅に少年が立っているイラストが表紙のあの本が差し出された。何も考えずというより何も考えられずに私はその本を受け取った。

「読み終わったら返してくれればいいよ」

 男子生徒はそう言って私に本を渡し、図書室から出て行った。私はそう言って渡された本を手に取ったままポカンと間抜けに突っ立ったままになった。本来ならば名前は何というのかとか、何年生なのかとか、そもそもこれは誰の本なのかとか、本当に私が先に読んでもいいのかとか、そういえばなぜ私の名前を知っているのかとか、貸してくれてありがとうとかいろいろ言うことがあったはずだが、私は何も言えなかった。思考の処理容量を大幅にオーバーして何も考えれなかった。あたりが急に静かになって私だけがこの図書室でポツンと浮いているように感じた。というより雰囲気的には完全に浮いていた。あたりの図書室利用者が私を見ていた。額にヌルっといやな汗が流れたような気がした。図書室であんな大きな声を出して、白昼堂々本の貸し借りを頼めば目立って当然だった。私は自分がしたことを思い返して、真っ赤になり、貸してもらった本を抱えて、図書室から一目散に逃げ出した。

 

 図書室で本を貸してくれたあの男子生徒は一体誰であったのだろう。突如私の前に現れ、あの本の貸し、颯爽と去って行くあのミステリアスな人物の謎を私は追うことになり、ついにはその先で世界の真実を知ることになる、なんてことはあるはずもなく、男子生徒の身元はすぐに分かった。まあ当然なのだが、この高校の生徒だった。しかも同じ1年6組のクラスメイトだった。全く覚えていなかった。

 私がそのことをすぐに分かったのは、図書室から逃げ帰った1年6組の教室でさっきの男子生徒と再会したからである。なんということでしょう。あんなことがあった後の即座の再会なので私はなんだか恥ずかしさで話しづらかったのだが、向こうは気にしていない様で、私に気づくと話しかけてきた。

「あれ?図書室では読まなかったのか」

 正直、あの雰囲気の中で何事もなかったかのように読書スペースに座り、悠々と本を読むほど私の肝は太くない。私は読書の際、何よりも心の安寧を大切にするのだ。

「う、うん。家で読もうと思って」

「返してくれるのはほんといつでもいいよ。家にあった姉貴の本棚からパクってきたやつだし、姉貴は当分家には帰ってこないから」

 どうやら図書室の本ではないらしい。何も考えずに図書室から逃亡したので、もし図書室の本だったら貸し出し手続きのためにもう一度あの地獄の空間に戻らないといけないという最悪の想像が私の頭を一瞬よぎったので、そうはならないと分かり私は胸を撫でおろした。

「青瀬さんはよく本を読むのか?昼休みとかけっこう図書室にいたと思うけど」

 本は今ではそこそこ読むぐらいで、図書室にいるのはけっこうではなくいつもなのだが私はとりあえず頷いた。ふだんからあまり同世代の男子と話すことがないので少し緊張している気がした。

「本、貸してくれてありがとう、え、えっと誰だっけ?」

 私はお礼を言おうとしたが、同時に墓穴を掘った。慌ててしゃべるとろくなことがない。クラスメイトなのに名前も覚えていないことを露呈してしまい、ばつが悪くなった。あらかさまに余計な一言だったと後悔した。

「あ、俺のこと誰かわからない感じか。なーるほど、だから図書館では敬語だったのか」

 男子生徒はそこそこ背が高く、見た感じ180センチ近くあったので、図書室で会ったときは上級生だと私は思っていた。

「俺は1年6組出席番号26番、夏目喜一郎。特に部活にも入ってないし、入学して1ヶ月くらいだから覚えてなくても無理ないよな。放課後も終業のチャイム鳴ったら速攻校内から出てるし。まあ、自称、校門破りの夏目喜一郎ってところだな」

 聞き覚えのある忌まわしい異名が突如出てきやがったので、私は頭がクラクラした。自己紹介でいったい何を言っているのだろうか。というか自称って何なんだ。

 どうやら私に本を貸してくれた「夏目喜一郎」なる男子生徒はかなりの変わり者らしかった。ただ、とりあえず名前は覚えておこうと思った。

「覚えてなくてごめん、でもありがとう夏目君。この本すごく読みたかったから嬉しいよ」

 私はもう一度お礼を言い直した。相手が変わり者であろうと無期限無料レンタルさせてくれたことには変わりない。私は万感の感謝を込めた。

「面白かったら教えてくれ。俺まだ読んでないけど読むわ」

 夏目君はそう言って、自分の席に向かって行った。

 

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メイブルースの少女 青瀬五月 @aoseitsuki

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