ラフマニノフ楽興の時

増田朋美

ラフマニノフ楽興の時

ラフマニノフ楽興の時 

ある日、その日はとてもよく晴れていた。杉ちゃんとブッチャーは、相変わらず水穂さんに食事をさせようと、やっきになっていた時の事であった。その日も相変わらずというか、いつもと同様、水穂さんは食事をしてくれないので、どうしたら食べてくれるのだろうか、杉ちゃんたちが頭を悩ませていたその時。

「こんにちは、竹村です。クリスタルボウルセッションに参りました。」

という声が玄関先で聞こえてくるので、杉ちゃんもブッチャーもびっくりする。

「竹村さんだ。そうか、そういえば今日、クリスタルボウルのセッションを予約していたんだっけ。」

ブッチャーは、壁にぶら下がっているカレンダーを見た。確かにクリスタルボウルセッションの日と書いてある。

「どうしようか。まだご飯を食べさせてないのに。」

「いや、こういう時は、やってみるのが一番だ。こういう治療的なモノは積極的にやった方がいいんだよ。竹村さあん、よろしくお願いします!」

杉ちゃんは、あっさりと承諾してしまった。水穂さんがびっくりしている顔も見ず、デカい声でそういって、竹村優紀さんを四畳半へ招き入れてしまった。

「よし、これから、セッションをやってもらおう。ぜひ、やってくださいませ。もうな、こういうひとに頼らないと、素人の僕たちには、絶対ご飯を食べさせられないから。」

「はいはい、了解いたしました。水穂さん。ご飯を食べる気がしないのはあるのかもしれませんが、こうして、看病してくれる人の気持ちも考えましょうね。」

竹村さんは、四畳半から中庭に降りて、ビニールシートを地面に敷き、一つ一つのクリスタルボウルを置いていった。それと同時に、目が大きくて、一寸色っぽい雰囲気のあるような、若い女性が一緒に入ってきた。

「おい、このストリッパーみたいな色っぽい女はだれだよ。」

杉ちゃんがそういうと、ブッチャーも思わず、

「おきれいな方ですねえ。」

と、言ってしまった。

「そんな事言ってはいけませんよ。ストリッパーなんて彼女がかわいそうです。」

水穂さんが小さい声で注意する。ブッチャーは、それを言えるんだったら、ご飯を食べてくれ、と言おうとした矢先、

「ええ、彼女は先月から僕のところに、クリスタルボウルを習いに来ている、三田村沙月さんという女性です。今日は、初めてセッションを見学するということで一緒に来ていただきました。」

と、竹村さんが説明した。

「其れなら、こんなに色っぽい感じの顔をしていなくてもいいのでは?」

杉ちゃんが言うと、

「まあそうなんですけどね。確かに若いころ、女郎をしていた事もあったそうで、女郎時代の派手さが抜けないんでしょうね。」

竹村さんはそう説明した。

「何か訳があったんでしょうか。体を売らなければいけなかった。」

水穂さんがそう聞くと、

「まあそういうことです。以前は、吉原のソープランドで働いていたそうです。ですが、一応、女郎として働くのは、もうおしまいにしようと誓いを立てくれましたので。」

ということは、年季奉公が明けたということだろうか。

「へえ。元女郎か。道理で色っぽいと思ったよ。まあ、そんなことはどうでもいいや。竹村さんのクリスタルボウルを聞かせて貰うよ。」

杉ちゃんは、そういったのであるが、ブッチャーはこの沙月さんという女性をなぜか無視できなかった。自分の姉が持っているのと同じような妖艶さが彼女にもあるからだった。それに、そういう妖艶さを生かした仕事にもついているということも、考えさせられる事実である。

「分かりました。それでははじめさせていただきます。」

竹村さんは、マレットを取って、クリスタルボウルを叩き始めた。ゴーン、ガーン、ギーンと独特の響きを持った不思議な音だ。時にはふちをマレットでこすって、重々しい重低音を出すこともある。クリスタルボウルというと、様々な種類のものがあるが、現在竹村さんが叩いているのは、クラシックフロステッドボウルという、最も症状が重い人向きの楽器であった。白い風呂桶みたいな形をしたこの楽器。音が単に聞こえてくるというだけではなく、全身を回っていくような気がする。何だか体というものが、無視するなというサインを出してくれているような感じがえられる楽器なのだ。

「はい、それでは、本日の演奏は終了です。聞いた後はかなり疲れますから、無理せずゆっくりされてください。」

竹村さんが、マレットを下ろすと、全員拍手をした。水穂さんも拍手をした。

「ありがとうございます。竹村先生。これをお納めください。」

水穂さんが謝礼を支払うと、竹村さんはにこやかに笑って受け取った。そして領収書を書いて、水穂さんに渡した。

「これで一寸、ご飯を食べようという気になってくれましたか?クリスタルボウルを聞くと、血の巡りがよくなると言うけれど。」

ブッチャーが思わずそういうが、水穂さんは疲れた顔をしているだけで、何も変化はなさそうだった。

返事の代わりに返ってくるものは咳。ブッチャーは急いで水穂さんの口にチリ紙を当てなければならない。今回は、畳を汚さずに済んだのだが、大概は、吐いた血液で畳を汚してしまう。竹村さんは、血の巡りがよくなれば、不要なモノをだしたくなるだけだと言うけれど、こればっかりは、ブッチャーも困ってしまうのだ。

「じゃあ、来週また来させていただきますから、よろしくお願いしますね。水穂さんもできるだけ皆さんの思いに応えてあげられるように、務めてください。そして、少しでも、何かを食べるように、努力してくださいね。」

竹村さんは、やっと咳の止まってくれた水穂さんに、そういうことを言った。

「僕たちはただ、水穂さんの気持ちを楽にしただけですよ。それ以外に何もありません。ご飯を食べるとか、そういうことはやっぱりご自身がやってもらわないとね。」

「そうですか、、、。まあ、そういうことになりますよね。でも、水穂さんご自身の力では、ご飯を食べようという気持ちになれないのかな。」

ブッチャーは、ため息をついてそういうことを言った。

「まあそうかもしれません。ただ、水穂さんのような方は、考えすぎているという事は言えます。同和問題のことだって、今は、さほど気にしなくてもいい時代になっているのかもしれないし、これだけ国際色あふれた時代に成れば、もうそういうモノは古臭いという人もいてくれることでしょう。水穂さんのような人は頭を使いすぎていて、体の存在を忘れている。クリスタルボウルの音を聞くと、体の存在を思いださせてくれるという事もできますから、それで先ほど、水穂さんは、せき込んだのでしょう。」

「はああ、、、なるほどね。無学問な俺には難しい事ですが、水穂さんの体は、長らく食事をしなかったせいで、相当弱ってしまっていることをしめしてくれるでしょうか?」

ブッチャーがそう聞くと、

「はい、それはできますよ。僕のところにクリスタルボウルを聞きに来てくれたクライエントさんは、聞いた後に、体の鳴る音に敏感になったという感想を話してくださいました。そして、もっと自分の体を大事にしようという気持ちになったそうです。クリスタルボウルの音というのは、考えることを辞めさせる作用がありますから、自分の体の事に意識が向うようになるという効果はありますよ。」

と、竹村さんはそう言ってくれた。そういう事もできる楽器なのか。

「つまり、どういうことですかね。もうちょっとわかりやすく説明してくれませんか。」

「ええ、まあこういうことです。クリスタルボウルの音は、時と場問わず発生してくる、余計な思考をやめさせる作用があるんです。思考が止まるということは、現在の事、自分の内面だけに意識が自動的に向くようになります。そうなると、自分の体の中で起きていることや、自分が今現在何処にいて、何をしているのか、だけしか考える事はできなくなるんですよ。だから、体の声を聞くことができるようになって、普段気が付かなかった、体の中の音が、聞こえてくるようになるんですね。それを、多くのクライエントさんは、自分の体がこんなに苦労しているとは、知らなかったと言うんです。それで、自分の生きざまについて、考えようというきっかけになってくれる、という効果があるんです。」

と、竹村さんはにこやかに笑った。

「まあ、要するに一言で言えば、体の中の五臓六腑の音が、余分な思考をとめるせいで、聞こえてくるようになるってことだな。」

杉ちゃんがそういうと、竹村さんははい、まさしくといった。

「なるほどねえ。そういう音楽も又あるかあ。自分の体を大事にすることができたら、体を商売になんてしたくなくなるよな。それが狙いということだな。」

「一寸待ってください。」

杉ちゃんがそういうと、沙月さんがいきなり口をはさんだ。

「でも、体の事を考えろといったって、私には、容姿しか取り柄がないと言われていて、体を商売にするしかなかったのですが。」

「だけどねえ、体を商売にするのは、あまりいいことじゃないぜ。まあ、古代からある職業かもしれないけどさ。いつも危険をはらんでいて、大変な事になる可能性もあったわけだからな。」

杉ちゃんがそういうと、沙月さんは懐疑的に言った。

「本当にそうでしょうか。大変な事になるということもあるかもしれないですけど、私は、そういうことをして、本当にやりたいことをやっていたんですから、いいのではないかと思うのですが。」

「はあ、そうか。お前さんのやりたいことってなんだ。そういうこと言うんだったら、売春よりも、もっと、ほかの事をやってみる気にはならなかったのかよ。女郎というのはさ、法律的に言ったら、アウトローとギリギリのところを歩いているようなもんだぜ。まあ、今は違法な遊郭というのはなくなったと思うけど、ソープランドというのはねえ。」

と、杉ちゃんが彼女に言うと、彼女は、

「ええ。ピアノをずっとやっていました。今でもピアノを習い続けたいと思っています。そのために私は、あなた方が言っている女郎というモノをやらせてもらっていました。うちが、あまり裕福でなかったために、高額なレッスン料が必要だっただけで、それで、容姿しか取り柄がなかったから、ソープランドで働かせて貰っていただけの事。それでよかったと思うんですが。」

と、はっきりというが、小さな声で言った。

「ほう、普通の奴なら、経済的に余裕が無いということなら、あきらめちまうもんだけど、女郎までして、やっているんだったら、その演奏を聞かせてもらおう。そこにあるピアノでお前さんの一番得意としている曲をやってみろ。」

と、杉ちゃんに言われて、ブッチャーも、水穂さんも驚いた顔をしたが、彼女は分かりましたと言って、一寸ピアノをお借りしますと言って、ピアノの前に座った。そして、ふたを開けて、演奏を開始した。何とも言えない、重たい曲で、じめじめした雨の日なんかにぴったりの曲である。ところどころ、激しい箇所もあるが、全体的に静かで、ぼんやりと憂鬱な日々が続いていることを表しているような、そんな曲であった。

「ああ、ラフマニノフの楽興の時、第一番ですね。」

水穂さんが、小さい声でつぶやいた。そういうことなら、技巧的な部分があっても不思議ではない。ラフマニノフという作曲家は、大変ピアノがうまいということで有名だったので、曲の中にも、そういうところがにじみ出ている。それを弾きこなすには高度な技術が必要になる。彼女は、途中の激しい部分をつんのめったりしているような様子も見られるが、基本的にはちゃんと音のバランスも整っていたし、メロディもしっかりうたえている。でも、何処か足りないところがあるような。それは多分、専門的な知識が無いと、わからないだろうけど。いずれにしても、うまい演奏であることは間違いないが、何処かかけている箇所がある。そういう演奏だった。

彼女が演奏を終えると、みんな拍手をした。

「へえ、けっこううまいじゃないか。その演奏をするために、女郎をしていたのか。」

と、杉ちゃんがみんなを代表して彼女に言った。

「ええ。今習っている曲を弾いただけですが。でも、ラフマニノフの曲を弾けるというのは、なかなか無いって先生も言ってました。だから、これを私の十八番にして、コンクールとか、そういうものに出てみたいと思います。」

「いえ、やめた方がいい。」

と、水穂さんがきっぱりといった。

「階級を偽って、上級階級の人のすることに手を出すと、碌な結果を産みませんよ。ラフマニノフを弾くために、ソープランドで働くことを強いられるなら、それは絶対にやめた方が良いと思います。」

「あのなあ、別にお前さんと同じような奴が出たって、いいじゃないかよ。彼女の意思というモノがあるんだったら、それを大事にしてやるべきじゃないの?」

と杉ちゃんが言うと、

「そういうことではありませんよ。低い階級が、高い階級を飛び越える事は絶対にできない。それは、色んな人が証明してくれるじゃないですか。きっと、其れを繰り返していると、たどり着くのは悲劇的な結末しか残されていないんです。其れはなぜかというと、逃げるということができなくなるから。逃げることもできないと、音楽とか、そういう分野では成功しないんですよ。階級の低い人が、音楽をしようとなれば、音楽にのめりこみすぎて、家族も、本人も破綻するだけなんです。事実、そういう商売に手を出さなければ、音楽ができないのだったら、もう音楽の世界から脱退した方が絶対安楽な生活を送れますよ。人間は、だれにも迷惑をかけずに、平凡な生活を送る事こそ、幸せなことはありませんから、、、。」

水穂さんは、細い声で言った。

「ええ、それは私も、よく言われます。でも、私は、あきらめたくないんです。まだ、音楽の事勉強したいし、演奏技術だって、うまくなりたい。それは、ぜいたくな事、やってはいけない事でしょうか。人間誰でも、自由に生きていくことはできるのではないでしょうか?」

「いいえ、できません。自由と言っても、国家があり、国家に制限された自由しかえられないと思います。日本では、他人に迷惑をかけていなければいいとか、そういう考えはありませんから、人が用意した理想的な生き方に従わないと、あなただけではなく、ご家族も、悪い人間となってしまいます。そうなるのが日本社会ですから。其れから、逸脱したいのなら、国を変えるしかないんですよ。」

水穂さんがそういうことを言うので、ブッチャーは、なるほどなと思った。この言葉を口にしてくれる人なんて、誰がいるだろうか。皆、夢を持てとか、必ず成功すると、自分でおもえとか、そういう言葉しか教育現場では言われない。だから、みんな、他人に迷惑をかけて生きていることに、気が付かない。

「僕は、音楽をしていたあまりに、このように皆さんに迷惑をかける体になってしまいました。だから、もう死んだほうがいいんだと思っています。あとはようよう死ぬだけだと、思っていれば、気が楽になれるかな。」

と、水穂さんはそういうが、ブッチャーは、そんなことまで言わなくてもいいじゃないかとおもった。それでは、水穂さんが、してくれた実績はどうなるんだろうか。だって、落ち込んでいる利用者に焼き芋くれたり、そっとそばにいてくれたり。そういうことができる人物はそうはいない。本人にしてみれば、生活するための道具としか見ていないだろうが、其れのおかげで、助かった人はいっぱいいるはずなのに。

「水穂さん、俺たちは、まだ希望はあると思っているんですけどね。だからこそ、水穂さんの事を、思っているんですけどね。」

ブッチャーは、思わずそういったが、水穂さんには通じないだろうなと思った。その証拠が、水穂さんがいつまでたってもご飯を食べようとしないことだ。

「まあ、そういう事だな。世のなかには、人間は勝てやしないんだ。だから、潔くあきらめてさ、もっと安全で、楽しく生きられるところに、生き直して見たらどうだ?竹村さんは、それで、お前さんを弟子にしてくれたんじゃないの?」

杉ちゃんが、あっさりとそういった。

「どんなに強い奴でも、国民性とか、そういうものには勝つ事はできないよ。やっぱり日本では、売春までして自分の好きなピアノを弾くという生き方よりも、世のため人のために生きて、家族を養って行く、という生き方をしないと、お前さんのご家族も、お前さん自身も、世間の白い目で一生にらまれるような人生しか送れないんだよ。それで、火事と葬式しかつきあって貰えなくなる。そういうのが日本だぜ。」

「でも、ラフマニノフの楽興の時が弾けるということは、私は、まだ望みがあるのかなって、思うんですが。」

と、主張する彼女に、杉ちゃんは、

「そうだねえ。でもさ、お前さんは竹村さんのところに弟子入りしてるってことは、もう人生変わっていると思うけどね。じゃあ聞くが、なんでお前さんは、女郎屋をやめて、今は竹村さんのところにいるんだよ。」

と聞いた。

「ええ。あたしが、吉原で客引きをしていたら、竹村先生が通りかかったんです。私が、ラフマニノフの楽興の時を口ずさんだら、先生は、私の事情を聞いてくださって、私を身請けしてくれるって言ってくれて、それで私、ソープランドに通わなくても良いということになりました。」

彼女は少し考えてそう話してくれた。そういうことだったのか。ということはつまり、音楽性は悪くないということなのかもしれなかった。でも、残念ながら、階級を飛び越えて生きるということは、一般的な人にはまずできないだろうから、竹村さんが用意してくれたところにいった方が、よほどより良い人生になるというものだ。

「そうか、そういうことか。だったらお前さんは、竹村さんの弟子になって、生き抜いたほうが、もっと良い曲が弾けるようになる人生を送れるよ。こんなラフマニノフの陰気くさい曲よりもな。」

杉ちゃんはにこやかに笑った。




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