輪廻
三津凛
第1話
皇居とビル群は、大きな通り一つを挟んで隔てられている。端的にいうならば、動と静の対比。この街を作った人たちがどこまで緻密に計算をしたのかは分からない。神の見えざる手、意図せざる配置、一見それらしい都市計画、終わりのない区画整理……。私は皇居の砂利が敷き詰められた道を歩きながら、ビル群を振り返る。時代と時代とが隔てられているような、不思議な錯覚を覚える。
無数の皇居ランナーが私を抜かしていき、遠ざかって行く。たまに行き交う外国語を後ろで聴きながら、国際色とは案外この皇居のお堀のような濁った暗い色をしているのかもしれないと思った。
「ねぇ、いま何考えてる?」
「……グローバルについて……」
私がそう返すと、文子は大げさなほど笑った。その笑い声を聞いていると、不思議と身体の強張りが解れてくる。過去の堆積がゆるゆると蘇って、私は今よりも幾分若い文子を思い描く。
村上文子と会うのは大学卒業以来だ。文子とは大学内のサークルで出会い、私は史学部だったけれど彼女は経済学部で直接的な接点はほぼなかった。それがクラシック音楽愛好会という非公認サークルを通して私たちはお互いを知って仲良くなった。文子と私はそう音楽に造詣があったわけではない。ただなんとなく家庭の中でかかっていたのがたまたまクラシック音楽で、たまたま入学して真っ先に勧誘されたのがクラシック音楽愛好会であった、というだけに過ぎない。
けれど私と文子とは音楽の嗜好が意外と合って、目をつけたコンサートにはどちらからともなく誘い一緒に行くようになったのだ。サークル内での集まりはほとんどが飲み会に近いもので、本筋のクラシックとはあまり関係がなかった。私も文子も、2年次に上がる頃にはやたら大所帯のくせに公認サークルになれないのは、こうしたいい加減な性質によるものだと気がついていた。それからは私と文子は学内では会うことはなく、たまに一緒にコンサートへ行きそのままご飯を食べお茶をする、というのがお決まりになった。
それも3年次までのことで、お互いに就活と卒論とに追われる頃には私たちはほとんどが顔を合わせなくなった。文子はたまにLINEで近況報告とも、独り言ともつかないような長文の内容を送ってくることがあって私はそれを今でも保存している。
今度のセンターで、小林秀雄が出されたみたいね。「モオツアルト」だっけ、私はそれしか読んでないけれどあのモーツァルトの底抜けに明るい音楽を「哀しみ」なんて表現するなんてさ、でもそう言われるとなんとなくモーツァルトが哀しんでいるみたいで不思議なのよね。
卒論の方がなかなかまとまらなくて、もうゼミに行くたびに憂鬱。あれ、企業によっては提出も求めるのよね、参っちゃう。
先週、都内でクリムトの展覧会があったからなんとなく行ってみたの。平日の昼間だったから、空いてるかしらと思ったけどそうでもないのよ。暇を持て余したお爺さんにお婆さんばっかり!それが大きな声でいちいち立ち止まって喋るから大変なのよ。いらいらしちゃった。私もいつかはああなるのかな。
まあ、でも今は就職しないとね!
そうそう、人類にとって三つの偉大な発見って知ってる?コペルニクスの地動説、ダーウィンの進化論、フロイトの無意識の発見なんだって。今ちょうど卒論の資料で1950年代のアメリカ社会について漁ってるんだけど、心理学の知見って極端な一般化に晒されるとただの害悪ね。人のどんな選択すらも、その人の性(リビドー)に繋げられて……。セックスって、センセーショナルじゃない?私だけかな、そう思うのは。
やっと一次試験がパスできました。そっちはどう?田村はなんでも器用にこなせそうだから、羨ましいわ。たまには一緒にコンサートへ行こうね。
文子は私を苗字で呼び、私は彼女を名前で呼んだ。文子から私への最後のLINEは、4年間ありがとうで終わっている。そのあっさりとした幕切れが、いかにも彼女らしかった。卒業旅行に行く計画も立てたけれど、文子が内定を決めた商社の研修とやらで霧散した。私も文子以外に行ける相手もおらず、実家のある九州で最後の学生時代を独りで過ごしたのだ。私は親の勧めで都内の大学から、地元の公務員試験を受けてUターン就職を決めた。文子の方は迷わず都内の一流企業を受けて内定をもらい就職した。
リクルートスーツから、本当のスーツに衣替えした文子の背中は同性の私から見ても隙がなく格好よかった。颯爽と走り去っていく野うさぎのように、この人は私の人生からすっかり立ち去ってしまうのだとその時思った。そう思いだすと、ある時期には鬱陶しくもあった文子のLINEが急に惜しく思えてきた。だから私は密かにそれを保存して、たまに眺める。
私はこのまま地元で無難に結婚して子どもでもできるのだろうと漠然と思っていた。同期には真面目そうな男の子も何人かいたし、両親も公務員同士でくっつくことを期待していたフシがあった。実際に、同期の渡辺くんとはもう5年の付き合いになる。私はこのまま結婚するだろうと思い始めた矢先に、彼が今年入職した同じ課の女の子と密かに会っていることが分かったのだ。なんとなく彼と距離ができ始めていると感じ始めた頃だったので、私は何かがそこで切れてしまったような気になった。
それまでなんとなくキャンバスに描いていた設計図に、墨汁をぶちまけられたような心地だった。それは直しも修正も効かない類のものだ。確信はないけれど、どんどん広がっていく不審も止めることはできなかった。そのことを問い詰めると、渡辺くんは露骨に嫌な顔をした。
「そんなんじゃないよ、ただ相談を受けてただけ。ほら、僕は彼女のプリセプターだろ?イマドキの子って難しいんだ、指導をそのまま自己否定されたと捉えるし……プライベートな関係を作っておくことも必要なんだよ」
彼はいかにも面倒くさそうに唇を尖らせた。そして、そこには「どうせいつかは仕事を辞めてしまうような女には分からないんだろうけど」とでも言いたげな色がありありと浮かんでいた。この人って、こんなに保守的な人だったっけ?と私はその時思った。疑念は消えず、やっぱり彼はその「イマドキの」女の子と会っているようだった。お節介な同期の女の子が、彼とその子を居酒屋で見たと教えてくれた。
「あれはねー、なんかあるよ」
なんかあって欲しそうな色を浮かべて、その子は私に話してきた。彼と私の関係を知っているくせに、楔を打ち込むようなことを平気で言う。このことは質の悪い伝染病のごとく広がって、私と彼の不仲はより決定的になるのだ。田舎はどこへ行ってもプライベートは筒抜けで、自分が全身透明な不気味な深海魚にされてしまわれたようだ。私の微細な不機嫌すらも悟られてしまう。
渡辺くんとの関係が進展しない中、卒業以来音沙汰のなかった文子から連絡があったのは彼女が結婚をするからだった。あいにく式場は都内だったけれど、溜まった有給を消化する理由ができたのと、一度渡辺くんと離れたかったこともあり私はすぐに出席の返事を出した。招待状には文子の現在のアカウントが添えてあって、それだけ薄い便箋に書いてあった。それで私たちは文子が結婚をするまで大学以来の細かなやり取りができたのだ。
私が上京した夜に文子が自ら提案して、顔合わせも兼ねた私と文子夫婦との食事会は終始和やかだった。2人の新居で行われたそれは、不思議と実家に帰ったような安堵感を私に抱かせた。
結婚式への出席とは別に、私は多めに取れた有給を都内の散策に費やすつもりだった。ちょうど見たい展覧会もあったし、この国で屈指の博物館や美術館の立ち並ぶ土地に4年間いながら私はまるで20代前半の頃はそれらに見向きもしなかったのだ。貧弱な子が両脚でまともに立てないのと同じで、文化的な素養に欠ける私はやっぱりどこか貧弱だと自分で思う。それが今になって怖くなったのだ。急いで補おうとしても無理なことは分かっていたけれど、煮詰まった渡辺くんのことを思い出さないためにも独りで都内を散策して時間を潰すことは必要なことのように思えたのだ。
そのことをふと文子に漏らすと、彼女はとても意外な提案をしたのだ。
「それなら、私たちの家にいれば?ちょうど彼は海外出張でひと月いないの。1週間くらい休暇を取ったのよね?いればいいじゃない、ねえ?」
最後の「ねえ?」は夫になる雅之さんに向けられたものだった。いかにも大人しそうな雅之さんは静かに微笑んで、「その方が君も退屈しないだろう?」と言った。
文子と夫の雅之さんの距離感はどこか独特で、雅之さんは細やかに文子と私にサラダを取り分け、グラスが空いてないかさりげなく気遣い、それでいてこちらに気負わせない話題を提供する。文子は彼を男というよりは既に家族として見ているようで、この2人が結婚するのは必然なように思われた。それがなんとなく私と渡辺くんとのうまくいかない関係を見えないところで刺しているようで、時折胸が痛んだ。文子は大学時代の友人の何人かを呼んでいるらしいけれど、その内の何人が純粋な気持ちで彼女の結婚を祝うのだろう。30手前、みんながみんな手頃な相手がいるとは限らない。一見いたとしても、それが望んだままのものとは限らない。
私は仄暗い想いを隠したまま、文子と雅之さんが作った手料理を口に運ぶ。
「あ、文ちゃんワインがあったよ」
「え、私あんまり得意じゃないんだけど」
「飲んでよ、僕はひと月戻らないし」
雅之さんの物腰は女の子のように柔らかい。私は不思議な思いでそれを眺める。知らず知らずのうちに渡辺くんと比較していた。雅之さんは硬い関節を感じさせない滑らかな動きでキッチンまで行く。
「ねえ、こんなこと言っていいか分かんないけど」
「なに?」
「雅之さんって、コッチぽい」
私は手の甲で左頬を叩いた。
「あぁ、多分彼はバイセクシュアルよ」
「えっ、本当に?」
「いや、はっきりそうと聞いたわけじゃないけどね」
「……気にならないの?」
「なにが?」
「その、彼が……」
「男もいけること?」
「そう」
「うーん、あんまり考えたことない」
そこで雅之さんが戻ってきたので私は続きを言わなかった。文子は飄々として、雅之さんの細かな気遣いを受けている。なんとなく男女が逆になったような夫婦だな、と私は思った。それは不思議なものに思えたけれど、私は居心地よく感じている自分も見つけたのだ。
式そのものは意外なほどあっさりと終わり、これまたあっさりと雅之さんは海外出張へと行ってしまった。そして私も、文子に言われるがまま彼らの新居に連泊していた。
「寂しくない?」と私が聞いても、「田村がいるから寂しくないよ」と文子に本気で返される。既に文子が誰かのものであることを忘れそうなくらい、私は彼女を独占してしまっているような気持ちになる。
国立博物館に寄った後で、2人で皇居まで行った。皇居とビル群は、大きな通り一つを挟んで隔てられている。端的にいうならば、動と静の対比。この街を作った人たちがどこまで緻密に計算をしたのかは分からない。神の見えざる手、意図せざる配置、一見それらしい都市計画、終わりのない区画整理……。私は皇居の砂利が敷き詰められた道を歩きながら、ビル群を振り返る。時代と時代とが隔てられているような、不思議な錯覚を覚える。
無数の皇居ランナーが私を抜かしていき、遠ざかって行く。たまに行き交う外国語を後ろで聴きながら、国際色とは案外この皇居のお堀のような濁った暗い色をしているのかもしれないと思った。
「ねぇ、いま何考えてる?」
「……グローバルについて……」
私がそう返すと、文子は大げさなほど笑った。
「新婚旅行には行かないの?」
「行きたいけど、なかなか予定がね」
文子は難しい顔をした。それでいて、そこには悲愴な色がない。彼女には、女特有のあの湿地帯めいたところがあまりない。
「行くなら、どこ?」
「海外かなあ、やっぱり」
「そうね、どうせならパーっと行きたいよね」
「ふふ、そうそう。ヨーロッパもいいし、アジアとかもいいなぁ」
「……雅之さんに着いて行けばよかったんじゃない?」
私はついそう言った。
文子は眉を微かに上げて、どうして?とでも言いたげな表情を作った。私は無言の問いかけに答えられず、視線を逸らす。
私は陰気なお堀を横目に見ながら、文子と無言で歩いた。平日であるのにまるで砂糖に群がる蟻の如く人々は沸いたように出てくる。
私はしばらく行き交う人たちを見ていた。みんな悩み事なんてなさそうな顔をしている。健康に鍛え上げられた肉体を晒して、寒いくらいな中を薄いウェアだけをまとって通り過ぎていくのだ。私は貧弱なオフィスワークで年々としまりがなくなってきた自分の体を恥ずかしく思う。隣の文子だって、同い年なのに体の線はちっとも崩れていない。
はあ、と私は息を吐く。文子がこちらを見る。
「どうしたの?」
「今ね、5年くらい付き合ってる人がいるんだけど」
「同期の人だっけ?」
「そう、……で、その彼とうまくいってないというか、浮気されてるかもしれないというか」
そこまでいうと、私はなんといっていいか分からず黙った。本来なら、新婚の友人の前で出すべき話題ではないことくらい分かっているのに。ここにいる人間の中で、うまくいっていないのは私だけなような気がした。
こうあるべき、がことごとくうまくいっていない。
「ごめんね、こんなこと話して」
「どうして田村が謝るの?」
「え、だって……」
「今田村が哀しいってことはどうしようもないじゃない。馬鹿ねぇ、謝ることじゃないのに」
文子は明るく言った。
それからまるで子どものように私の空いた手を握って歩き出す。けれど彼女はなにも言わない。言うべきことを探しあぐねているというよりも、あえてなにも言わないことで私を慰めているような気配があった。音楽と音楽の合間にある計算された休符のような沈黙だった。
じゃあ文子の軽いステップは四分音符かな、と私は見当違いなことを思ったりした。
「あのね、私も文子と同じ歳くらいには……ううん、もう少し前くらいには結婚して子どもくらいいるもんだろうって思ってた。根拠なんてなかったけど、親だってそう思ってただろうし今の彼と付き合いはじめてこの人とその内結婚するんだろうなぁって……。同じ公務員同士だし、ある程度価値観も経済感覚も合うし、お互いの両親にだって会ったのよ、それなのに……。どんどん普通から自分が遠ざかって行くような、自分だけが取り残されて行くようなそんな感覚になるの」
文子は立ち止まってこちらを見た。それから手を離して、静かに口を開く。
「ねぇ、田村。普通ってなに?」
「え?」
「やだ、そんな顔しないで。別に怒ってるわけじゃないよ。田村にとって、結婚が普通に幸せに暮らすことのゴールなの?」
「……たぶん」
「よかった。たぶん、ならまだ確定はしてないのね。……田村にね、面白いもの見せてあげる」
「なに?」
「まだ内緒」
文子はどこかに電話をかけて、楽しそうに話し出す。電話を切った後で、文子は唐突に切り出した。
「夕飯は私の実家で食べない?ママもパパも会いたいって」
文子の両親に会うのは、これが初めてだった。2人とも若々しくて、なんとなく国籍不明な日本人離れしたような雰囲気があった。文子の父親の賢一郎さんは色素が全体的に薄く、関節が男性特有の筋肉や筋張ったものを感じさせない滑らかさがあった。それがなんとなく、雅之さんと重なって見えて文子は知らず知らずのうちに父親と似た人を選んだのだろうか。物腰の柔らかな父親とは対照的に文子の母親の良子さんは全体的に主張の強い顔立ちをしていた。眉が濃く鼻筋のはっきりとした、ちょっと近寄りがたい雰囲気だった。この2人に挟まれて文子は育ったのかと思うと、私はなんとなく納得してしまうものを感じた。文子の柔らかさは父親譲りで、ふとした時に露わになる意志の強さは母親譲りなのだ。顔はあまり似てないものの、滲み出る雰囲気にこの3人が親子であることの証拠に思えた。
「さあ、あがってあがって」
文子が明るく急かす。
「お邪魔します」
「はあい、どうぞー」
良子さんはまるで英単語のように「はあい」と発音した。
リビングに入ると、賢一郎さんが台所に立って水仕事をしていた。それがあまりに自然で押し付けがましくなかったので、私は不思議な安堵を覚える。
「昔からね、台所はパパの領土なの。ママは料理なんてしたことないはずよ」
私の心情を察してか、文子が悪戯っぽく笑う。
「本当?」
「そうよ、私ママにカップ麺は作ってもらったけどそれ以外は食べたことないかも。でもそれはそれでご馳走になるのよ。ふふ、パパには哀しい顔をされちゃったけど」
「文子の友達が来るなんて、何十年ぶり?」
良子さんが私たちのやり取りを聞きながら会話に入ってくる。
「何十年ぶりなんて、大げさよ。でも結婚してからは初めてね、この歳の友達って貴重なのよ」
「ふふ、それは私たちの方がよく知ってるわよね、賢一郎」
「あぁ、そうだねぇ」
私は文子の両親のやり取りに不思議なものを感じた。文子は私の視線に何か言いたそうだったけれど、その場ではなにも言わず出来上がった料理を運んだ。
文子の両親は落ち着いていながら話題が尽きない。良子さんは来月からヨーロッパに旅行へ行くという。賢一郎さんはそれを当たり前のように聞いている。文子もまるで友達が旅行へ行くように羨ましそうに良子さんの話しを聞いている。
「ヨーロッパへはどうして賢一郎さんと行かないんですか?」
良子さんが口を開くより先に、賢一郎さんが話す。
「あはは、僕が一緒に行ったら息抜きにならないじゃない?良子は基本的に旅行は1人で行くタチだからね、独身時代からずっとそうだよ。実は僕もそう。お互いにそんな感じなんだよね、若い時から」
「ふふ、変でしょ、うちのパパとママって」
文子はどこか得意げに合わせる。
「変っていうか、進歩的?」
私も笑って言う。良子さんも賢一郎さんも声を上げて笑った。文子は私たちを交互に眺めながら、穏やかな顔をしている。
デザートをつついた後で、良子さんは思いついたように口を開く。
「そういえば今夜映画を観に行くの」
賢一郎さんも思い出したように、「あぁ、僕もちょっと飲みに行きたいなぁって」と言った。
「あら、いいじゃない」
賢一郎さんも良子さんも、お互いを咎めることもなく流す。それを聞いている文子も黙って2人を見ていた。てんでばらばらに夜を楽しむ夫婦を眺めて、私はちょっと信じられない気持ちになる。
そんなこと、許されるのだろうか。
だがあくまで会話は和やかに進み、それが私という外来の異物に配慮したわざとらしいものでもなかったから、私も「そんなものなのかな」と思うようになってきた。
賢一郎さんと良子さんを見送った後で、文子は「私たちもなにか飲もうか」と肩を叩いて来た。私も頷く。
「ねぇ、DVDでも見ない?うちには古い映画ばっかりなんだけど」
「いいじゃない、なんでもいいよ」
文子は「アマデウス」をセットして流す。部屋の明かりを薄暗くして、「この方が落ち着くの」と笑った。私もなんだか肩の力が抜けて、注がれるまま高価そうなワインを飲んで、画面に見入った。
家庭のいたるところから、文子が心から愛されて育ったことが感じられて、私は不思議な疎外感に囚われる。きっとこれから彼女が築く家庭も、これと同じように全てが自然で作為のない優しさや親切さ、慈愛とに満ちたものになるに違いない。ふと、渡辺くんのことを思い出して暗い気持ちになる。どこで自分が間違えたのか、分からない。
文子の横顔はすっきりとして、媚びのないものだった。受け取るべきものは受け取って、撥ね付けるものは躊躇なく撥ね付けてきた人が特有の澄み切った気配が漂っている。けれどもそれは人工的に作られた厳しさや冷たさを感じさせるほどピリッとはしていない。頬骨のあたりの丸みは、むしろ親しみやすく手を伸ばしたくなるような魅力があった。
「文子のご両親って、なんだかとても自由ね。うちの家じゃ考えられないわ」
「……そう?私にはあれが当たり前だから、よく分からないけれど。旅行だって、あの人たちは別々に行ってたし、両親と私と揃って旅行したこともなかったなぁ」
「そうなの?」
「うん、大抵どちらか片方だけだった」
私は呆気に取られて文子を見る。
私の表情を見て、文子は笑って言う。
「だって、あの人たちはゲイとレズビアンよ。家族だけど根本的に違うもの。私だってそうよ、代理出産で産まれたのだもの」
「それはその……」
「つまり、私たちは家族だけれど生物学的には血が繋がってないのね。父と母はどうしてもセックスができなくて、かといって人工授精もできなくて……それで最終的に代理出産を選んだみたいよ。父の実家は結構裕福だし、両親の祖父母はとにかく子どもは持って欲しかったみたいなの。まあ、パパもママも子どもは欲しかったみたいなんだけど」
私はあまりのことに言葉を失った。ゲイとレズビアンで結婚ができるのだろうか。
「私の両親にとって、結婚は契約みたいなものだったみたいよ。だから2人とも結婚前から長く付き合ってるパートナーがいるみたい。さっきの出掛けるのだって、お互いのパートナーに会いに行くのよ、だからあえて干渉しないの」
文子は淡々と言う。彼女にとって、夜になると両親がばらばらに用事を済ませていくことはごくありふれた光景だったのだろう。
「文子はさ、自分がいつ代理出産で産まれたことを知ったの?」
「いつだったかなぁ、高校生くらいかな、元々両親はそれくらいには事実を伝えるつもりだったみたいだから。その時に両親が同性愛者だってことも知ったの。なんだか不思議よね、私たちって生物的には繋がりあってはいないけれど、それでもやっぱり家族なのよ」
私は黙って頷く。文子もしみじみとして呟いた。
「ねぇ、田村」
「なに」
「私たち家族を繋げてるものって、血筋でないなら、なんだと思う?」
「……それは、愛?とか?」
「ふふ、まあロマンチックに言えばそうね」
「違うの?」
「ううん、違くはないけど、人と人とがそれも他人同士が一つになるのってそんなに甘くはないわ。こう、もっと非常識で妥協も変質もきかない領域があるはずよ。愛情は覆いにもなるし、時には鎖にもなるんだと思う。私たち家族を家族にしてるものって、愛情とは違うものだと今では思うのよ」
「じゃあなに?」
「実感、かな。家族であるという実感。事実じゃなくて、実感なのよね。だから両親は結婚できたし、私の存在も2人の子どもとして受け入れられたんだと思う」
「……文子は凄いね」
「凄くなんかないよ、私はたまたま産まれた環境がそうだっただけ。だから、田村もありのままに存在してみればいいんだよ」
「存在って、難しいこと言うのね」
「ちょっと大袈裟?」
「うん」
「あはは、まあそうかもしれないけど。でも、生きづらさのほとんどはありのまま存在することができない、許せないってところからくるんじゃないかなあ。相手がいれば、それだけお互いに傷つくの」
「うん、確かに……」
「私たち家族はその点自由よ、自由過ぎて困るくらい」
「文子でも困ることあるの?」
「あるわよ、それくらい」
文子は明るく笑った。途中から、暗に文子は私と渡辺くんとのことを言っているのだと気がついた。押し付けるわけでもなく、説教をするわけでもなく、こんな人間もいるんだよ、という緩やかな開示。
文子は半分眠そうに映画を観ている。私はちっとも内容なんて追えずに、彼女の横顔ばかり見ていた。もしも私が異性だったら、文子に焦がれたこともあったかもしれない。
「ご両親はいつ帰ってくるの?」
私はふと思い出して聞いた。
文子は欠伸をしながら、あまり興味なさそうに答える。
「さぁ……明日の朝まで帰らないわよ、たぶん」
どうして、そこまであまりお互いに興味がないのだろうかと私は不思議に思う。それでもあの両親はここまで文子を育て上げたのだ。そしてゆっくりと余生をお互いの心を許したパートナーと楽しんでいる。当の文子もそれを受け止めている。その淡々と流されていく風景のような存在感に、私もいつしか馴染んでしまうような気がした。
そこでなにかが引っかかる。静かに私は渡辺くんのことを思い浮かべた。緩やかな思考の流れを渡辺くんがすでに阻害する存在になっていることが、なんとなく私たちの未来を示唆しているような気がしないでもない。でもそれは今の私にとって、受け入れられるものではなかった。
なるべく考えまいとして、私は文子に視線を戻した。彼女は目を閉じて、なにか考え込んでいるように見えた。私はそっとソファの隅で丸まった膝掛けを広げて彼女に掛けてやった。文子はそれでも目を開けず、気がつけば私も寝入っていた。
文子の両親は本当に朝まで帰って来なかった。一向に玄関の鍵の上がる音はせず、家の中はとても静かで、外の物音と文子の呼吸音とが聞こえるばかりだった。私は夜明け頃に目が覚めて、白んでいくカーテンの向こうを眺めていた。なんとなくスマホを起動させてみたけれど、渡辺くんからはなんの連絡もなく、私は母船からの信号を一途に待つ遭難した宇宙飛行士のような孤独を思った。
不意に文子が動いて、目を開けた。
「やだ……寝入っちゃったね。今何時?」
「まだ4時半だよ」
「ごめんね、布団も用意しなくて」
「ううん、文子んちの家具っていいやつでしょ、寝具と変わんないわ」
文子は掠れた笑い声を立てる。
「本当に帰って来ないんだね」
「え?」
「ご両親」
「まあね」
「寂しくない?」
文子はそこで少し考える仕草をした。まだ幾分眠気の残る彼女の瞳には、あの煌めく星々のような鈍い光があった。
「寂しくなかったといえば嘘になるけれど、私にとってはこれが普通だったのよ。両親がお互いの悪口をこそこそいうところも見たことなかったし、ありもしない異性の影にどちらかが疑心暗鬼になることもなかった。むしろ、あの2人は常にどこかでお互いを気遣って遠慮をしているの。それが私にとっては当たり前にあった風景なのよね。大人になると、ああいうものの貴重さが分かるわ。私にはとても無理なことよ。それは彼らが同性愛者であるからできるとか、私が異性愛者だからできないとかではなくて……人間としての次元がやっぱり根本的に違うからだと思う」
文子は滑らかに言って、伸びをした。
文子の境地からすれば、私と渡辺くんとの関係なんて下手な三文芝居にもなりやしない。本当にあの女の子とは何もないのか、確信もなければ徹底的に疑うだけの材料もない。
「でも、私からすれば田村だって優しい人よ」
「私が?」
「うん、だってこんな変な家族のことをなんとか理解しようとしてくれてるもの」
「……そう見えるだけだよ」
「あら、本音は違うの?」
「ううん、そういうわけでもないんだけど」
「ふふふ、ほら、そうやって戸惑いながらも否定はしないじゃない?だからあなたはいい人よ」
私はむず痒いような、釈然としないような心地を味わった。文子はまだ眠い、と呟いて自分の寝室へ行った。私にもまだ寝るでしょう?と聞いて布団を敷いてくれた。
文子の部屋に入るのはこれが初めてで、結婚を機にだいぶ物を処分したのか殺風景で女性の部屋にはあまり見えなかった。
私はどこか懐かしい香りのする布団に鼻まで埋もれながら、やっぱり渡辺くんとのことを考えた。思考の中で展開されるものはどれもが陳腐で、私は夢の中でさえその陳腐なドラマを演じていた。渡辺くんは心底うんざりとした顔をして、私の元から去って行くのだ。
起きた時には文子の姿は既に無く、慌てて起きた頃には台所には文子と良子さんが並んでいた。
「あぁ、ちょうど起きた?朝ごはんできたところ」
「あ、ありがとう……それ食べたら帰るね」
「帰るってどこに?」
文子は汁椀を持ったまま、きょとんとしている。特にあてがあったわけではない。けれど、衝動的に私はなにかをなんとかしなければ、と思った。
「九州に、大事な用を思い出したの」
「それって、今すぐじゃないとだめなの?」
珍しく文子が食い下がる。私は微かに寄せられた眉間のしわを眺めて、なんとなく愉快な気持ちになる。
そうだ、この人は寂しいのだ。
私が微妙に微笑んでいることが分かったのか、文子はさらに子どもっぽい顔つきになる。
それを横で見ていた良子さんが、おかしそうに笑う。
「まあ、色々と事情があるんでしょうよ。ねぇ?」
ひょい、と私の方に顔を向けて良子さんが聞いてくる。
私は、えぇ、と頷く。
朝ごはんは絵に描いたように規律正しくて、健康的だった。そこでふと、文子と雅之さんとの家庭を見るような気がした。文子も多分こんな風にそつなく家事をこなして、2人だけのための空間を器用に作るに違いない。それは穏やかで暖かな幸福へと繋がっていく、ささやかな隘路だ。私はまるで亡霊になったようにして、文子の未来を夢想した。
文子と良子さんはなにかと私に構いながら、朝ごはんを用意してくれてみんなで食べた。賢一郎さんはまだ帰っていないようで、「あの人はお昼まで帰らないわねぇ」と良子さんも呑気に呟いた。
私は結局九州に帰ることにした。渡辺くんと連絡がついたわけでもないけれど、とにかく帰らなくてはと思ったのだ。
文子は寂しそうにしながらも、なにかを察したのかそれ以上は言わなかった。駅まで送ってくれて、優しげに微笑まれる。
「またいつでも来てよ……といっても、田村は仕事があるからそう気軽には来れないだろうけど」
「それじゃあ、文子の方から来てよ」
「いいの?」
「誰がだめって言った?」
文子はそこでようやく柔らかく笑った。
「……なにかあてがあるわけじゃないんだけど、文子を見ているとね、なにかしないとって思ったの、突然」
文子は黙ってこちらを見る。
「だから、また会いに行くね。次の私がどんな風になってても、多分会ってくれると思うから」
「もちろん」
文子が頷いて、私の手を握る。
列車が滑り込んでくる音が私たちを裂くようにして入ってくる。私たちは同時に顔を上げて、それから寂しげに笑い合った。
まだしばらくは会えない友達。
次に会えるのがどこなのか、見当もつかない。自由な文子のことだから、雅之さんが海外勤務にでもなればそのまま南アフリカへでも着いて行って10年は日本へ帰って来ないかもしれない。そうすれば、私が南アフリカまで行けばいいのだ。人類の最南端。
文子たち家族が、血でも習慣でも契約でもないもので繋がっているように、私もまたそんな風にして誰かと繋がるために生きようと思った。その相手が渡辺くんであれば、とまだ私は未練がましくどこかで思っている。
でも、もしも……その相手が渡辺くんでなくても、私の人生は続いていく。すべてが嘘のように儚く思えても、その実感だけが私を明日へと連れて行ってくれるのだろう。
流れゆく車窓を眺めながら、私はすでに見えなくなった文子の顔をもう一度脳裏に描く。知らず知らずのうちに、私は少し微笑んでいた。
輪廻 三津凛 @mitsurin12
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