彼女の名は赤いウォークマン

ヒラ少尉

彼女の名は赤いウォークマン

 日常が非日常へと変わってゆく


 僕はいつものように、すし詰めとなった電車に揺られていた。

 倒れないよう縦手すりを掴んでいると、指先になにやら感じるものがあった。

 よく見ると女性の胸が触れている。

 女性はぼんやりと車窓を眺め、気がつかない『ふり』をしていた。

 『ふり』とは、気が付かないはずはないという先入観からくる言葉である。

 僕はその感触を感じながらどうすべきか考えていた。

 女性は今も胸を押し当てたままだ。

 紳士ならば破廉恥な考えを捨て、さりげなく手すりを持ち替えるべきなのだろう。

 言っておくが僕は決して紳士ではない、悪びれることなくそのままの姿勢を保ち続けることにした。

 下心? 当然あると付け加えておく。ラッキースケベと言うにはお粗末だが、こちらに過失はない。

 そんな身勝手な理由を並べ立て、僕はその女を横目で観察した。

 空色のワンピースに胸元まである長髪。一見、清楚に見えるが、それらの印象とは対照的に濃く塗られた赤い口紅が印象的だった。

 赤いイヤホンからコードが伸び、これまた赤いスマホにつながっている。

 よほど赤が好きなのだろうと思ったが、どこか違和感も感じていた。

 よく見るとスマホがやたらと小さいのである。

 それはスマホではなく赤色のウォークマンであった。

 いまどき珍しい物を使っていると思た。

 赤く輝く唇とウォークマン。

 その漂う印象はどこか強烈であり、僕はこの出来事を境に女性の顔を覚えてしまっていた。

 名はわからなかったので、勝手に赤いウォークマンと心の中で名付けていた。

 それから赤いウォークマンは毎朝見かけるようになった。

 手の届く距離にいつも立っていた。

 それがいつから続いていたかはわからない。

 時間も乗り場も違うというのにこう毎日見かけるとは……。

 まあ、ただの偶然だと思い、その時は深く考えなかったのである。




 女を赤いウォークマンと認識してしばらくしてのこと、僕は不思議な夢を見るようになった。

 毎晩のように見知らぬ女性が僕の前に現れるのだ。ある者は背が高く、ある者は明るく、彼女達は日替わりで僕の夢に現れていた。

 ある時は寄り添い、ある時は僕を見上げて笑う。

 その後は決まって、お互いの体をもてあそぶように触れ合うのだった。

 場所はエレベーターだったり、電車だったり、人込みという共通点はあるものの妙な夢は毎晩のように続いた。

 不思議にな事に、風貌も背丈も違うこの女性を、僕は赤いウォークマンその人と認識しているのである。

 今日は密室の中で身動きできず、赤いウォークマンに背中を触れられる夢を見た。

 密着され、首筋に吐息を吹きかけられ、背中に押し当てられたソレを身をよじらせながら味わった。

 不快な思いはない、拒むこともない、どうせこれは夢なのだ。

 僕は遠慮するとなく欲望のまま身を任せた。




 次の日の朝、僕は視線をめぐらせ無意識に赤いウォークマンを探していた。

 探している自分にふと気づき、なぜ探しているのかと自問した。

 夢の中でお互いの肉欲をさらけ出した。まともではない性癖だった。だが、それは夢の話であって現実ではない。

 まさか、赤いウォークマン相手に何かが芽生えたというのか?

 僕は笑う。

 そんな言い訳をしながら探す自分が可笑しかったからだ。

 今日は来ていないのかと振り返った時、赤いウォークマンは目の前にいた。

 思わず目が合う。

 吸い込まれそうな瞳であった。

 僕はハッとし、慌てたように視線をそらした。

 外に聞こえるのではと思うほどに、鼓動が激しく鳴り響く。

 背をむけ平常心を保とうとしたが、気持ちに反して鼓動は高まるばかりである。

 なぜだろう、今、この女に全て見透かされているような気がしてならなかった。

 女は美人ではなかったが、なぜかその体に止めどない肉欲を感じているのだ。

 そんな自分が許せず女を拒絶しようとするが、一方で女の一挙一動に期待して待つ自分が存在した。

 まさに建て前と本音である。情けない話だが本音が勝り僕はその場にとどまったのだ。

 しばらくして背中に弾力を感じた。

 そこに誰がいて、それが何なのか瞬時に理解した。

 同時に生々しい記憶がよみがえる。それは昨晩みた夢であり、この状況はまさにその再来であった。

 理性が削られてゆくのを感じた。

 もう、どうしていいのかかわからなかった。

 わかったことといえば、体は正直であるということぐらいだ。

 胸に指が触れて悪乗りなんてレベルではない。

 突然の出来事に僕は何もできず、硬直したまま赤いウォークマンの愛撫を受けつづけていた。




 夢は続く。

 今日はさらに先に進んだ。今度は僕が彼女の体を指先でなぞっていた。

 女は俯き、顔は見えなかったがそれが誰なの言うまでもない。

 僕の背中に腕が回り、寄り添うように体重をかけてゆく。

 歪んだ性欲が絡み、破裂し、それは何度と繰り返され目覚めるまで続いた。




 はあ、なんという一日の始まりなんだ。

 未明から続く夢を思い出しながら、僕は駅のホームでぼんやりと考え事をしていた。

 夢とはいえ、今度は僕のほうから手を出してしまったのだ。

 一方で前日の出来事が脳裏をよぎる。

 背中に伝わる赤いウォークマンの愛撫。そう、夢と同じことが起きてしまったのだ。

 これは偶然なのか? 

 そんなことがありえるのか?

 この世に思いの力など存在しないし、思い通りに事が運べば苦労はない。

 だけど、夢で交わり、電車内で出会い、目を合わせ、意識的な何を感じ、いつしか肉体的にそれを受けた。

 夢と現実に違いはあれど、今、この心にたぎる思いは本物なのではないか? 

 そう思うと、もう赤いウォークマンを他人として意識できなくなっていた。

 鼓動が早くなるのを感じる。

 僕は期待しているのだ。これから起ころうとする現実に。もし夢が再現されるなら、僕は赤いウォークマンの体を指でまさぐることになる。

 そして、期待した通りにその光景はめぐってきた。

 すし詰めとなった満員電車で僕は赤いウォークマンと向かい合っていた。

 髪の隙間すら見える赤い唇は熟れた果実のようであり、押し当てられた胸の弾力が僕の理性を砕きにかかった。

 いま、この女は僕の体で肉欲を満たそうとしているのだ。

 赤いウォークマンはこの後どうなるかを知っているかのように胸を突き出してみせた。

 後は夢の再現あるのみである……。


 ――これでよいのか?


 心の言葉が僕を制止させる。

 こんな歪んだ出会いも、行為も、考えようによってはアリなのかもしれない。だが、僕はこんな秘めた遊びではなく本気で向き合いたいと考えるようになっていた。

 触れようとした腕を引き、指をぐっと握り、気がつくと僕は赤いウォークマンの耳元で小声で囁いていた。


「あの、どこかであったことがありますか?」


 彼女は驚いたような目で見上げる。

 しばらくしてうつむき、つま先で背を伸ばすと、僕の耳元で震えるように呟いた。


「あっていますよ」

「どこでですか?」

「言っても信じないかもしれませんが……」


 僕は彼女が何を考え、何を言おうとしているのか、ほぼ察しが付いていた。いや、わかっていたが正解だろうか。


「夢の中ですよね?」


 彼女の口元が緩む。

 それを見た僕は、そっと彼女の手に触れる。

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