面皰

一日二十日

面皰

 かの芥川龍之介が書いた『羅生門』とは、下人が外道へ堕ちていく話だった。

 下人に同情するつもりは全くないが、いつの世も貧困とはいい作用をもたらしはしないと、始めて『羅生門』を読んだ十代の時に下人を哀れんだのを真央は思い出していた。

 とは言っても、それを読んだのはもう10年以上前の話だ。話の内容はぼんやりとしか覚えていないし、当時の記憶だって曖昧だった。

 なので、真央の『羅生門』に対する思考はそこで終わった。そもそも、どうして『羅生門』のことを思い出したのかも、通勤途中の真央にはそれを思い出す余裕もなかった。

 毎朝、3分遅れてくるバスに乗り、会社へ向かう。

 仕事自体は嫌いじゃないが、真央はどうしてもこの時間が憂鬱だった。朝はそもそも得意ではないし、人が多いところも好きではなかったからだ。だからと言って、電車で行けばちょうど通勤ラッシュに当たる。さすればバス以上の人混みを毎日体験しなければならない。だから真央はまだマシな方を、ということで通勤手段にバスを選択したのだ。

 窓から見える10月の空は絵に描いたような水色で、瞳に色が移るような感覚を覚えた。憂鬱な朝の中で唯一美しいと思えたそれに、真央は少し気分が良くなった。

 真央は青空が好きだった。だからと言って雨も嫌いではない。どちらにもそれぞれのいいところがあると思っていたからだ。青空は爽やかに世界を彩ってくれるし、雨は世界を静かにしてくれる。別々の性質を持つ彼らだけど、それがいいと思った。

 でも、曇り空は嫌いだ。晴れにも雨にもならないそれが、中途半端で、世界に馴染まないそれが大嫌いだった。物心ついた時にはそうだったと思うから、これは真央の性格的なものなのだろうと思う。

 プシュー、とバスのドアが開く音がした。

 真央は次の停留所で降りる。この時間さえ終われば、真央にとって怖いことなどない。他人から見れば自分は十分、『幸せ』だ。

 仕事も順調、プライベートでは結婚を考えている恋人だっている。家族との問題もない。恵まれている、そう思っているし、感謝だってしている。

 何もかも完璧だった。

 確かに、バスに乗っている時間は大嫌いだったが、私は恵まれている、そう思えばこれくらいのことは許容できた。

 バスは徐々にスピードを落とし、停留所に停まった。

 真央は疑うことなく、開いたドアを軽快に抜けていった。


 本日の業務も問題なく完了し、真央は会社を出た。

 問題なく、というよりも今日は上手くいった日だった。プレゼンでは上司に評価され、後輩からの支持も得られた。むしろいつもより良い日になった。

 真央は嬉しさを密かに噛み締めながら、停留所でバスを待った。

 しかし、停留所についた途端に、腕に違和感を感じた。

 かゆい。

 真央は思わず服の上から触った。すると、左の前腕の内側、肘のすぐ上のあたりに晴れた何かがあることがわかった。真央は袖をまくりそれを確認した。

 布を剥がされた肌に見えたのは、赤く腫れた小さな出来物だった。

 真央は一瞬、蚊にでも刺されたのかと思ったが、今日は一日長袖だった上にもう10月の半ばである。蚊がいたとは思えなかった。

 真央は恐る恐るだがそれに直に触れてみた。小さな痛みを覚たが、あえて力を加えた真央は、その正体がわかった。

 ニキビだ。

 十代のころ散々悩ませられたその症状に覚えがあったため、真央は触ってすぐにわかった。かゆいし痛いが、触ると悪化するので、真央は正体がわかったそれに触れずに袖を戻した。

 だが、少し変な話だと思った。

 ニキビといえば、思春期か若いうちにできるものなのに、20代も後半になった真央に突然できたのだ。それも顔や背中などではなくて左腕に。

 だが、真央は専門家ではない。そんなこともあるだろうと思って、この時は大して気にはしなかった。

 真央はバスを待ちながら、左腕に宿る熱さを感じていた。だが、いわば傷口であるニキビが熱を持っているのは、むしろ自分の体が正常に治癒していることだと思って、心配はしなかった。

 バスは来た。

 真央はそれに迷わずに乗り込み、運よく座れたので、携帯でニキビの対処方法を検索した。


 家についた真央は先に風呂に入ることにした。

 仕事で疲れていたこともあったし、ニキビも気になったからだった。

 帰りのバスの中で見たネットの情報によれば、ニキビは洗って清潔にし乾燥させないことが大事らしかった。加えて、掻いてしまうと傷跡が残ってしまうようなので掻かないことが重要らしい。つまり、真央のファーストアクションは正しかったのだ。

 浴室へ入った真央は、シャワーを頭から浴びた。

 全身の感覚が研ぎ澄まされていくようで、真央はこの瞬間が好きだった。力が抜けていく体の感覚を味わうのが好きだったのだ。

 しかし、今日はいつもとは違って左腕に違和感が残り続ける。

 あのニキビだ。

 それは先ほど帰りがけに見たときよりも赤くなっているような気がした。触れていなければ痛みはそれほど感じないが、痒みはいまだに続いている。

 掻きむしりたい思いはあるが、傷跡が残るのは嫌だった。真央は触れることなく帰りに買ったニキビに効く薬用の洗顔料を取り出した。顔には何もできていないが、同じ肌である、問題はないと思ってそれを買ってきたのだ。

 真央はしっかりと泡だててニキビにそれを当ててやった。勿論、すぐに症状が変わったりはしなかった。それは真央自身もわかっていたので、驚きはしなかったので、そのままいつも通り入浴した。

 

 夜も更け、ベッドに横になった真央は力を抜いて眠りにつこうとした。

 しかし、どうしても眠れなかった。左腕が痒くてしょうがなかったのである。

 あまりの痒さに、左腕以外の部分が反射的に動きそうになるが、それを精一杯我慢した。反対側へ行かないように、右手でぎゅっとシーツを握りしめた。

 おかしい、こんなニキビは経験したことがない。

 おかしいのだ、痒みを感じてからずっと痒みは治らず、常に痒いのだ。少し触れてみただけなのにズキリと痛む。十代の頃にあれほど経験したのにも関わらず、このニキビはそれには当てはまらないほどに苦痛だった。

 あまりの痒さに眠ることなどできない。暑くもないのに汗が止まらなかった。右手が反射的に左腕に触れようとするのを必死で止めて、真央は目を閉じようとした。が、目を閉じれば閉じるほど、左腕の感覚が鋭くなっていく。真央は左腕の感覚がジワジワと全身に広がって自分を蝕んでいく感覚に襲われた。呼吸がどんどん荒くなり、汗も止まらない。到底寝られる状況ではなかった。

 いっそニキビをそのまま取りたいとすら思った。

 我慢しきれなかった真央は、ベッドを離れて救急箱を取り出した。その中から包帯を取り出し、左腕にグルグルと巻きつけていく。

 掻けない、と思うから余計に痒くなるのだ、そう考えた真央は掻いてしまっても傷跡にならないようにと包帯を巻いた。

 真央はもう一度ベッドへ戻った。人間の脳とは不思議なもので、掻いてしまってもいい、と思えば不思議と痒みは収まっていくように感じた。

 真央は安堵感で満たされ、気づけば深い眠りについていた。


 翌朝、真央はいつも通り問題なく目覚めた。

 昨夜はうなされたものだったが、なんとか眠りにはつけたのだからホッとしていた。

 起き上がった真央は左腕の包帯を見た。シュルシュルとそれをほどき、ニキビを確認しようとした。

 しかし、ニキビを覆っていた包帯の端がするっと地面に引かれたとき、それに釣られて何かがぽとりと落ちた。

 真央は反射的に地面に落ちたそれを目で追った。

 ベッドの下にあったのは、直径1センチに満たないほどの大きさの、端が茶色く変色しているが真ん中はまだ赤みを帯びている円形の皮膚だった。

 真央はゾッとして、持っていた包帯を手放した。と、同時にニキビの方を確認した。

 左腕には、ニキビはなかった。

 昨日まであったニキビは面影もなく、一つの小さなかさぶただけが残っていただけだった。

 真央はもう一度、地面に落ちた皮膚を見て、そして確信した。

 ああ、あれが昨日のニキビなんだ、と。

 真央はベッドを降り、恐る恐る地面に落ちるそれをティッシュでつまんで拾い上げた。ティッシュ越しに感じたそれの感触は、まだ少し柔らかかった。

 それに気づいた真央は恐怖と嫌悪に襲われ、急いでゴミ箱へティッシュを投げた。

 あまりにも不気味だった。一日であのニキビが治るとは思えないし、第一ニキビが取れるなんて聞いたことがない。昨日あれほど痒くて苦痛だったそれが、たった一晩でこんなことになるなんて普通ではない。

 そこで真央はハッとした。

 真央は昨夜、ニキビをそのまま取りたいと思った。あまりの痒さに耐えかねて、そんなありえないことを考えた。

 そして、朝になってニキビは本当に取れた。真央がイメージした通り、丸ごとそのままだ。

 ゴミ箱の方を見つめながら、真央の背中にはジトッとした汗が張り付いていた。いつもなら目が覚めずにぼんやりとしている朝の景色が、今日はあまりにもはっきりと鮮明に脳に伝わってくる。見えないものまで見えてきそうな気までした。

 真央は急いで朝の準備をして、ゴミ袋をまとめ、そのまま出勤した。いつもより大分早く家を出たが、この皮膚を一刻も早く処分したかった。

 真央はパンプスで走りながら、ゴミ袋を集積所に置いて早々にそこから立ち去ってバス停を目指した。

 ちょうどよくバスが来て、真央はそれに飛び乗った。いつもより早いバスなので、人もあまり多くなかったので、真央は座ることができた。

 バスが発進して、ようやく真央は一息つくことができた。手にはいまだに皮膚の感覚が残っているが、ハンカチをぎゅっと握ることでそれを忘れようとした。

 少し落ち着き、冷静になって考えてみてもやはり全てがおかしかった。なぜ今の自分にニキビができたのか、尋常ではない痒みと痛みはなんだったのか、どうして取れたのか。何をどう考えても常識の範囲外すぎる。

 真央は自分の左腕を袖をまくって見た。ニキビがあった場所は今朝と同じく小さな赤黒いかさぶたがあるだけで、形跡が一切ない。

 もしやニキビではなかったのだろうか、とも考えてみたが、別の何かだったとしてもこのようなことにはならないだろう。だから尚更怖かった。もし、今回だけではなく、もう一度あのニキビができたなら、病院に行くべきだろうか。これは一体なんなのだ、と聞くのがあまりにも怖すぎる。単なるニキビであっても、別の病気であっても、新種の何かであってもどれも怖い。

 もしかしたら、そのどれでもない可能性だって、あるのかもしれない。

 自分で考えておきながら、真央は背筋が凍っていくのを感じた。

 今日は10月ながらも暖かい陽気なのに、真央は寒さを感じて仕方がない。寒さでおかしくなりそうだった。

 なるべく早く会社に着いて欲しい、ただそう願っていた。


 真央は家族、恋人、仕事仲間の誰にもニキビのことは言えなかった。

 そもそもが信憑性がなさすぎる話だし、真央自体、あのニキビの話題を出すのが嫌だった。早く忘れ去ってしまいたかった。

 しかし、それはもう一度現れた。

 ニキビが取れたあの日から三日後の昼のこと。家でテレビを見ていた時だった。右くるぶしに激しい痒みを感じて、見てみたらあのニキビができていた。

 怖かった。何かがわからないそれが怖くて仕方ない。まともに寝ることもできなくなるし、常に痒みが気になる。百害あって一利なしだ。

 それがまたできた。しかもこの前の左腕と全く関係ない場所に。何がどうなっているのか、真央には全く理解できなかった。

 またこの前のように皮膚が取れるのだろうかと思うと、気持ち悪さで泣きそうになった。

 そこで真央は思い出した。

 あの時、取れたニキビは真央がイメージた通りに取れたのだ。もし、もう一度それができるのだとしたら。

 真央はくるぶしのニキビをじっと見つめた。もし本当にそれができるとしても、怖いことに変わりはない。だが、この痒みを我慢するのには限界があるのをこの前知った。押し寄せる恐怖をこらえながら、真央は願ってみた。

 お願い、ニキビよ綺麗に消えて。

 真央はこの前と同様にイメージしながらそう願った。すると、痒みが一瞬引いたのである。そのまま完全に消えはしなかったが、だが確実に先ほどよりは痒みが弱くなっている。

 真央は確信した。このニキビは、なぜか宿主の言うことを聞く。それがどうしてかはわからないし、それはこのニキビ自体が普通ではないことを意味していた。

 だが、それでも制御できるのならばと、真央は一安心した。加えて、今回真央がニキビに願ったのは『取れる』ではなく『消える』ことである。前回のようにポロっと皮膚が取れることはないのだ。

 真央は、なるべく前回と同様にするために、一応ニキビに包帯を巻いて一日を過ごした。

 すると翌朝、ニキビは影も形もなく完全に消えていた。真央は完全にニキビの取り扱いを心得たのだった。

 その後も何度か真央の体にニキビが現れたが、その度に真央は『綺麗に消えろ』と願い続けたので、ほとんど生活に支障をきたすことなく過ごせていた。

 しかし、ニキビとの生活に慣れてきたころ、真央は付き合っていた恋人から別れを切り出された。

 あまりにも突然すぎる別れの宣告に真央は問い詰めたが、明確な理由はもらえずにそのまま消滅してしまった。

 真央は相応に落ち込み、仕事もあまり手につかなかった。

 ストレスのせいか、ニキビだけはできた。

 真央は太ももにできたニキビに対して、慣れた要領で『綺麗に消えろ』と願った。その瞬間、痒みは少し引いた。大丈夫だと思った真央は、そのまま眠ることにした。

 翌朝、真央の太ももにあったニキビは消えていた。が、ニキビがあった痕は残っていた。

 今までは後も残ることなく綺麗に消えていたので、真央は不思議に思った。しかし、念が足りなかったのだろうと思って、深くは考えなかった。何しろ、傷心中だったから。

 恋人に振られてから三週間が経ち、真央も完全に吹っ切れた頃、また新しくニキビができた。今度は脇腹にポツリとできていたので、この前の反省を活かし真央は強く念じた。

『綺麗に消えろ』

 痒みが引いていく。真央はほっとして、目の前の生活に集中した。

 翌朝、ニキビは消えたが痕は残っていた。むしろこの前よりも濃く痕は残っている。

 真央は焦った。この前は真剣に願った。それは今まで以上にだった。それなのに痕がしっかりと肌に残っている。

 どうして。

 真央は考えたが、名案は浮かばない。

 しかし、ニキビ自体は消えている、これなら最低限度の問題は解決しているのだ。そう考えるようにして、真央は必要以上にニキビを怖がることはしなかった。

 ニキビの痕が残るようになってから二週間が経った頃、真央の父が急な病で倒れ、そのままこの世を去った。

 あまりにも急な出来事に、真央は理解が追いつかなかった。ついこの前まで電話越しに話した父の様子は十分に元気で病気の気配なんて微塵も感じなかった。

 あまりの悲しみに真央は会社を休むようになってしまった。仕事をしていると、ふとした拍子に出てくる父の顔に泣いてしまうからだった。

 家でぼんやりとしていると、また体に痒みが現れる。今度は肩のあたりにニキビが現れた。

 真央は慣れながらも、かつ真剣に願った。

『綺麗に消えろ』

 痒みが少し引いていくが、この前ほどではなかったことに気づいた。以前までは多少痒みが残っても、耐え切れるくらいの痒みだったのに、今回はまだ十分に痒い。

 何かがおかしかった。これまでは願えば叶ったのに、最近は願っても思った通りにはいかないのだ。ニキビはどんどん痕を残すようになっているし、痒みだって最近は感じている。

 真央はニキビをそっと触った。

 痒い。少し痛い。

 願いの効能がどんどん薄れている。真央はまた、指先に感じる熱さが怖くなっていた。

 翌朝、ニキビ自体は消えていた。しかし、ニキビがあった場所にはニキビと同じくらいのかさぶたができていた。

 真央は疑問に思った。痕が残った訳でもなく、どうしてかさぶたができているのだろうか。しかも、ニキビと全く同じサイズのかさぶたなんて不自然ではないだろうか。

 最初にできた時もかさぶたができていたが、あの時は皮膚が取れたからそこから血が出てかさぶたができたのだと思っていた。だが、今回はちゃんと『消えろ』と願ったのだ。

『綺麗に消えろ』

 真央は気づいた。

 ニキビは消えた。間違いなく。

 加えて、ニキビとともにあったそこの皮膚までもが『消えた』のだ。

 だからニキビ分のかさぶたができている。

 同時にこれはもう一つの事実も導き出している。ニキビを治せば治すほどに、治癒の力が落ちている。悪化しているのだ。

 真央はニキビがあった場所のかさぶたを見ながら、涙を流していた。どうして涙が出たのか真央にもわからなかったが、涙が出て止まらなかった。

 重なる不幸も、悪化していくニキビも、全てが嫌でたまらない。辛くてたまらない。生きていることが楽しくない。ついこの前まであった充実した人生が、今は影も形もない。

 どうしてこんなことになったのかを考えるのに、理由は十分だった。

 真央はすぐに答えが見つかった。なにせ、ここ最近はずっとそれに苦しめられているからだ。

 全ての元凶は、ニキビだ。

 あの日、突如として現れたニキビ。できもしないはずなのにできたニキビだ。何もかもが不自然で、普通ではないこのニキビが自分から全てを奪い去っている。恋人も、家族も、己の体も。

 真央はかさぶたに触れながら考えていた。

 次にニキビができた時、どうしてやろうか、どうやって殺してやろうかを心の中で考え続けた。

 もう頭で願っても、イメージ通りに叶う訳でもない。その上、今度『消えろ』と願ってしまえば、自分の身に何が起きるかはわからない。ならば、自分が直接手を下し、物理的に排除するしかないと思ったのだ。

 私があいつを殺す。でなければ私があいつに殺される。

 相手はただのニキビではない。ニキビの形をした得体の知れない何かだ。だがそれは私に危害を与える。ならばそれを排除するのは、当然のことだ。

 子供の頃からそうだった。嫌いな人ができれば自分の周りから徹底的に排除した。傷つけて、相手がいなくなるまでそれを続けた。上手くいかないことは嫌いだったし、輪を乱すものなんて大嫌いだった。だから消した。罪悪感なんて微塵も湧かなかった。

 だから、今回もそうするのだ。気に入らないものを徹底的に排除する。自分の手を汚してでも、そうすると決めた。

 真央は笑った。気に入らないものを消すために遊んでいたときのような、無邪気な顔で。真央はあの時間が大好きだった。全てが自分の思い通りになるあの時間、それがまた訪れたのだ。真央は次にニキビに会えるのが、楽しみでしょうがなくなっていた。

 

 真央の願いが通じたのか、ニキビは翌朝に出現した。左の脇腹に今までのものよりもひと回り大きくそれはできていた。

 真央は痒みに悶えるよりも先に、あまりの嬉しさに身震いした。

 さあ、どうやって殺してやろうか。

 そればかりが頭の中を駆け巡った。なるべく苦しめて殺してやりたかった。だが、一思いにやるのもスッキリするだろう。焦ってはならない、楽しみはギリギリまで取っておくのが真央のやり方だった。

 真央は一旦ニキビに絆創膏を貼って保護した。万全な準備をしてからこいつをやりたいと思ったからだ。

 自分が思う通りにやるためには、その準備をしなければならない。その方が気持ちがいいし、バレもしない。何事にも準備ができていないと何もうまくいかない。

 真央は髪も顔もそのままに、財布だけを持って家を出た。買うものは決まっていないが、使えそうなものは全て買おうと決めていた。

 真央は早足でホームセンターを目指した。外は11月の曇り空が広がっていて、それが妙に気持ちよかった。

 ホームセンターまでは10分も歩けば着く。休日は人も多い街並みも、平日のこの時間ならほとんどいない。近くを走る電車の通過音とパトカーのサイレンだけが遠くに聞こえた。世界には自分しかいないように思えて、早足だった真央の足は、次第に駆け足に変わっていた。

 ホームセンターに着いた真央は、まず工具売り場へ向かった。

 電動工具や各種パーツなどが様々に並ぶ中で、真央は小柄なインパクトドライバーを手に取った。それを買い物カゴに放って、隣の大工道具のコーナーに移動した。ノミやヤスリなどが並べられたそこから、真央はノコギリを手に取った。それをカゴに入れ、また別のコーナーへ向かった。

 真央はわかりやすい凶器の他に、除草剤や殺虫剤の類に加え、ライターも手に入れた。油も欲しかったが、家まで持っていくのが大変そうだと思ったので、泣く泣く断念した。

 会計を済ませ、大量の荷物を抱えながら真央は店を出た。店の外は、やはり電車の音と、遠くに聞こえたパトカーの音が、先ほどよりもやや近くに聞こえた。

 痒みも限界だ。早くどうにかしてやらなければ、と思い真央はなるべく早足で家を目指した。

 真央は街を歩きながら平日の昼間というのはこんなにも人が少ないのかと思った。いつもなら仕事をしている時間だから、自分が住む街にこんな顔があるとは知らなかった。真央は思いがけない発見に、自然に笑みがこぼれた。

 歩きながら、真央はニキビから解放された後のことを考えていた。

 新しく恋人を作ろう、家族と一緒に過ごす時間をもっと増やそう。そうだ、趣味に時間を費やすのだっていい。新しく趣味を作って、それに没頭するのだ。それから、ああ、そうだ。名作と呼ばれる本を読んでみるのもいいじゃないか。せっかくだ、あれがいい、『羅生門』だ。きっと今読めば、あの頃とは違う感想が出てくるだろう。この前読んだ時のことを思い出したのは、このためだったのだ。

 やり直せる、いつだってそうだった。遊んでいたのがバレたあの頃だってそうだ。私は遊んでいただけで、勝手に相手が学校から消えた。私は別に強要したわけでもないし、あくまでもそれは本人の意思だったじゃないか。だけど大人たちは私のことを怒ったけど、私は問題なくここまで生きてこられた。充実した毎日を送っていたのだ。私の人生は誰にも邪魔はさせない。

 真央は夢中で歩き続けた。あまりにも夢中だったので、前方から人が来ていたことに気づかなかった。

 真央はその人と肩がぶつかった。

 それでも気にせず、真央は歩き続けた。真央が住むマンションは、角を曲がった先だった。もう少しでニキビから解放される、その一心で真央は歩み続けた。真央は角を曲がるその一歩を踏み出そうとした。

 しかし、それは阻まれた。

 真央はもう二度とそこから動くことはできなかった。

 真央はその場に倒れた。

 先ほど真央がぶつかった通行人は、30センチに渡る包丁を真央の腰に突き立てた。ブスリと刺さったそれは、真央の薄い体をいとも簡単に貫いた。

 膝から崩れ落ちた真央は、そのまま地面に臥した。じわじわと腹のあたりが生温くなっていく感覚に、反射的に左手を傷口の方に寄せた。

 真央を指した刃は、体を貫通し左脇腹に到達した。

 包丁の出口となったのは、あのニキビがあったところだった。

 真央は目の前が真っ赤になった。犯人への憎悪で溢れた。あのニキビを殺すのは自分だった。自分がやるはずだったのに、何をしてくれたのだ。あれをやるのはお前じゃない。お前じゃない。

 真央は尽きていく力を振り絞り、犯人の方を見た。

 犯人は真央が持っていたレジ袋の中からライターを取り出し、着火した後、それを真央の方へ投げた。

 火は真央の服に引火し、瞬く間に全身に広がった。真央は犯人が逃げていくのを最後に、もう一度地面に引き戻された。

 燃えている。

 自分の体が、燃えている。

 真央は焦げていく感覚を覚えながら、パトカーの音が鳴っていた意味をようやく理解できた。街に人がいなかったのも、あの通り魔がいたからだった。

 あの通り魔、犯人、強奪者。

 絶対に許さない。

 死んだら祟ってあいつを殺してやる。

 あのニキビを殺すのは私だったのに、ただ死んでやるなんてことはしてやらない。

 そうだ、ニキビにでもなってお前を殺してやる。

 痛みも熱さも感じなくなった頃、真央は『羅生門』を思い出していた。

 おぼろげな記憶をたどった。確か、下人は失業したのだ。それで、飢え死にか盗人になるかどうかを迫られていたはずだ。

 そう、確か老婆が出てきて、そいつは死人から髪を引き抜いていた。気持ち悪いな、とそう思っていたのだ。

 それを見て、下人は盗人になるのを決めたんだっけ。その前に、なんか重要な表現があったのだけれど、なんだっただろうか。先生が言っていたのだけれど。

 ああ、思い出した。

 面皰だ。

 下人はずっと触っていた面皰から、手を離したんだ。

 そっか、面皰だったんだ。


 平和な住宅街に突如として起きた通り魔による殺人事件について未だ犯人は逃走中だと画面の中のアナウンサーは告げた。

 それを見て鼻で笑いながら、男は街を歩いていく。自分が捕まることはない、そういう自身があったからだ。

 そんなことより、先ほどから手の甲がかゆいのだ。長く手袋をはめているからだろうか、蒸れてかゆいらしい。

 男は右手袋を外した。

 そこには赤みを帯びた小さなニキビが一つ、できていた。

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