宮村夫婦の四択クイズ

真田宗治

宮村夫婦の四択クイズ




 休日のレジスターが、絶え間なく電子音を響かせる。レジ待ちの行列は、どれも広い商店の中程までも続いていた。人で溢れる店内で、僕は大切な温もりを見失わなぬよう柔らかな手を掴む。キュッと握り返す感触に眼をやると、そこにはちょっぴり照れたように目を逸らす、奥さんの横顔があった。

 僕たち宮村夫婦は晩婚の新婚である。あまり裕福とはいえない。正直、若干貧しかったりする。それでも僕たちは、明日をもしれぬこの国の明日をもしれぬ時代に、一緒にいることを選んだ。奥さんは今の生活を幸せだと笑ってくれる。必要最低限という、ありもしない幻想を追いかけなかった奥さんは賢かったのだと思う。僕も幸せだ。ただ、こんなおかしな世の中でどのように奥さんを守り切るかと考える時、言いようのない不安が胸を満たすことがある。そんな気持ちを打ち消すように、奥さんがコツリと僕の肩におでこを預けた。


 今日、僕たちは百円ショップに来ている。百円ショップは僕たちが住まうアパートの駅向こう、繁華街の中にひっそりとあった。あまり有名ではなく、チェーン展開しているかどうかも分からないささやかな店だ。でも、いざ入ると広く感じられて、品揃えもまあまあ良かった。

 僕たちは買い物籠が半分埋まるぐらいの商品を選び、五分近くも行列に並んでいた。奥さんと二人、冗談を言い合って暇を潰していると、ふと、奥さんが何かを思い出したように行列から離れた。奥さんはすぐに戻ってきて、籠に商品を放り込む。特売の烏賊の塩辛だった。すると、僕もなんとなく行列を外れてみたくなる。

 そこで僕は食品の棚へと行き、とある商品へと手を伸ばす。やがて列に戻って、奥さんの持っていた籠に商品を放り込んだ。

「持つよ」

 僕は奥さんから買い物籠を受け取った。

 愛する奥さんの名は、宮子みやこという。苗字が宮村だから宮村みやむら宮子みやこ。なんとも不思議で愛らしい響きである。僕は、その心地よい調べが好きだった。宮子さんは小柄で、活発な印象で、髪もショートカットを好んだ。眼がくりくりとしており、歳の割にずいぶんと幼く見える。でも、ちょっぴり負けず嫌いだった。

「何を入れたの?」

 宮子さんが、僕が放り込んだ商品に若干の興味を示す。僕が放り込んだのは、二つのチューインガム──コーヒー味の板ガムだった。聞いたこともない食品メーカーが作っており、言っちゃ悪いが安物である。僕は、百円ショップを訪れた時は、よくそのガムを買っていた。別に、特別美味しい訳じゃない。貧乏な僕でも手が届く値段で、有名メーカーが製造している物より分厚くて枚数も多い。だからよく買っていたのだ。味は、甘ったるいミルクコーヒー味だ。けど、その表現は正しくない。僕はコーヒーが好きで良く飲むが、そのガムは、実際のコーヒーとはかけ離れた味をしていた。つまり、コーヒー的な何かであって、独特の、甘すぎるコーヒー的な何か味なのだ。

 宮子さんは、そのガムを見たことがなかったらしく、興味深そうに眺めていた。


 会計を済ませた僕たちは、軽自動車に荷物を積み込んで昼食を食べに行った。食べたのは、蕎麦屋の安物のざる蕎麦だった。だけど、店主の腕が良いのか、歯触りがよくて美味しかった。

 食事を終えた車内で、僕は口直しにさっきのガムを噛んだ。いつもの甘ったるい味が口内に広がってゆく。コーヒー的な匂いが車内に充満すると、宮子さんが鼻をくんくん鳴らす。

「食べる?」

 僕はガムを一枚、宮子さんに渡す。

「あら、美味しいわね」

 奥さんは、ガムを口にして言った。

 取り立てて美味しい筈はないと思う。宮子さんは子供みたいに甘いものが好きだから、適当にそう言ったのだろう。僕は、そんな宮子さんの大雑把なところも好きだった。なんというか面倒くさくないし、さっぱりとした感じがして、素直な人だと思えた。

「じゃあ、一つあげるよ」

 と、まだ開封していない方の板ガムを宮子さんにあげる。宮子さんは、ガムをコートのポケットに放り込む。そうして僕らは、車内でコーヒー的な匂い塗れになった。


 僕たちは、帰りも百円ショップに立ち寄った。

 宮子さんが買い忘れていたのは、水回りの掃除なんかに使う白いスポンジだった。それは比較的新しい商品であり、汚れが良く落とせると評判で、主婦に限らず大人気なのだという。

 宮子さんが会計をする為にポケットに手を突っ込んだ時、彼女に一瞬、嫌悪感が浮かんだ。そのまま様子を見ていると、恐る恐るといった感じで、宮子さんがポケットから手を出した。手には薄茶色のべとべとした粘液が附着している。よく見ると、ガムの汁だった。コーヒーガムの糖分が体温で溶け、ポケットの中に広がっていたのだ。

 宮子さんは酷く肩を落とし、がっかりした様子を滲ませる。なのにレジの女性店員が急かすから、軽く頭に血が上ったらしい。

「なんでそんなこと言うの。見ればわかるでしょ。ここのガムでこうなったのよ!」

 宮子さんは、少々大きな声を出した。罵声を浴びせるという程じゃない。でも、店中は静まり返り、周りの客も店員も、一斉にこっちを見た。

 僕は、慌てて店員と宮子さんの間に割って入った。店員を責めるのは簡単だが、多分、彼女はパートかアルバイトだと思われた。話の出来る相手じゃない。

「見ての通り、ここの商品でコートが大変なことになった訳だから、誰か話の出来る人を呼んでもらえますか? 店長とか、責任者じゃないと困る」

 とりあえず、言うべきことをいう。レジのおばさん店員は、業務連絡で責任者を呼んだ。


 店長はすぐにやって来た。やけに体格がよくて丸刈りで、歳は四◯台半ばぐらい。見るからに強面といった顔つきをしていた。見た目を裏切らず、態度にも、そこはかとない横柄さが滲んでいる。まず、やってきてすぐの腕組みが気に入らない。

 彼が話を聞くというので、僕はかいつまんでこれまでの事情を説明した。

「ふうん。ガムが溶けた。レシートは持ってる?」

 男が言う。

 この言葉に、僕は少々カチンと来た。すみませんの一言もなしに、まず疑ってかかるのか。レシートなら捨てずに持っている。だが、もし、持っていなかったらなんだ。ガムは珍しいメーカーの物で、この辺りじゃここしか扱っていない。見れば店の物だと解るだろう。それとも、僕たちが商品を購入せず盗んだと言いたいのか!

 言っても喧嘩になるだけなので、僕は仕方なくレシートを見せる。すると、男はようやく「じゃあ奥に来て」と、バックヤードへと顎を向ける。

「待て」

 僕は、厳つい肩を呼び止める。やはり我慢ならなかった。

「もし、レシートを持っていなかったとしたらどうするつもりだった? 証拠がないだのなんだの言って、なかった事にするつもりだったのか? それとも、我々が盗人だとでも?」

 男が眉をしかめ「あ?」、と返す。一文字だ。仮にも商店を営む者が、それも責任者がそう言った。余計に頭に血が昇る。

 僕は黙って男に歩み寄り、顔面を奴の鼻先三センチぐらいに近づけて、じっと眼を凝視した。睨んだ訳じゃない。あくまでも真顔を努めてはいた。でも、怒っていない訳じゃないから、それは伝わっていると思う。多分。

 長い睨み合いを続けていると、宮子さんが不安そうに、僕のコートの裾を引っ張った。僕はすぐに目が覚めた。

 またやってしまった。と、恐る恐る男に視線を戻す。店長は何故だか油汗を滲ませて、愛想笑いを浮かべていた。

「お、奥へどうぞ」

 強面の店長が言い直す。こうして、僕と宮子さんは、店員しか入らないあの扉の向こうへと通された。

 バックヤード奥の小部屋には、テーブルとパイプ椅子が置かれていた。万引きGメンなんかが、犯人を捕まえて尋問する場所のように思われた。こんな場所に案内するとは全く無礼な話だが、まあ、他に適当な場所がないのだろう。

 僕たちはパイプ椅子に腰掛けて、男とにらめっこする様な形となった。

「こちらの言い分を言っても?」

 改めて口を開く。

 冷静になってよく見ると、男は胸に名札をしていた。名札には〝坂田〟と記されていた。肩書きはやはり、店長とある。

「はい」坂田はしおらしく返す。

「まず。さっき一度来て、ここでガムを買った。ガムの内、一つを開封せずに奥さんがポケットにしまっていた。そしてまた、再びここに来て買い物をする頃には、ガムが溶けてコートのポケットがべちゃべちゃになっていた。ガムをポケットに入れて持ち歩くのは当たり前のことだ。もし、体温で溶けたとしても僕らに過失はないと思う。問題があるとしたらこのガムの品質だ。奥さんのコートは高い。凄く高い訳じゃないけど、奥さんはコートを大切にしているから、すみませんの一言で済ませてもらっては困る。大切な奥さんが悲しんでいるから、僕は文句を言わない訳にはいかないんだ」

 僕が言い終わるなり、宮子さんはべちゃべちゃになった未開封ガムを取り出した。坂田はそれを受け取った。

「はい。それは申し訳ありませんでした」

 男は一応、謝罪らしきものをした。だが、どうにも心が篭っている感じがしない。別に、僕が穿った見方をしているからという訳じゃない。見れば誰だってそう感じるだろう態度だった。

「見ての通り損害が出ているから、この店には責任の一端がある。責任の所在という話になればメーカーや工場にもあるかもしれない。でも、今、ここでそういった話は必要ですか?」

「ありません。では、こちらでコートのクリーニング代をお支払いします。迷惑をおかけして、済みませんでした」

 坂田は謝って、一応の解決策を示した。


 普通ならばここで話は終わりだ。でも、僕的には小さな問題が発生していた。

 僕が思うに、坂田は僕たちを面倒なクレーマーだと思っている。面倒な上、実際に損害が出ているから、クリーニング代を支払って追い払おうとしている。この対応が本当に誠意ある態度といえるかは疑問だが、そこは問題じゃない。僕が気になったのは、次に来た時、この店に同じガムがあるかどうか? ということだ。勿論、あってほしい。僕はこのガムをよく買っているし、ある程度気に入ってもいる。さして美味くはないが、安くて量が多いという利点がある。すぐに体温で溶けて服がべちゃべちゃになるという欠点があるが、今回の件でそれは学習した。欠点に注意を払いさえすれば、次も問題なく購入できるのだ。でも、この坂田店長は、問題のあった商品はもう二度と入荷しないだろうと思えた。それはそれで困るのだ。

 ここで最も良い結論は、店がメーカーに事情を報告して、改良を促すことだ。そして欠点が改良されたガムが、同じ料金と内容量のまま、この店の店頭に並ぶことである。でも、それはあり得ないだろう。だって坂田はメーカーに連絡などしないからだ。そんな面倒なことをするよりも、単に入荷を止めるだけ。その手の人間だと思われた。じゃあ、僕が坂田に提案したとしたらどうだろう?

 答えは明白だ。坂田は何もしない。ただ、コートのクリーニング代を支払って僕らを追い払い、コーヒーガムの入荷をやめる。何を言ってもそれ以外の選択はしない。

 答えは見えているのではあるが、ただ黙っているのは建設的ではない。だから、僕は一応、念の為、駄目で元々といった心持ちで考えを巡らした。

 僕はべちゃべちゃになったガムの包装を開け、中身を取り出してみた。見ると、ガムの銀紙が薄く、溶けた板ガムの液が外へと染み出している。溶けた液は、板ガムを包んでいた外側の包装紙にも染み込んでいた。それが染み出してコートを汚したことが解った。念の為、先程開封して食した方のガムも見てみる。やはり、溶けかかったガムが銀紙の内側に張り付き、少しだけ銀紙に染みを作っていた。程度の差はあれ、別個の商品が同じ問題を抱えていたわけだ。つまり、生産ミスで一つだけ失敗作が出来上がった訳じゃない。常態的に、この商品には欠点がある。ということになる。

 僕は思考を整理して、じっと坂田を見た。

「言っておくけど、僕はこのガムは好きだ。美味くはないけど」

「はあ、そうですか」

「商品としては欠点があるのは理解した。でも、買えなくなるのは困る」

「問題がある以上、もう入荷できませんね」

「だから、それは困るんだ。でも、べちゃべちゃになるのも困る」

「……それは、つまり?」

「だから念の為、この店からメーカーに連絡して欲しいんだ。これこれこういう問題があって、この商品にはこういう欠点があったので改良を提案すると。出来れば、値段と内容量は据え置きで。欠点を解消した物を出荷して欲しいと」

 ここまで話したところで、ずっと黙っていた宮子さんが口を開く。

「それってどういうこと? 連絡をしたらメーカーは改良してくれるの?」

「まず、しませんね。間違いない」

 坂田はつまらなそうに言い切った。

 僕は「だろうな」と言わんばかり、溜息をひとつ。

「分かってる。でも、念のために連絡は入れてほしいんだ。また食べたいと思うから。メーカーにチャンスをやっても構わないだろう」

「構いませんけど、無駄だと思いますよ」

「分かってる。でも、電話はして欲しいんだ」

「いえ、そうじゃないんです」

 坂田が口を尖らせる。僕は意図がわからなかったので、続く言葉を待った。

「そのガムを出してるメーカーは、前から良い評判がないんです。まともな教育を受けていない外国人を、安い給料で大勢雇って働かせているんだ。そのメーカーの工場ではね、外国人労働者は皆モチベーションが低くて、仕事も適当で欠品や不良品も多いと有名なんですよ。まあ、外国人が全部そうだとは言わないけどね。でも、その工場はそうなんだ。うちの店も、もういい加減、取引をやめようかと思ってたんだよ」

 話しているうちに、坂田の顔に赤みが増してゆき、最後には感情的になって敬語を欠く始末だった。僕としてはその方が話しやすいので構いはしない。

「つまり、それに即した品質と値段だったというわけか。確かに、それは電話をしても無理だろうね」

「でしょう」

「困ったな」

 宮子さんは、まだ、不思議そうな顔をしていた。

「どうしてそんなに困るの? もう、そのガムを買わなければいいでしょう」

 彼女の指摘は至極尤もだ。僕さえ拘りを捨てれば解決する。お釈迦様も、きっと、つまらない拘りは捨てなさいと言うだろう。でも仮に、僕がガムに拘らず二度と買わなかったとして、僕が問題視していることは解決しないのだ。

「いいかい、宮子さん。これは結構難しい話なんだよ。とても想像力がいるんだ」

「想像力? 例えばどんな」

「例えば、このガムのメーカーや工場や、そこで働いている人達は、一言でいえば不誠実だ。だから僕や、その会社の社長なんかが怒って『ちゃんとしなさい、真面目に働きなさい、誠実にしなさい』って叫んだとするね」

「うん」

「でも、それは無駄なことなんだよ。だって人間はそういう物なんだから。例えば、蟻がいるね。蟻はよく働き者だといわれるけど、実際には、働き者の蟻は全体の三割程度しかいないんだよ。人間も同じさ。何をどう言っても、真面目に働くのは三割ぐらいで、残りの七割は割とサボりがちだったり真面目にやっていなかったりする」

「それなら解るわ。でも、それならどうして無駄なことをするの? あなたの主張は、無駄だって自分でも言ってるじゃない」

「そうなんだよ。でも、それだと問題が解決しないんだよね」

「何を問題視しているか、解らないわ」

「考えてごらん。その工場で働いている外国人達は、多分、間違いなく貧しい。工場経営者もそうだろうし、ガムのメーカーの社員や経営者も裕福とはいえないだろう。多分、この店だって大して儲かってはいない。一方で、僕たちも裕福じゃない」

「そうね。そうだけど、何が問題なの?」

「僕達は、助け合わなくても良いのか?」

 この問いに、宮子さんはハッとした表情を浮かべ、言葉を失った。

「落ち込まなくていいんだよ。僕だって、宮子さんが正しいってことぐらい解ってるんだから」

 気がつくと、店長の坂田が席を外していた。彼は、紙コップのコーヒーを、静かに僕達へと差し出した。

「どうぞ」

 と、坂田が再び坂口がパイプ椅子に腰を下ろす。気が利く男だとは思えないから、僕の話に興味でも持ったのだろうか。

 僕は、コーヒーを飲みがてら、話を続ける。

「宮子さんは正しいよ。世の中には問題がいっぱいあって、でも、どうにもならなかったりする。例えば、仮に工場が提案を聞いたとして、ガムに改良を施したとするね」

「うん」

「もし、この店がその商品を再び入荷したとする。その場合、コーヒーガムは、百円で買えるか?」

「いや。無理だろうな」

 坂田が答える。

「その通り。無理だ。ガムの欠点を改良するとなると、コストがかかる。ガムの素材に手を加えて改良すれば、それなりの値段で売る必要があるだろう。銀紙とか包装に手を加える場合にも、新しくて良い紙を使わなきゃならないからその分値段がかかる。じゃあ、値段の上がったコーヒーガムが店頭に並んだとして、皆がその商品を買うか?」

「いいや、買わないね」

「そう。買わない。僕がコーヒーガムを買うのは、量が多くて安かったからだ。少しぐらい不味くても競争力があったんだよ。でも、値段を上げた場合、他のメーカーのガムと値段に差がなくなる。そうなった場合、宮子さんはどっちのガムを買う?」

「それは、他のメーカーのガムを買うわ。量も値段も一緒なら、美味しい方が良いから」

「だろう。つまり、このガムのメーカーは、ガムを売りたかったら値段を据え置きにして欠点を克服するしかないんだ。でも、出来ないし、やらない。売れなければガムの生産をやめるしかないけど、ガムしか作っていないメーカーだったら潰れるしかない。こういうのは、僕的には、ふるいにかかるって表現してるんだ。ふるいにかかる者は、誰かにふるいにかけられるんじゃない。自分で自分をふるいにかけ、自分の問題で勝手に落ちて行ってしまう。僕やこの店が提案をしたとしても耳を貸さない。どうしてだと思う?」

「それは、難しくってわからないわ」

「人間の問題なんだよ。人間の弱点といってもいい。例えば、機械には仕様というものがあるね。仕様に反することは出来ない。人間にも仕様があって、基本的に仕様に反することは出来ない。膝が前に曲がらないのとか、肘が後ろには曲がらなかったりだとか、呼吸しなければ死んでしまったりだとか。人間の心にも仕様があって、馬鹿にされたら怒るし、好きな人に嫌われたら悲しかったり、機械的に、自動的に動く」

「言われてみればそうかもね。それで?」

「でもね、心の仕様だけは、頑張れば克服できる場合があるんだよ。馬鹿にされても怒らないように我慢できるし、自分の心に反する行動を選ぶ事も出来る。だから、心に反して法律や信念に従うことは、不自然なんだ」

「でも、それって、自然に反してるなら悪いことなんじゃないの?」

「でも、ここでいう不自然って、そんなに悪いことかな?」

「悪いことだと思うわ」

「……本当に?」

「私は心に従ってるわよ。あなたを愛しているもの」

「ううん、そういうのとは少し違うんだけどな。ごめん、難しかったね」

 坂田は、半分、呆れたような様子で僕たちのやりとりを見ていた。

「言っておくけど、僕は、宗教家とかじゃないぞ」

 念のため、坂田に釘を刺しておく。

「あ、はい。そうですか」

 もう、彼は、僕らに対する興味は失っている風だった。

「つまり、何が言いたいかというと、世の中には克服しないと解決出来ない問題があるってことだよ。人が何かを克服する確率はとても低いけど、やらなきゃふるいにかかるって場合はやるしかないんだ。僕は、ふるいにかかった者に対して一言投げかけたいだけなんだ。大抵は無駄だけどね。でも、言わなかったら何もしなかった事になる。たった一言いうくらい構わないだろ?」

 宮子さんは、やっと理解してくすくす笑いだす。僕の面倒くささを再確認したらしい。

「さて、宮子さん。さっき宮子さんは、心に従ってると言ったね。僕もあるものに従ってメーカーに言葉を投げかける訳だけど、それは宮子さんがさっき言った愛とは、少し違うんだ。なんだと思う?」

 この問いに、宮子さんは答えられなかった。でも、真剣な眼差しで、ちゃんと考えようとしてくれていた。

「はは、難しかったね」

 話はそこまでだった。

「長々と話して悪かったね。でも、一応は連絡頼むよ」

 僕は言い残し、坂田からクリーニング代を受け取って百円ショップを後にした。


 帰りの車内で気がついた。台無しになったガム二つの、替わりを貰い忘れていた。まあ、仕方がない。僕は店の中で偉そうに色々なことを語ったが、僕自身、僕の仕様を知りつくしている訳じゃない。さっき宮子さんには語らなかったが、僕が従ったのは、信念なるものである。そして信念は、法に似て不自然だ。自分の心とぶつかり合って、心と相反する行動をさせる。不自然が本当に悪かどうかは、分かる人が考えてみれば良い。僕にだって解らないことはあるのだ。まして善悪なんてものは特に解らない。愛なんてものも。でも、愛があるかどうかを計る方法はある。

 あるクイズをやってみれば良い。

 僕は、そのクイズを〝神のクイズ、悪魔のクイズ〟と呼んでいた。


「ねえ、宮子さん。クイズをしないか?」

 ハンドルを握ったまま、宮子さんに言う。宮子さんは、目を輝かせて頷いた。

「これは結構有名なクイズなんだ。実際に居た連続殺人犯が作ったクイズだから。もし、知っていたら途中でそう言ってね」

「うん」

「じゃあ、いくよ。ある所に、ある未亡人がいます。夫を数日前に事故で亡くして、子供が一人います。夫の葬式の日に、ある刑事がやって来ました。刑事は夫の死を悲しんで、未亡人にもとても優しくしてくれました。未亡人はその刑事のことがとても好きになりました。好きで好きで仕方ありません。未亡人は、その男に会いたくて、たまらない気持ちになりました。さて、彼女はどうしたでしょう?」

 宮子さんは、散々頭を捻り、色々な答えを出しはしたが、どれも不正解だった。

 このクイズは、とても有名なクイズだ。実在した殺人犯が作ったクイズであり、サイコパスを割り出す際に使われることがあるらしい。つまり、サイコパスじゃない人間は答えられなくて当然なのだ。正解を出したら、その人はサイコパスである可能性が高い。

 ちなみに、クイズの答えはこうだ。

「正解は、自分の子供を殺す。でした」

「はあ? なんで。どうしてそうなるの」

 宮子さんは驚きとともに、抗議の声を上げる。

「子供が死んだら、また刑事が葬式に来てくれるだろう」

「そんなの反則だよ。解るわけがないじゃない」

「あはは。解らなくて良かったよ。正解してたら、宮子さんはサイコパスだって事になっちゃうからね。実は、僕もこのクイズの答えが解らなかったんだ。でも、心に当たり前の良心や愛がない人は、そういう風に考えちゃうんだってさ」

「……怖い」

「そうだね。じゃあ、今度は、愛があるかどうか、試すかい?」

「そういうクイズもあるの?」

「勿論。ただし、本当に愛がないと解けない問題だよ。人間は皆、自分には深い愛があると思いたがるものだから、この問題が解けなかったら傷ついちゃうかもしれないよ?」

「そう言われると怖いけど、挑戦しない訳にはいかないわね」

 と、宮子さんの瞳にやる気が滲む。


 これから出すクイズは、ドイツの、とある小学校の国語のテストに出た問題である。ある短編小説の解釈に関する問題なのだそうだ。このテストついては、関西のテレビでも紹介された事があるそうだ。だから、僕以外にも知っている人がいるかもしれない。ただし、そのテレビ番組では答えは出なかったそうだ。ある、大御所の小説家が問題に挑戦したが、彼には答えが解らなかった。

『人には。誤解する自由がありますからね』

 とか言ってごまかしていたらしい。

 僕は少々複雑な気持ちだった。答えは明確にある。正直、その小説家のごまかしは的を当ていなかった。皆がエリートと認め、社会的にも地位の高い人物が、ドイツの小学生が解ける問題を答えられなかったのだ。まあ、誰だって調子が良かったり悪かったりもあるだろうから、答えられないこともあるだろう。それは仕方がないことだ。でも、つまらないごまかしなどしてほしくはなかった。そのことを思うと、この暗い車道の先に、暗く重い雲がかかって霞んでいるような、そんな気分になる。

 ちなみに、僕は短編の内容を殆ど忘れてしまっている。だから、これから出す問題は僕の改編が加えられたうろ覚えの問題だ。台詞とか内容とか順序とかは、滅茶苦茶である。物語としては最早別物なのだが、クイズとしての本質は外していないので、そこは安心して集中して貰って構わない。

 と、最後の注意点を説明すると、宮子さんは急かすように二回、頷いた。

「じゃあ、いくよ。これは、ドイツの小学校のテストで実際に出された問題だよ」

「うん」

「小学生の男の子がいます。その子は、お父さんとお母さん、三人で仲良く生活しています。お父さんは働き者で、毎日朝早くスーツ姿で出かけて行きます。お母さんは口うるさくて感情的だけど、良いお母さんです。男の子が小学校に通っていると、ある時、変な噂を耳にしました。友達が、男の子の父親は失業者だと言うのです。男の子は信じられません。だから友達と言い争いになりました。でも友達は言います。『昨日、お前のお父さんを図書館で見たぞ』と。詳しく訊くと、お父さんは、毎日のように図書館に通っているというのです。そこで、男の子は授業を抜け出して図書館へと向かいました。図書館には、友達が言った通りお父さんがいました。声をかけると、お父さんは随分と決まり悪そうにしています。残念なことに、お父さんは本当に失業者でした。会社を首になったことをお母さんに言い出せず、仕事に行くと言っては、一人、図書館に通っていたのです」

 話すうちに、宮子さんの表情が固くなっていった。無理もない。彼女の父親もまた、長いこと失業者をしていたことがあるのだ。こんな話をして、無神経だったかもしれない──。

「続きは?」

 悔やむ間もなく、宮子さんが続きをせがむ。僕は再び口を開く。

「図書館からの帰り道、二人は口数も少なくとぼとぼ歩きました。ふいに、お父さんは言います。『お母さんが知ったら、悲しむだろうな』それを聴いて、男の子はお父さんに言います。『お母さんが、図書館が好きか聞いてみる?』。物語はここで終わります」

「……それから?」

「さて問題です。詰まるところ、男の子はお父さんになんと言っていますか?」

 帰り道の車内、宮子さんはずっと黙って考え込んでいた。それは長い長い、思考の迷宮への入り口だった。


 アパートに帰ってから、僕は手早く料理を済ませ、奥さんと二人でゆっくり食事をした。食事中、宮子さんはずっと考え込んでいた。さばの煮物に箸を付けても、なめこ入りの味噌汁を飲んでも、心ここに在らずといったような、ぽぅっとした顔をしている。でも、いくら時間を与えても構わない思った。宮子さんにだけは、必ず正解を出してほしかったのだ。


 夜、布団を敷いて、僕たちは並んで横になった。そして明かりを消して暫くした時に、宮子さんがやっと口を開く。

「答えが解ったわ」

 その声に、僕は少しだけ、ホッとして息を吐き出した。

「難しかった?」

「簡単だったわ」

「偉い小説家でも、結局わからなかった問題だよ?」

「知識の量はあまり問題じゃない。そうでしょ?」

「ああ。子供でもわかる、心の問題だからね。で、答えは?」

 僕の問いかけに答えるように、衣摺れの音がする。宮子さんの真剣な眼差しが、真っ直ぐ僕に向けられていた。

「じゃあ、答えを言うわね。男の子は、お父さんに『愛してる』って言ったのよ」

 それを聴いて、僕の眼に熱いものが込み上げてきた。薄く視界を滲み、宮子さんの顔も滲む。泣きこそしなかったが、これまでの色々なことが報われたような、そんな温かな気持ちが胸を満たしていた。

「その心は?」

「子供っていうのはね、口下手なのよ。言いたいことがあっても上手く言えない。子供だからって素直な訳でもない。だから、この子は完全に失敗しちゃってるのね。悪い冗談みたいな事を言っちゃった。口ではね。でも、子供は単にお父さんに話しかけたかっただけなのよ。少しでも元気になってほしくて、笑ってほしくて。ただただ話しかけたかった。だから言葉は何でもよかったの。でも、世界はそういう行為をこそ、愛っていうのよ」

 暗闇の中で、宮子さんは正解を導き出したのだ。


 殺人犯が考えたクイズに名を付けるなら、〝悪魔のクイズ〟が妥当だろう。解答者に良心がなかったり、共感能力が欠けていたり、サイコパスだったりしないと答えられない。どれだけIQが高く、頭が良くても答えられないのだ。一方、宮子さんが解いた問題は〝神のクイズ〟だ。人の心に寄り添ったり、尊重する心がなければ、どんなに頭が良くても解けない。深い愛がなければ解けない謎というのも、確かにあるのだ。

 ふいに、鼻を啜る音がする。宮子さんは泣いていた。

「どうして泣いてるの?」

 問いかけると、宮子さんは静かに僕の布団に潜り込んできた。

「クイズの正解はすぐに分かったの。でも確信がなかった。だからずっと考えてたの」

「そういえば、答えは簡単だと言ってたね。じゃあ、何を考えてたのかな?」

「お父さんのこと」

 それを聞いて、胸の奥がチクリと痛む。宮子さんの父親は、もう七年も前に他界している。僕と宮子さんが出会う前のことだ。けど、その父親のことは、彼女から何度か聞かされていた。宮子さんは父親とはあまり馬が合わず、いつも喧嘩ばかりで、最後に言葉を交わした時も、くだらないことで言い争って憎まれ口を叩いたらしい。それを後悔している、という話は聞いていないので、余程仲が悪かったのかもしれない。

「私ね、ずっとお父さんのことが嫌いだと思ってた。酷い言葉もいっぱい投げつけて傷つけた。お父さんもね」

「うん」

「でもね、さっきのクイズで、男の子の気持ちがわかっちゃったの。それで気がついた。ああ、私も同じだった。同じような失敗を繰り返してたんだって。いつも上手く言えなくて失敗ばかりだったけど、本当は、お父さんが大好きだったんだって」

 言い終わるなり、宮子さんは顔を歪ませて嗚咽する。止めどなく溢れる涙を、僕は指先で拭って小柄な肩を抱きしめる。

「宮子さん」

「なあに?」

「坂田さんが、図書館が好きか聞いてみる?」

 僕は囁くように言う。やがて、宮子さんはくすくす笑い出した。

「ねえ」宮子さんがポツリと言う。

「うん」僕もポツリと返す。

「愛に気づかせてくれてありがとう」

 泣きながら微笑する鼻先に、僕は口づけを落とす。宮子さんも呼応して、口づけを返す。そうして僕は彼女の寝巻きを引っ剥がし、確かにここにある温もりを再確認する。この夜のありふれた出来事を、きっと、僕たちはずっと忘れないだろう。


 数日後、僕たちは、また、あの百円ショップへ行ってみた。結論から言うと、コーヒーガムはもう置かれていなかった。二度と入荷もされなかった。思うに、あの店長はメーカーに提案などしていない。電話をかけるという約束も、果たしてはいないだろう。それはそれで見えていた事ではあるのだが、この世界からまた少し、かけがえのない何かが微量に失われたような、そんな気がしていた。


 さて、ここで問題がある。

 コーヒーガムのメーカーは、ある程度のダメージを受けたことになる。あの百円ショップが大口の取引先なのか、小口の取引先だったのかは解らないし、損害の程度も予想できない。でも、もしかしたら社員が首になったかもしれないし、メーカーが潰れたかもしれない。工場だってどうなったか解らない。外国人の工員が首になったかもしれないし、何事もなく働いているかもしれない。でも、程度はどうあれ間違いなく、ダメージはあっただろう。そして誰かが泣きをみた場合、その責任は誰にあるだろう。答えは四択だ。

 まず、百円ショップに抗議した僕たちが悪かったのか? 僕らが我慢さえすれば、何事もなかったかもしれない。

 次に、坂田店長が悪かったのか? 彼がちゃんと提案したら、メーカーが対応したかもしれない。

 それとも、メーカーや、工場が悪かったのか? 品質が悪いのは自業自得だし、経営者のモラルにも原因があるかもしれない。

 それとも、貧という構造を抱えるこの社会そのものが悪かったのか? 誰もがある程度の物を買えれば、ガムぐらいで騒がなくて済む。

 さて、あなたはこの四択クイズにどんな答えを出すだろう。もしかしたら、四択には当て嵌まらない第五の答えを出すかもしれない。だが、どんな答えを出したとしても、あなたはもう、この問題とは無関係ではない。


 僕としては、愛ある答えを期待する。









              おしまい。



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宮村夫婦の四択クイズ 真田宗治 @bokusatukun

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