第5話 終章

 音楽教室から、パスワードが配られ、限定公開された動画は、結構本格的だった。

 『愛の挨拶』は、もともとバイオリンとピアノのために書かれたらしく、ピアノの伴奏の上に、バイオリンが乗っかり、ピアノ、オーボエ、サックス、フルートなどの金管楽器が続いて行く。チェロがまたメロディーを弾いて、ピアノ、金管楽器が後に続く。ピアノの伴奏が聞こえなくなったと思ったら、ウクレレの合奏が始まった。何か、ほあん、ほあんとした感じが別の曲みたいに聞えて不思議な感じがするところもあったけど、これはこれで良い感じだった。ギターは、エレキではなく、アコースティックギターを使用していたけど。

 動画の最後、私達、生徒の演奏の後には、講師の演奏が用意されており、発表会のお楽しみみたいで嬉しかった。バイオリンとピアノ、ピアノソロ、小編成のオーケストラをイメージしたような、フルート、クラリネット、サックス、バイオリン、チェロの編成、ウクレレソロ、ギターソロ、ピアノ連弾。他にも、サックスソロなんかも聴いてみたかったけど、この教室で教えている楽器だけで、これだけのことが出来るのはすごいと思ったし、やはり、先生達の演奏はレベルが違っていて、動画で聴くだけでも気分を高揚させた。

 今回の企画は、無料ではなく、参加費を取られたけど、十分その価値はあったと思う。楽器と会場を借りなければならないピアノの発表会に比べれば、遥かに安かったと思うし。ほんのひとときでも、コロナに沈む心を晴れやかにしてくれた。

 私は、withコロナの軽い響きは好きではないけど、この、いつ終わるか分からないコロナ禍を乗り切るためには、友達でも、恋人でも、ペットでも、ピアノでも何でもいいから、公私ともに、エドガーを支えたと言われているキャロライン・アリス・ロバーツのような存在が必要だと思うし、音楽は不要ではないけど、不急か?と問われれば、曖昧にしか答えられないけど、この動画を見て、無性にピアノが弾きたくなった。

 (今日は、もう遅いので、無理だけど。)

 大学生だった頃、マンガ家を目指していた友達が、

「人は、パンのみで生きるにあらず。だから、エンタメが必要とされる」

 とよく言ってたけど、こうして、コロナで自粛を求められていると、息が詰まりそうになることがよくある。今ほど、その言葉の重みを感じたことはなかったように思う。

 忙しかったり、お金がなかったりして、どこへでも自由に行けたわけでもないけど。

 コロナ以前も、ままならないことはいっぱいあったけど。

 私は、生まれた性が女だというだけで、子どもの時から親に厳しく門限を決められていたし、恋人が出来ても、「お泊まりは絶対ダメ」だと言われていた。

 小学校の6年間は長すぎて、4年でいいと思っていたし、空を飛ぶ鳥の気持ちも分からずに、いつも教室から抜け出したかった。

 人類の歴史は、感染症との戦いであったらしいし、エボラ出血熱や、エイズや、O157なんかもあった。鳥インフルエンザも、SARSも、単に私が身近に感じられなかっただけ。

 結核は撲滅されていなかったし、ハンセン病国家賠償訴訟で原告が勝訴してもハンセン病問題はまだ続いている。

 ――コロナのように、自分の身に降りかかって来なかっただけだ。

 早く、レッスン室の窓を閉めて、ピアノを弾きたいと思う。私の音なんて、誰も聴いてなかったとしても、防音カーテンだけじゃ足りない、しっかりレッスン室に守られて、ピアノが弾きたい。

 ノロウィルスが流行った時に、防音室の扉を少し開けていたのも嫌だったけど、今回はその比じゃない。

 それが叶うのはいつの日か、到底、私には知りようがないけど。

 『愛の挨拶』の優しいメロディーに包まれて、今夜は眠るとしよう。

 一晩寝たところで、コロナは去ってくれないし、苦労しつつも、キャロラインというパートナーに恵まれ、『愛の挨拶』がヒットしたエルガーのように、何か思わぬ幸運に恵まれるわけでもないけど。

 いい音楽を聴いた後の高揚感に包まれて眠るのは最高だし、貴重だった。

 コロナのことを思い出すと何とも言えない気持ちになるけど、天然痘、ペスト、梅毒、スペイン風邪の世界的大流行や、19世紀に世界各地に感染が広がり、日本では、「コロリ」と恐れられたコレラの流行もあった。そういや、チフスなんかもあった。うちには猫がいるので、映画館が感染予防に努めていても、怖くて行けないけど。『鬼滅の刃 無限列車』も大ヒットしたし、正直、よく分からない。みんな、「自分が乗る飛行機は落ちない」と無意識に思い込んでいるだけかも知れないけど。

「学校を休みにしても、バイトに行ってたら意味ないですよね」

 と言われ、私がよく分からない顔をしていると、

「お小遣いを稼がないといけないから」

 と、音楽教室の受付の田中さんは、大学生の息子さんのことを言ってたけど、いつまでも、経済を止めているわけにはいかないらしく、「本は生活必需品です」と宣言して、大型商業施設にある店舗の営業を再開した大手書店もあった。

 不本意なことに、当分、この生活は続きそうだけど、

「寝よっか、クッちゃん」

 私は、ベッドの上から、ピアノの上で熱心に毛繕いをしている愛猫、クララ・ミケリーナに声をかけると、電気を消した。

 今眠れば、エドガーとキャロラインに会えるかも知れない。もしかしたら、夢の中で、2人の『愛の挨拶』を聴けるかも知れないなどと思いながら、キャロラインがピアノの前に座り、エドガーがバイオリンを弾いている姿を思い浮かべてみた。

 それだけで、十分幸せな気持ちになれる私は、我ながら単純だな……と思いつつ、下手でも、やはり、素敵な曲は自分で弾いてみたいと思った。

 先生と、『愛の挨拶』を連弾することになったのは、楽譜の最後の方に載っていたからだけど、今度は、ピアノ独奏版を弾いてみたいと思った。

 ぷりんと楽譜で、初級からあるみたいだし、今度先生と相談してみよっかな?

 出来れば原曲を弾いてみたいけど、原曲は中級~上級みたいだし、またアレンジか……。

 少し残念に思わないわけではなかったけど、今は、弾けるかも知れないという可能性の方が嬉しかった。

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