これ今月の分だから

鍍金 紫陽花(めっき あじさい)

第1話

 ジュースを横に置いて、マスクを口に戻す。人差し指がマスクの外側に当たってしまったから、2枚の紙ナプキンで拭った。


「母ちゃんってワクチン打ったの?」

「ねえ、注射を打ったら発電するらしいよ」


 兄はスーツの胸ポケットからハイライトを出した。タバコを口に加えて、ライターを付ける。

 親指で撫でる仕草に懐かしさを覚えた。兄はストレスを感じたら煙草や動きで距離を取りたがる兄弟部屋の灰皿は誰も使わなくなったから、茶色の水が中に溜まっていた。


「まずは流れを読んでくれないか? 母ちゃんはワクチンを打った? どうなんだ」

「そんな怒らないでよ。兄ちゃんの言葉は難しい」


 まだ灰の付いていない煙草を指で揺する。トントンと、小さなちりが火をかかえて落ちた。


「そんなんだから仕事が続かないんだよ。康太、お前は人の話を少しでも聞くべきだ」

「仕事の話はしてないだろ。だって、俺は鬱なんだ」

「何を言ってる?」


 俺はスマホからブラウザを開いた。女性の甲高い声がスマホの音量を最大で流れる。慌てて指でスライドして、ポルノ動画を消した。履歴から診断テストをすくい上げ、テーブルに置く。照明が自動で明かりをました。


「これの結果で分かったよ。鬱なんだ。なんもやる気起きねえもん」


 スマホを指で近づいている。文字を目で追っていた。


「診断テストの結果? お前は物事を都合よくとらえすぎる」


 いいか、と声掛けてきた。兄はスマホを俺に押し返す。噎せ返る匂いがマスク越しでも伝わってきた。


「お前は努力をしてない。鬱だって言うなら、その振る舞いをしてみろ。俺の会社に働いている人もいるが、お前はまだマシだよ」


 店員が兄の背中を睨んで通過した。自分の体験を語るのに悦に浸るから、向けられた批判に気づいていない。


「それは差別だよ。それじゃ、鬱は振る舞いだって断定してないか。そして、薄らに見下してるよね。様々な考えに適切な対応をするべきだ」

「社会に適切な対応できないくせに、立派な口車だ」


 はぐらかすために侮辱してきた。周囲に目を向けてみる。年寄りのふたりがコロナワクチンのデマを広めていた。子供が鬼滅のマスクを顎に付けて、廊下を走る。


「お前は暇な時間を使って高尚な考えに到達したらしい。で、金になったか?」

「でも、仕事に変えてる人はいるよ」

「お前は鬱だからできないんだろ。お前が病気の間に友達は先に進むんだ。お前の同級生は何してる?」


 この流れは俺を不快にさせた。夜になれば現実が責めたててくる。なのに、兄はわざわざファミレスで教えてきた。このままでは兄の思いどおりに進む。喧嘩腰になり、力でも兄に負ける。入店禁止が増えるだけだ。

 母のためにも、目的は達成したい。


「兄の嫁の親は打った?」

「予約が取れていない。何ヶ月か先になるだろうな。それに、緊急事態宣言で実家に帰れないらしい。大変だな」

「大変って……」

「だって子供を預けられないから自由がないだろ。俺は仕事があるから無理だけど、あいつは自由がないよな。大変だ。まあ、それが仕事のようなもんか」


 兄は仕事を始めて変わった。俺の配慮は兄の通った道から学んだものだ。しかし、残業と飲み会で体と心が作りかえられた。思考は社会に適した形になり、動きも他人を支配する。食わなければ失う。その獰猛さは切り替えさえ無くなり、俺に襲いかかる。でも、感情で抵抗できない。


「兄ちゃんは学生の頃より幸せそうだね」

「ああ。楽しいよ。子供も可愛いしな」


 皮肉が全く伝わってなかった。なにか衝動的に壊したくなって、周りの話題から盗むことにする。


「でも、兄の嫁の親が5Gに接続されたら大変だね」

「お前、デマが好きだな」


 疎い兄でも知っていた。今世間をさわがせるデマは、個人の判断基準を簡単に奪っていく。


「俺が知ってるのも詳しくないけど、ひとつ教えるね」


 ワクチンやコロナの陰謀を兄にひとつずつ見せた。指で文字をなぞって、文字を大きくする。


「さっき言ったような事だけど、5Gに接続されてペンタゴンに監視されるんだ。製薬会社はアメリカの差し金で、使える人間を選別していくんだよ。使えないやつはワクチンの摂取口に電波が届いて考えを奪われる。言われたことしか出来ない働き者になって━━━」


 面白おかしく話した。最近の趣味は過激な人たちの観察だ。彼らは自分自身を奪われるのに怯えているが、既に陰謀に頭を奪われているじゃないか。

 その滑稽さを友達に教える。彼らは働いて忙しいと思われるが、冗談には付き合ってくれた。だって、ワクチンがWiFiの代わりになるわけない。コロナを解決するために努力された結晶だ。都合よく解釈するなら、俺だってネタにしてやる。


「━━━兄ちゃんもおかしいと思わない?」


 ちらと顔色を伺った。肩を揺すってくれる姿を想像する。しかし、本物の兄は口に手をおさえ、物思いにふけた。


「面白くなかったの?」

「コロナには死人も出てるわけだ」


 スマホをポケットに戻した。丸まった紙ナプキンを指ではじいて、レシート入れまで届く。


「あーもう、はいはい」

「コロナを笑いのネタにするのはやめろ。友達にはウケるかもしれないが、全てに通じるわけじゃない。皆にウケるからってコロナをネタにするのは、お前が怪我するだけだ」


 煙草を灰皿に押し付け、火を押しつぶす。煙が少しずつ空気と同化して無色になる。


「それに、コロナのデマを信じる人は効かない」

「もうごめんって」

「陰謀を信じる人に必要なのは正論を押し付けることじゃない。聞き流すことじゃない。デマを増やす人より、デマを笑う人より、身近な大切な人が陥らないように対話することだ」


 その時、兄のカバンから携帯の音がした。獲物におわれる兎のように、手が素早く、それを取りだした。俺に目もくれず、マスクを付ける。


「はいもしもしご無沙汰しております。枚下です。今は大丈夫です。わざわざ連絡ありがとうございます。はい、はい」


 携帯を肩で持ちながら、財布を開封する。5万を指でつまんだら、俺に投げた。


「これ今月の分だから」


 そう言うと席から立つ。


「いえ、そういうわけじゃありません。申し訳ございません。配慮が足りておらず、申し訳ないです。いえいえ、そんなことは……」


 金を捨てて立ち去った。レシートをとったら指で伸ばす。


「金は大切にしろよな」


 彼は3年前に家を出た。父が返ってこなくなった矢先だ。自分の必要な家具だけを持っていき、母と俺を置いていく。母は神経過敏なところがあり、家はドブ川のように淀んでいた。。『みんな私を捨てていくんだ』と母はよく俺に慰めを求めてくる。子供と言うより相談係だ。そう思うと、適材適所かもしれない。俺は仕事が出来なくて時間があると思われている。兄はそれにつけ込んで、金を月一で手渡してくる。口座振込は必ずしない。

 そして、兄は社会に馴染みながら人脈を広げ、結婚した。結婚式の兄はほっとした様子だった。昔と全然変わってしまった。


「ちょっと冗談言っただけじゃん。つまらない兄だな。俺にストレスあててんじゃねーよ!」


 わざとコップをこぼしてみた。水が傾いた口から下に垂れていく。水玉ができて、綺麗だ。袖が濡れて、皮膚が冷たくなる。店員が来る前に意識をもどし、会計を急ぐ。



 帰りにコンビニ立寄って、今日の晩御飯を購入した。近くのスーパーの安売りが頭をよぎる。疲れが勘を鈍らせたが、そのまま足を動かした。自宅が見えてきて、深呼吸する。


「はぁ……」


 入口に立ちどまり、決心する。扉を開け、玄関から入った。


「ただいま」


 玄関には同じ新聞が散乱している。足に力を込めて転ばないようにした。内容は全て一緒で、コロナワクチンが人を不妊にするというもの。俺は陰謀の波をかき分けながら、リビングまでたどり着いた。

 リビングの食卓付近で、母はパソコンにかじりついていた。


「おかえり」

「ご飯買ってきたよ」

「そこ置いてて」


 母の後ろ髪に白い線が目立っている。背中は骨ばっており、健康からかけはなれていた。


「ねえ、康太。ワクチンは打ったらダメだよ」

「そうなの?」

「ワクチンには毒物が入っていて血が頭から出て死ぬらしいよ。医者は打つ人を選んでアレルギーを与えてるんだって。ほら、医者にはカルテがあるじゃない。それで人を選択してるのよ。そうはいかない。だって私には味方がいるから、腐った政府に負けたりしない」

「また、勉強中なの?」


 パソコンの画面は青い鳥が写っていた。母親はアカウント運用とネットサーフィンを勉強しているとかたくなに表現する。


「康太も勉強しなさい」

「うん。またやるね」


 俺は携帯を取りだし、新聞の1枚を撮影した。にやけ顔を抑えきれず、頬をそのままにする。友達のアカウントに移動して、写真を送った。


『またやべえの見つけたわ』

『なに』


 写真の既読だけ遅れた。2分後に返信が来る。


『わるい。前みたいに付き合ってられない。休業のせいで仕事辞めないといけないしさ。そこ分かってくれるよな?』

『付き合い悪ぃな』

『お前に合わせるの疲れる。そんなデマも好きじゃねえし。ていうか、もう写真送ってくるのやめてくれない? 一日ずっとはだるい』

『はいはい。もういいよ』

『またコロナあけたら遊ぼうぜ』


 前みたいには行かない。時間を残酷に感じとった。世界で1人な気がして死を強く意識する。


「ごほっ」


 咳が口をついてでた。洗面台に行きうがい薬とアルコールに手を伸ばす。

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