試作11号「天才がいた。ただそこに」
話はフィッシュ・アンド・チップスを堪能した次の日になる。
「うぅ……まさか……今日とは……薄々気配はしていたが……鎮痛剤、作るのを後回しにしていたのが仇になった」
ブラックはベッドでうなり声に似た音を口から放っている。
「ひっでえ顔だな大丈夫か?」
「んああ、まぁ、これとは長い付き合いになるからね」
詳しくは言及しないが、ブラックは一過性の……そうだな言うなれば“お嬢様症候群”とでも命名しよう。この症候群は頭痛、腹痛、腰痛、下痢、倦怠感、憂鬱、貧血、吐き気、発熱に苛まれるものだ。症状だけ言えば死にそうな病気のそれだ。
しかし、医者に診せる程のものではない。というかお嬢様症候群に医者は不要なのだ。
「テストはしばらく無理そうだね」
「すまない……私が落ち着くのは明後日か明明後日になるだろう」
「わかった。家事はやっておくよ」
「今日、この日、私は女神に出会ったかもしれない……」
「気持ちはわかるからお互い様だ」
「んああ……うぅ……ふぅ……よろしく頼む。万が一に備えて、できるだけ呼んだら来てくれる位置にいて欲しい……」
「わかったよ」
「すまない……助かる……」
と言うわけで、痛々しいブラックを私は付きっきりで看病することになった。やることは特にない。
部屋で死にかけのブラックをただ傍観している。念のために言っておくと、現状必要な家事を全て終わらせている。
だがしかし、こうもやることがないと、時間の流れいつもの三倍は長く感じる。
睡眠もしっかり取れているし、ここで銃をいじってもうるさいだけだ。
「暇なら……書斎にある本を好きに読むといい……」
そしてブラックの意識はどこか遠くに飛んでいった。今はその方が幸せだろう。
さて本と言っていた。確かに一階の奥に書斎がある。いい暇つぶしになるかもしれない。
早速私は書斎に向い、気になる本を何冊かチョイスしブラックの部屋に持って行った。
本は持ってきた。うん、確かに本だ。だが娯楽になりそうなものは一切なかった。
やれ化学の本やら謎の図鑑、よくわからない物理学に数学の本などしかない。
何を楽しめというのだ。
と思ったが思いの外『数学』というのが面白い。
いつもやる金勘定とか比率の計算とかと違って、銃の設計図とかをより精度良く書くのに使えそうだ。
持参した定規と鉛筆、コンパスで遊べる。紙についてはブラックが羊皮紙を何枚かくれたのでそれを使っている。遊びで羊皮紙を使わせてくれるあたり太っ腹だ。
しかし面白い。
特に図形の問題だ。三角関数も面白い。円周率の求め方もだ。なんというか謎解きみたいで、答えが必ずあるって言うのが良いところだな。
正七角形は長さが分かる定規が無いと作れないということ以外、今のところ文句は無い。
「これ面白いな……」
これが文字通り、ドはまりという奴だ。家事をやりながら数学の問題を頭の中で思い出して答えを出していた。そしてその答えが合っているか確認の為だけに一瞬だけ本を読んでまた家事に戻るという状態だ。
数学漬けの生活を三日三晩続けた。明くる日も数学、数学と自分でも気持ち悪いくらい数学にのめり込んだ。
「ふう……どうやら峠は超えたか……カメリア色々ありがとう。食事から洗濯まで……カメリア?」
「円周率は3.14159265358979……」
私は完全に寝ぼけていた。
「ん? カメリア、今なんて?」
「だから……円周率は3.14159265358979……」
「おい! その答えをどこで……おい! カメリア!?」
「……はっ! しまった寝てた!」
「おはよう、すまないカメリア、さっきの寝言は?」
ブラックが真剣な表情で問いかける。とうとう私、ブラックの気に障ることをしてしまったのだろうか。
「寝言?」
「円周率だよ」
「あー、いや、ブラックが寝込んでいる間、数学の問題を解いていたんだよ。なかなか楽しかった」
私はそう言って数学の本を閉じる。
「その本は“まだ解かれていない数学”じゃないか、これを解いていたのかい?」
「うん? でもこれ五年前の本だろ?」
「……解いたのか?」
「あー、ひょっとしてブラックまだ読んでなかった? ごめんごめん」
悪いことをしてしまった。買った本を先に読んでしまうのは私も怒ることだ。
「いや……良いんだ……その羊皮紙、見てもいいかな?」
「これ落書きだよ?」
私は問題を解く際にメモとして使った羊皮紙を渡す。
一枚一枚丁寧にブラックは確認する。一体どうしたというのだろうか。
「カメリア……君は何者なんだ?」
「ん? だたのしがない金欠の銃職人だが?」
「そうか……今はこのままでいい。下手な事しない方がいいだろう」
「何を言ってるんだ?」
「いやなんでもない。それより朝食は?」
「……あっ、悪い!」
私は朝食の準備をすっかり忘れて寝過ごしていた。ブラックから羊皮紙を奪い取るとキッチンにダッシュした。
釜戸のたき付けとして羊皮紙を使う。どうせこんな大したこと書いていない紙、燃やしてしまうのがせめてもの供養だ。私は釜戸に羊皮紙をくべて、灰の中にある焼けた炭を近づけて火を付ける。
それから薪を追加して火力を安定させる。
「ちょちょちょちょちょ!! 何をやっとるんだね……あああああああ!」
ブラックが大声を出しながらその場に座り込んでしまった。
「おい、どした? 大丈夫か?」
「そんな……大きな技術発展が……」
「ブラック? 大丈夫か? まだどこか痛むのか?」
ブラックは私の顔を見つめて数秒ジっとして微動だにしなかった。それからため息をつく。
「まぁ……これが良かったのかもしれない」
「だから何のことなんだ?」
「いや……気にしないでくれ、それより朝食だ」
「直ぐに用意する。今日はバゲットとミルクスープだ。ベーコンエッグもつけてな」
ブラックはゆっくりと立ち上がってテーブルに座り朝食を待った。
ミルクの香りがキッチンに広がる。穏やかな日差しが窓から差し込まれ、ブラックが先ほどとは打って変わって嘘みたいに大人しい。
バゲットをたき火で炙り、こんがりと焼き目を付ける。
「できたよ」
カップにミルクスープを注ぎ、バゲットを出す。
それからべーゴンエッグをおまけにつけて朝食が始まった。
「こんなに豪華な朝食は初めてだ。うちの家政婦にならないか?」
「銃職人がいい」
「頑固だな……そこがいいところでもあるのだけどね。さて、今日はいよいよ火薬のテストだ。驚かないでくれよ?」
ブラックは自信満々だ。これは期待できそうだ。
「どんな火薬なんだ?」
「まず手始めといったところでいつも使っている火薬、ブラックパウダーだったかな、あれの改良品だ。従来のものより硝石と硫黄、木炭のバランスを良くしてみたものだ」
「それじゃあフリントロック式から脱却できないな」
「確かにその通りだ。だがフリントロック式の性能向上も今は視野に入れた方が良いだろう」
ブラックの意見としては新型銃の開発と平行して従来のフリントロック式を純正進化させて保険とした方がいいと言うことか。確かに一理あり。
「わかった」
「結構だ。もう一つは新規作成した火薬でまだ研究の初期の初期段階の火薬だ。ざっくりいうと硝酸と反応させてエステル化させたグリセリンだ。便宜上ニトログリセリンと呼称しよう」
「ニトログリセリン? エステル化?」
「硝酸と硫酸を混ぜた液体にグリセリンを混ぜたものだ。非常に燃えやすい物質だから使えるはずだ……たぶん」
どうやら前者の改良型ブラックパウダーが本命でニトログリセリンはチャレンジ要素が強いとみた。
「試験が楽しみだ」
「まぁ、急くことも無い。まずは朝食を堪能しようじゃないか」
「それもそうだな」
ミルクスープはコクと野菜の甘みが寝起きの五臓六腑に染み渡るうまさだ。バゲットにベーコンエッグを乗せて齧り付く。これを食べると如何にも朝が来たという感じだ。
簡単な朝食を終えると、食器を洗う。その間にブラックは庭で火薬の実験を行うための準備をしていた。
「こっちは準備オーケー」
「こっちもだよ。さて実験をしようじゃないか」
外にテーブルを設置し、その上にシャーレとテストサンプルの入った瓶がそれぞれ並んでいる。
「まずテーブルに三つのテストサンプルがある。右から従来のブラックパウダー、真ん中は私が最適化したブラックパウダー、そして一番左がニトログリセリンだ。黄色い液体だからこれだけは明らかに違うな」
「おい、液体じゃあ銃にどうやって突っ込むんだよ」
「とりあえず今回は燃焼実験だからそこは度外視で、ニトログリセリンが有効であることが証明されたら結晶化させたりして扱いが容易に出来るように改良する。という感じでいいじゃないか。大丈夫、火薬として取り回しが容易に出来るような考えもある」
「まぁ、そういうことなら……いいか」
「ではでは、早速、実験を始めようじゃないか」
「はいよ。いつでもいいぜ」
テーブルに火の付いた蝋燭を用意し、木の細い棒に引火させてそれを火薬に近づける。激しい火柱と同時に真っ白な煙があたり一面に広がる。
「ケホッ、ケホッ、ああこれは中々どうして目が痛い」
「まぁ、こんなもんだな。いつもの火薬って感じだ」
「じゃあ次、私の自信作だ」
先ほどと同じように木の細い棒でシャーレの中の火薬に火を付ける。
ボッ! っと火が立ち込めて直ぐに消える。先ほどなんら変わらないように見えた。
「ふむ……あまり変わらないな……期待外れだな」
ブラック自身も想像以下の結果で少し不服そうだ。
「次で最後だな」
「うむ、ではでは最後も……点火」
ニトログリセリンに火を近づけた瞬間、一気に火が燃え上がった。明るい炎が一瞬だけ立ち上って、煙はかなり少ない。
煙が少ないのは重要だ。一斉射撃の際、視界が悪くなってしまうのを防いでくれるからだ。
「ニトログリセリンをもう一度燃やしてもいいか?」
「いいとも、どのくらい燃やすのだね?」
「自分でやる」
「わかった。ピペットを渡す」
ブラックからピペットを受け取ると、ニトログリセリンを吸い取る。
一滴をシャーレの上に垂らす。
パァンッ!
「うわっ!? なに!? えっえっ!?」
「なんだ今の!?」
ブラックは私が持っているピペットを取り上げると、ニトログリセリンを吸い取り、自分の胸の高さから地面にニトログリセリンを垂らす。
パァンッ!
先ほどと同じようにニトログリセリンが爆裂した。
「ふふ……アハハハハハハハ」
「アハハハハハハ」
人間って、とてつもない危険に晒されると笑うんだな……。
ニトログリセリンがあまりにあまるほど危険な物質であることがわかり、私とブラックは混乱冷めやらぬうちに笑い出す。
さらには、その勢いのままブラックはニトログリセリンがたっぷりと入った瓶を遠投する。投げた衝撃で爆発しなかったのはブラックの幸運が成した技かもしれない。
凄まじい爆轟が私とブラックの鼓膜をつんざき、地面には大きなくぼみを作った。というかガラスの破片が私の顔面スレスレを通過したような気がしたが、下手しなくても大けがしていたよな。
「……これダメだな、危険すぎる」
ブラックは呟く。瓶投げる前にわかってたじゃねえか。
「いやちょっと待て……これ使えるな。これよりももうちょっと雑に扱える火薬を作ればひょっとしたらいけるかもしれない。もう一度ニトログリセリンを作ってくれないか?」
「ふむ、まだ地下に少しあるから持ってこよう」
ブラックはそう言うと地下に向った。
しかし、先ほどの爆発は強烈だ。威力だけならブラックパウダーを大きく凌駕しているのは間違い無い。
それに何より少し衝撃で爆発する性質、あれが重要だ。
もしも、あの爆発で弾を飛ばすことが出来たら、私が作りたかった理想の銃が作れるかも知れない。
「持ってきたぞ、見ての通りだ。扱いには注意するんだ」
ブラックはゆっくりとニトログリセリンをテーブルに置く。
「ありがとう」
私はシャーレにニトログリセリンを一滴静かに垂らす。
それからシャーレを先ほどの爆心地に放り投げる。
空中に弧を描いてシャーレが地面に激突すると同時にニトログリセリンが爆発、同時に煙が舞い上がった。
「やっぱりいける! これならよっしゃあ! これだ! こいつは使える!」
「これが何だって言うんだ? あとシャーレは意外と高価だぞ?」
「ブラック、これより雑に扱えるものはないか?」
「これより? ふむ……似ている性質か」
「できないか……」
「出来ない? そんなことはない」
「じゃあなんだよ?」
「いや、なに単純なことさ――」
ブラックは心底楽しそうに次の言葉を口にした。
「どれにしようか、悩んでいただけだ――」
そこにいたのは――
ただの天才がいた。それだけだった。
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