落日、宵闇、冬の嵐

3-1 怪談と神話 Ⅰ/わすれてたもの

 瞼の裏を白い光が迸る。ぐるぐる、ぱちぱち。

 爆ぜる銃火マズルファイア。ちかちか、きらきら。ああ、これは。

「この子だけは!!」

 銃火。

「ここはうちの縄張りだぞ!!」

 パン。

「撃たないで!!」

「わかった」

 銃床で殴りつける。

「命だけは」

 パン、

「助けて……」

 パン、

「瑞ちゃ……とどめ……刺し……」

 パン。

 苦しむものに慈悲を。

 狼には死を。狼に飼われる羊も、狼。撃つ、撃つ、撃つ。空虚に開かれた口が、目が、泥人形のように転がる。……これは、正しいのに。ならこの、胃袋を吐き出してしまいたくなる気持ちは……でも、やらなきゃ。無力な誰かの代わりに。誰か、助けて。

「瑞ちゃん、援護!!」

「……死にたくない……しにたく……」

「……」

 僕だって、助けてほしいのに。

 ひたひた、ざばざば。気が付けば足元は血の海。どこまでも暗い、むっとする生臭さに満ちた……。僕は暗闇に手を伸ばす。誰かこの手を掴んで。

 突然に空を眩く切り裂く曵光弾。

「作りましょう。私達と新しい平和を、サホロを。来てくれる?」

 肩に優しく触れる、大きな手。局長おびなたの声。頼もしい援護の曳光弾が、どんどんと空を細切れにして、やがて覆うように。

 ……ニェト。これは、一面に瞬く流星。"あの日'99/7"の空。砕けた月の輝きの中、天を衝く軌道電磁投射砲ケイロンの矢の勇姿。父の最後の仕事、そして墓標。

 背後からさざめき。

 振り向く間もなく生ぬるいものと激突して、転ぶ、呑まれる、塩辛い。……海水。

「……クソっ」

 じゃりじゃりの砂ごと吐き捨てて立ち上がる。視界いっぱいに広がる青い空、白い雲。まばゆい陽光に、雪レフのない濃い木陰。打ち寄せる白い波頭……海。暖かい、懐かしい青。

嗚呼あゝ瑞穂、死んじまうとは情けねぇ」

 黒盾シュヴァルツシルトがにゅいと左手の平に直方体──ちょうど1:4:9の比率だ、我の強いやつめ──の姿で立ち上がる。

「死後の世界なんて信じてるの、ナイーブだなぁ」

「じゃあここは何だ?さっき串刺しになってたぞおまえ」

「嘘でしょ?」

「あれだ、冬霞の首のよくわかんないやつ触りながら……なんだっけか、オープンセサミ?」

「フォールトね……開けてどうすんの……」

「ともかく、そのあと刃がブワァァァっと冬霞から出てきてだな」

「なら走馬灯?僕が死んでこんな楽園リゾートみたいなとこに着くはずが……」

 ずいと遮られる──黒曜石オブシディアンの瞳。

「どうしたんですか、一人でボソボソ。まだ寝てるんですか?」

 冬霞の強烈なデコピンにはっとして周囲を見回す。黒盾シュヴァルツシルトの声が消える。見れば、肌色の、人間の手が当たり前にただそこにある(なんたる傲慢!!)。砂浜は蒼い雪原、海は遥かな氷河の青に、入道雲と思ったものは舞い上がる地吹雪か。

「上げて落とすタイプの地獄かぁ……っ!!」

 瞬く間に冬の嵐に飲み込まれ、鋭い冷気に悶える。肩に燃えるような熱……突き立った氷柱ツララ。痛い、痛い、転げ回って訳もわからず伸べた手が何かを掴んだ。氷のような細い手に、力強く引き起こされる。

 冬霞の瞳が目の前に、甘い息が掛かるほど。繋いだ手が万力のように締め付ける。諦観に満ちた視線が骨にまで染み込んでくる。黒曜石の瞳が、海洋蒼マリンブルーに変わっていく。頬がぐわと裂けて、短剣のような鋭い牙がぎらりと光る。思わず僕はずきずきと痛む手をその首輪に伸べる。

「……フォールト」

「……」

 効果はないようだ。

「……ポマード」

「……」

「……ポマードポマード」

「……何も知らないんですね」

「隠してた癖に。教えてくれなかった」

 憮然とした表情で手を払い除けられ、冬霞が肉食獣のように大口を開ける。身構える間もなく、刃物のような牙が食い込んで骨を突く。

 冬霞は突き立った氷柱にも手をかける──力いっぱい引かれて、服も皮膚も剥ぎ取られる。肌の下に詰め込まれた化物、黒い左手がぐるぐると蠢く。

 痛みで頭の奥が痺れる。不意に、頬を冷たいものが伝う。

「……でもよかった。僕と一緒だったんだね」

 ホルスターに手をかける。

「ならお望み通り、力比べで決めようか」

「……グアアアァァァッ!!」

 肩の骨が砕ける音と同時に、僕は引き金を引いた。無思慮に解き放たれた爆圧がホルスターを、コートを貫いて、冬霞の脇腹を抉り取る。

 冬霞はゆるゆると人の姿に……後輩の姿に戻って崩れ落ちる。僕はホルスターから銃を引き抜いて、今度こそ真正面に構える。照準の先で、ペンキ缶を倒したように鮮やかな赤が広がる。もうもうと命の温度が湯気になって、冷たい空気の中に霧散していく。……海の、匂いがする。

「やっぱり……ですね……?」

 視界がぐしゃぐしゃに歪んで、溢れた涙がばた、ばたりと顎から落ちていく。

 血の塊を吐いて、にたりと冬霞は嗤う。黒い瞳孔がふわりと開いて、奈落の底を映し始める。

「殺してばかりじゃ……。皆……地獄に……」

「……天国だよ。死人に口はない。だから自分の行いに、胸を張れる限り」

「家族にだって……言えないくせに……」

「さもなくば、悪魔だって殺してやる」

 力づくでも、自分を正当化し続ける限り。

 ────フラッシュバック。冷たいコンクリートの上で痙攣する、同い年の少女、見知った顔。震える銃口、立ち上る硝煙。懐かしい後悔。僕は、僕はまた。

「……なんで僕なんだ。どうしてもっとうまく……僕はこれしかできないのに!!」

 だってこの手は。ぬるりと濡れた両手から拳銃が滑り落ちる。血だらけのてのひらから、血と泥にまみれて、凍てついた死者たちがこっちを見ていた。

 埋めたくせに。

 吊るしたくせに。

 後ろめたいくせに。

 手が意に反して、顔へ近づく。視界いっぱいに、目、目、目……。

 ──忘れたくせに。

「あああああああああああ!!ああ


 ◇◇◇


 あああああああああ!!!!!」

 瑞穂ミズホは飛び起きる。ぜえぜえと喉を鳴らし、辺りを見回した。夜の帳の降りた部屋は物音一つなく、降り積もる雪の音さえ聞こえるようだ。

記憶封止メモリシール、解けて……そっか、これ昔の……無理、ほんと……痛った……」

 体のあちこちで熱を持つ痛みに耐えかね、瑞穂はベッドに身を預ける。寝ぼけ眼で外を見、月明かりに照らされて眠る街を、そして遥か彼方、東都とうきょう──かつての首都にそびえる軌道電磁投射砲ケイロンの矢を一瞥した。蜃気楼のように手の届かない、父の墓標……陰気な眺め。

「……忘れないでやってられるかっての」

 市の北部にある生体研究所かかりつけに収容されていることを瑞穂は理解した。手首から伸びるいくつもの点滴、枕元で静かに生命兆候バイタルを記すベッドサイトモニタ……集中治療の痕跡。その右手──エル組織とないまぜになった手が、黒の長手袋を剥ぎ取られて顕になっている。

 瑞穂は左手シルトに、掌の上に直方体モノリスを形成してやる。

「よぉ、眠り姫様」

「は?」

白衣の悪魔ナースどもが言ってたぞ。休み飽きてきたんじゃないか、お前も」

「んなこたないでしょ、大物は倒した」

「冬霞がな……」

「そうだった……どのくらい寝てた?」

「ああ、今共有する」

「それってどういう……」

 がありありと脳裏をよぎる。身を貫く無数の刃。折り重なって倒れる僕と冬霞。突入してくる防護服の仲間たち。搬送、手術。太い針が肉と肌を貫いて……。

「うげえ……これあんたの記憶?」

「感覚まで伝わるのか、わりぃ」

「っていうか縫われてるの、僕の体じゃないか。なんでシルトがこの感覚を?」

「知らねぇよ……」

 運び出され、今の病室に。瑞穂に見舞いに来る人間など……居た。

「局長と……だれ?」

「知らん」

 かろうじて官僚然と判別可能なその人影は、しかし信じられないほど相貌がぼんやりとしている。それこそマネキンに近い。

「こんな事もできるんだ。凄い……けど使えない……」

「無茶言うなよ、お前だって俺たちの見分けつかないだろ……それよりお前、今の夢見たか?」

 その時、音もなくそろそろとドアが開く。そして一人の女が姿を表した。

「冬霞ちゃん……?」

 彼女と出会った日とのデジャヴに後輩の名を呼びかけ、けれど瑞穂は口を噤んだ。

 強い意思を感じさせる目元には、しかし退廃的ダウナーな色素の沈着がなく、眼鏡も掛けていない。髪まで伸びた、月光に艶めく黒髪──これも冬霞のつや消しのボブとまるで違う──、喪に服すような黒服と相まって、象徴イコンとしての重厚さを放っている。機能で着ぶくれする戦闘服とは一線を画するものだ。襟元には議会のバッジ。

「”冬霞ちゃん”、ここしばらく聞いてない響きだわ……!!随分、気に入ってくれてるのね」

 佐渡冬霞とは真逆の印象。しかしそうと知って見れば瓜二つ。官僚の装い。当然、覚えがあった……施政官。市議会の一員、最高権力者。寝惚けた頭に徐々に血が巡っていく。眼前で舞い上がる火の粉を認識して、瑞穂は身を強ばらせつつも姿勢を正し、ついでに頭のてっぺんで大暴れしている"ファック!!権力者"モードを黙らせる。

 その眼前で雪華は、施政者にふさわしい優雅な動作で。瑞穂は、目の前で起こる怪奇現象に硬直した。

「初めまして。わたくし佐渡・Bury・雪華さわたり・ベリー・せっかと申します。妹の冬霞が、お世話になっております」

 瑞穂と同い歳にして市のトップに座する女。……冬霞はその妹。そんな当たり前かつ一度確認したはずの事柄が、どうしようもなく現実として目の前に立っている。つまるところ、瑞穂がなんとか事実に目を瞑って居られたのは、どうにもお偉方と関わり合いにならずに済みそうだ、という楽観あってのことだった。

 素性は隠す、自分が白いエルの形代プロスティシスな事も隠す、結局政治屋も呼び込む……瑞穂は冬霞に怒っていることを3つカウントした時点で、自分の側の落ち度が両手の指を超えそうだったのでひっそり怒りを飲んだ。

 それとして、今しがた夢の中で脇腹を吹っ飛ばしたばかりであることも相まって、瑞穂の頬を大粒の汗がひやりと滑り落ちる。そんな狼狽を気にも留めず、ふわりと頭を上げてはにかむ雪華。何を言うべきか、ぱくぱくと瑞穂の口が開いては閉じる。

「……阿左美・München・瑞穂アザミ・ミュンヘン・ミズホです」

 瑞穂は続けて何を言うべきかすらわからないまま、めまいを感じてベッドに身を委ねた。

「入院中に押しかけてすみませんが、少しお話をしても?」

「ええ、こんな深夜にお疲れでなければ。施政官殿」

「……出直そうかしら?」

「……?……あっ。違うんです、文字通りの意味で」

「……今日は、姉として。難しいかもしれないですけど、ただの”佐渡冬霞の姉”として来てるの。だから……貴女が負傷した戦闘で、あの子とうかに何が起きたのか伺いたいのです、あくまで個人的に」

 瑞穂は知りうる限りの事を話した。明らかな無茶に関わらず、踏みとどまる判断を下した事。とんでもない凡ミスで窮地に陥り、冬霞の力がなければ死んでいたこと。

「責任はにあります」

 瑞穂は意を決して宣言した。名声で釣ろうとした事は伏せたにせよ、どっちにしたってアウトだ。しかし雪華はそれを手で制した。

 それを踏み越える。瑞穂は何を白々しく言うのか、と思われかねない事を、意を決して問う。

「……冬霞は、冬霞はどうなったんですか」

「落ち度はこちらにあります。場所を移して、説明させてもらえませんか」


 ◇◇◇


「……って、移せるわけないのでは?」

「帰りたまえ」

「えっ」

 退院はあっさりと許可された。傷口どころか、縫い跡さえ消えていたからだ。

「抜糸、してないんだが……」

「えっ。取ってくださいよ」

 それらしきものすら見当たらないが。黒盾シュヴァルツシルトがぬるりと手の上で身を起こす。

「口寂しくて食っちまった」

「いいんですかこんなので!?」

 苦痛は精神的なものではないかと老医師は言う。もちろん、続くようならまた来なさいと。

「彼のお陰だろう。大切にしたまえよ、あと自分の体もな。ただでさえ特異体質スペシャルなんだから」

 念押しする目は、深い疲労が刻まれている。前例にない形態の形代プロスティシスである瑞穂は、例え無傷であろうと頭痛の種になるのは想像に難くない。

「あの、先生。白いエルって……」

「雪華くんから聞きたまえ。私にも守秘義務ってものが……」

「あるんですか?守秘義務が」

 老医師はため息を1つ。真っ白の頭髪は歳かストレスか。

「施政官殿を待たせてるぞ。さぁ、行った行った」

 できれば二度と来ないでくれ、という視線に申し訳なさそうな表情を作って、瑞穂は病院を後にした。

 吹き付ける真夜中の突風が身を切るようだ。適温の病棟ですっかり体のなまった瑞穂は、思わずコートの襟をきつく締めた。それでもどこからともなく冷気が吹き込んでくる。よく見れば穴だらけだ。

「……本当に僕、串刺しになったの?」

(なんだ、記憶ないのか?)

「うん……ってなんで頭の中に。直接?」

(急に出来るようになっちまったな。便利だし良いだろ)

 そこへ、冬霞と同型の332i型コンパクト・セダンが短く警笛クラクションを鳴らす。雪華だ。運転席からひらひらと手を振っているのを認める。'黒塗りの高級車'には当たるだろうが、公用車といった趣でもない。……そう、ドライバーズカー。瑞穂はやや躊躇したのち、助手席に滑り込む。4シーターとはいえどのみち2ドアであるし、施政官にハンドルを握らせて後席でふんぞり返るのは躊躇われたからだ。

運転手ドライバーは雇われないんですか」

「ええ。せっかくの移動時間くらい、仕事もできないし一人になれるいい口実だわ。さ、シートベルトを」

 四輪が圧雪をかきわけて軽やかに走り出す。高層建築も疎らで長閑のどかな南部から、ハイテク産業や研究施設の密集する北西部行きの高速道路ハイウェイへと駆け上る。仕事用に台無しにしてしまった冬霞の車とは違う、軽やかな加速。

「阿左美さん。ここからも一個人としてお話させてもらってもいいかしら?……さ、どうぞ」

「瑞穂、でいいですよ。そちらが構わなければ」

 雪華はドリンクホルダーに缶コーヒーを置く。政治家としてではなく、個人としてのもてなしを示すケチくさ……ささやかさ。

「どうも……どういうことです?」

「このままだと本当にただの一個人になるってこと」

「……。……?つまり?」

「クビになるってこと?」

 ごふっ、と瑞穂が吹き出す。コーヒーを口に含んでいたらアウトだった。そんなことを末端組織の下っ端にさらっと言われてどうしろというのか?

「僕が至らないばかりに!?」

 ないない、と雪華は笑う。

「積み重なればいずれ、って程度にね。それで瑞穂さん、口は堅い?」

「まずまず、ですよ。しかしそう訊くってことは、破滅的クリティカルな話ですか?……あ、でもそれなら尚更、うっかり言ってしまうってことは無いでしょうけど」

「……正直なのね」

「馬鹿なだけです」

 ふむ、ふむと雪華は頷いて、さらに続ける。

「あの娘は気に入りました?」

「存外にも、しかしもちろん。政治的な関係は苦手と思いこんでおりましたが、そんな事は気にならなくなりましたよ。向こうもそう思ってるかは知りませんが。ただ……僕よりよほど優秀ですよ、彼女は。それがストレスにならないといいですが」

「それは大丈夫よ。あの子は並大抵の事は自分でどうにかできるから、貴女を要らないと思ったら勝手に行ってしまうわ。さ、着いたわ」

 そこは、古い洋館であった。


 ◇◇◇


「ここは?」

「この街に昔鉱山があったの、知ってるかしら。その坑道の真上にこの洋館は建っているの」

「……産業遺産の見学じゃあないですよね?」

「関係あるのよ、とてもね」

 どう考えても一個人としてじゃない、そう言いかけて瑞穂は口をつぐむ。デスクでキーボードを叩きながら雪華が答える。古びた洋館、その一室。豪奢なビロードのカーテン、装飾の施された頑丈そうな本棚、いくらするのか見当もつかない一枚板のデスク。どれも高価なものであったことが伺えるが、日に焼けたりささくれだったりしている。瑞穂はすぅ、と息を吸い込む。

「このカビ臭さも、隠匿のために?」

「尤もらしいでしょう?」

 なるほど、と答えて瑞穂は思いっきりくしゃみをした。それで埃が舞い上がって、瑞穂はさらにくしゃみをする。

「っえくしょん!!……はー。その話、聞いていいやつなんでええぇっしょい!!」

「そうしなきゃ始まらないんですもの、仕方ないわ……さ、こっちへ」

 雪華は立ち上がると、まずモナ・リザの額縁の裏のスイッチを押し、それから電灯のスイッチを上から順に入・入・切にすると、3つ並んだ本棚の最上段一番右から本を引き抜いてその穴に手を突っ込み、何かを操作する。すると中央の本棚が床下に飲み込まれ、隠し扉が現れた。

「バ、バイオハザード……」

 両開きの扉の中央に、生物汚染を喚起する印が大きく描かれている。傍のリーダーに雪華がIDカードを触れさせると、扉が開く。エレベーター。

「さあさぁ、どうぞ」

 ごう、と扉が重々しく閉じて、地下へと降下していく。……深い。何十mか検討もつかない深度に至り、扉が開く。まず瑞穂の目に入ったのは、白。壁も床も照明も純白に染め抜かれた清浄な通路、そして薬品の匂い。

「ここは、一体?」

「敵を知り、己を知れば百戦危うからず……そういう研究の場です。かつての坑道を再利用して、ね」

「生体研との違いは?」

「言うほどにはないわね。ただR領域レイカ・フィールドが少し強いだけで。あ、要ります?」

 差し出された抵抗剤を遮る。

「自前のやつがありますので」

(瑞穂、気をつけろ。のっぴきならんぞこれは)

(そんなこともあるわな)

(聞けよ……)

 抵抗剤に火を付け、歩を進めながら話す雪華に、瑞穂はそろそろと付いていく。壁には目立たないプラグドアがあり、廊下のところどころにガラスが嵌っている……その向こうに、微かな気配を感じる。電子カーテンか、あるいはハーフミラー……見えない目線を感じた気がして、瑞穂はぶるりと身震いした。

 突き当りで雪華が立ち止まる。そこに通路目一杯に巨大な扉が立ち塞がっている。異様な扉だった。おそらくどの扉も封印の性質を持っているのだろうが、この扉はそれを隠せないほどに強固に封印されている。例えば、電柱ほどの太さもある合金製と思しき閉鎖機構。跳ね橋を天地逆にしたような閉鎖機構……おかしい。瑞穂は違和感をおぼえる。

 多重の封印が取り除かれ、鉄塊のようにぶ厚い扉が手前に跳ね上がって開いていく。動力が喪われれば自重によって封鎖される機構。周到──なふり。瑞穂の脳裏にふと、エルをバターのように両断する冬霞の姿が浮かんだ。切り裂かれる痛みとともに。

「この中に冬霞が?」

「ええ」

「防護服はいらないのです?」

「飾りですからね」

 でしょうね、とうなずく瑞穂に雪華は一拍置いて驚くと、なぜそう思ったかを尋ねる。

「強固に見えますけど、なら大物用の搬入口じゃなくて、人間用の通用口を作るほうが強度は高いはず。しかし僕たちはこの大扉から入った……実のところ、確実に封印されているだけ必要なのでは?私バカなのでわかりませんが……」

 それを聞いて雪華は微笑むと、壁や防護服で防げるものではなし、私達によって汚染されるような繊細なものでもなし。そう言って唇に人差し指を当てた。

「何かあったら死ぬ、と」

「街の中に居てもね。だから"危険ではない"わ。」

 ある種筋の通った帰結に、瑞穂は思わず唸る。

 部屋の中は存外小さく、堅牢さを誇示するように……否、に合金製の内壁が剥き出しになっている。天井を這い回る配管、吊り下げられた水銀灯から投射される冷たい煌めきに、瑞穂は思わず身震いした。その背後で扉が重々しく閉まった。

「あれは?」

 視線で部屋の中心を指しながら、問うた。エキゾチック物質対応の生体培養槽、バイタルモニタ、鈴なりに吊り下げられた大量の薬液の袋。愚問、大愚問である。しかし瑞穂にとっての冬霞とは、反抗的なふりをしていてるけど、真面目で正常で、可愛らしい後輩だったから。

「驚かないで聞いてほしいのだけれど……」

 雪華が歩み寄ってコンソールを叩くと、円筒形の槽が不透明さを失って、その中が露わになる。安らかな顔で彼女は浮かんでいる。

「……冬霞ちゃん」

 その表情がわずかに歪んだ。細い骨ばった骨格に、最低限の筋肉を纏っている。この骨と筋ばかりの身体から、あれだけの力が湧き出しているのか。形代プロスティシスにしても強烈すぎるその増幅率を、瑞穂は不思議に思う。この細く小さな体で、果敢にも僕をぶったり、蹴ったり、助けたり。なんて強い心だろうか、瑞穂は我が身を省みて眉を落とす。

 しかし最も特異エキゾチックなのは、右腕に刺々しく露出したままの白いエル組織だ。

「冬霞は……第四種よ」

「……」

「……驚かないの?」

 瑞穂は冬霞に魅入られたまま、上の空で返事をする。意識を失う直前の冬霞の凶行を、投げ出された僕を助けるための勇気を、この体から。じんわりと胸を熱くするものに、瑞穂は目尻を緩める。

「……はい。…………え?」

 瑞穂は困惑した。それは、あり得ない言葉だったからだ。

 第一種クラス1は末端組織が僅かにエル化したもの。

 第二種クラス2は四肢や眼球など神経込みで侵されたもの。瑞穂自身もこれだが、この段階でもエル化部位との意思疎通はおろか、精神や生命維持に変調を来すものさえ多い。そのための抵抗剤であり、また自棄に陥り意図的に怪物になるものを生まないために、必然的に豊かな都市が築かれたのだ。……多くを犠牲にして。

 第三種クラス3は体組織の過半までもが置き換わったもの。この段階に至れば、半年と保たず人で居られなくなる。……それでも見捨てない、最期に自我が消える瞬間まで。それがこの都市のやり方。絶望を生まないため。そしてその圧倒的な能力で伝説を生み、流れ星のように命を燃やし尽くす。

 されど第四種クラス4は……神経系を含む肉体の全てをエル組織化した者。これは掃いて捨てるほどいる。そう、ご存知。

「……エルそのもの?」

 だってそれは、燃料以外に価値のない成れの果てを指す。

「臨床上、そうとしか言いようがない。これを機密に当たるとはいえ伝えなかったこと、そして冬霞に封印の解法を知られていたこと。これが……私の落ち度です。貴女が再封印をしてくれていなかったら、どうなっていたか……」

「身を守るためでしたから……それより、何がそんなに問題なのか、今ひとつわからないのですが。特異な存在とはいえ、只のエルでは?」

 白いエル。その実在を施政官が認めることが、何を意味するかわからない瑞穂ではない。しかしその脳裏では、ついさっきの夢の言葉が反響していた。

(何も知らないんですね)

「……わかりませんか?」

 瑞穂は恐れていた。何も言わなかった冬霞に、それ以上に、いつか来る終わりを恐れて、何も知りたくないと思っていた自分に。そんな気持ちは、冬霞の痛ましい姿を見た今となっては。すっかりどこかへ行ってしまっていた。今なら、まだ変えられる。

「わかりませんね」

 雪華はふぅ……と息をついて、ぽつぽつと過去の話を始める。どうにも相当に根深い話らしかった。そして雪華はどことなく楽しげに見える。瑞穂はその気持ちがわかった。隠すしかない暗部を、ずっと抱え続ける気持ち。それを共有できる人間が現れた安堵。ひょっとすればこの人は、ただそれだけのためにここまで上り詰めたのでは。そう瑞穂は想像した。

 ……それを共有したら、どうなるんだろう?知らなきゃよかったと思うのは、大概どうにもならなくなった頃である。今の瑞穂は、これから何をを聞かされようとしているのか、愚かにも過小評価しているのだった。

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