はじめまして。
自主企画「評論家たちのクリスマスパーティ」でお見かけして、読ませていただきました。
ただ、僕には難しくてよく分からなかったです。
以下、長くなりましたが、僕の疑問点について述べさせていただきます。ここで無理に返信を書いていただく必要はありません。面倒なようならスルーしてくださって構いませんし、ご不快ならその時点で削除してください。
僕は社会学やオタク文化に詳しい人間ではないので、この文章を読み解く読解力がそもそも足りていないせいでこんな疑問を抱くのだと思いますが、そもそもこの文章のタイトル「<ヤンデレ>という文化資本」はどういった意味なのでしょうか?
キャッチコピーを読むと、「ヤンデレ(のキャラ)を愛好することは(社会的な)利益につながる」といった話だとは思うのですが、この場合の「愛好する」というのはどういった意味合いでしょう? 消費者としてヤンデレキャラが登場するコンテンツを楽しむという意味でしょうか、それとも生産者としてヤンデレキャラの魅力を理論的に把握して「ヤンデレ市場」に参加する際に活かすという意味でしょうか?
本文の結論と思われる部分に
「言わばヤンデレは、我々の多くの「病み」を吸収し、それを「二人だけの世界」という現実に対する二元世界へと転じる。個々の病みは、ヤンデレのもたらす災難(病み)によって、誤魔化し的に解消され、そしてそれらに悩む必要のない、他者からの視線のない「二人だけの世界」へといざなう役目ことが、ヤンデレキャラクターに求められる、消費者の欲する資本的利益なのである」
とありますが、これはヤンデレを愛好することが文化資本になるという話と関連するのでしょうか。本文における文化資本の解説を読んでも、単にヤンデレの魅力を理解してコンテンツをより深く楽しめる(それによって日頃の鬱憤を晴らせる)ようになるだけのことを、文化資本が生み出す「(社会的な)利益」とは思えなかったのですが、僕は何を見落としたのでしょうか。
ブルデューの引用部分から僕が推測した限り、たとえば幼少期にピアノを習っていた人であれば、大人の指導に従って技術を上達させたり、技術の上達によって達成感を得たりする経験をすることで、学校教育の場でも勉学やスポーツに積極的に取り組めるような態度を養うことができ、それが学歴の高さや社会的な協調性にもつながっていく……、という流れを明らかにするのが文化資本という概念の意義のように思えます。ピアノを習ってクラシック音楽に造詣が深くなること自体を「利益」と言っているのではなく、ピアノを習って身につけた「ハビトゥス」なるものが(本人や親の意図とは別のところで)「利益」をもたらす(場合がある)という話ではないでしょうか。僕は本文を読ませていただく中でブルデューの文化資本の話をこのように捉えたので、ヤンデレを愛好することが文化資本であるというタイトルは、それが将来の学歴や職種、所得などの「利益」につながるという話になるのだろうと思ってしまいました。
文化資本の概念についての僕の理解が根本的に誤っているのかもしれませんが、もし僕の読み方にいささかでも妥当性があるなら、その辺りのことをもう少し分かりやすく書いていただけると、僕のような初心者にも理解できる話になったのではないかと思います。
また、これもそもそもの話になって恐縮ですが、ヤンデレキャラというのは作品内で「理想の恋愛対象」として描かれているものなのか、という点にも個人的には疑問が残りました。浅薄な知識で申し訳ないですが、アニメ化作品でヤンデレというと『School Days』の世界と言葉(ことのは)というイメージです。ですが、言葉が世界を殺すのも、誠の首を抱いて「ようやく2人きりになれましたね」と呟くのも、おそらくカタルシスのある展開やハッピーエンドとしては描かれていないと思うんですね。いくつかのスマホゲームで言っても、ヤンデレがヤンデレのまま主人公と結ばれるという結末は、ハッピーなものというより歪みや危うさを匂わせる一種のバッドエンドだと僕は勝手に思っていました。僕がここで言いたいのは、ヤンデレは何らかの形で緩和あるいは解消されて初めて円満なハッピーエンドに行きつけるのではないか、少なくともヤンデレが描かれるときはそういう認識が前提とされているのではないか、ということです。
もちろん、僕はさほど熱心なヤンデレ好きではないので、綾波さんに「何バカなこと言ってんだ」と言われればそれまでです。ただ、ヤンデレが世間というかそれぞれの作品内でどのように捉えられ、どのような位置を与えられているかについて、本文ではあまり詳しく書かれていなかったように思いますので、そこも論じてくださると、僕のような初心者には入りやすかったように思います。
長文失礼しました。
繰り返しになりますが、無理に返信を書いていただく必要はありません。綾波さんのお考えを全ておっしゃっていただこうとしたらいくら文字数を費やしても終わらない話になりそうですし、おそらく僕はそれさえも理解できない気がします。ただ、もし今後、綾波さんが初心者を視野に入れた文章を書かれる際、「初心者はこういうところにさえつまずくものなんだ」ということをちらりとでも思い出していただけると幸いです。
作者からの返信
まずはお読みいただきありがとうございます。
そして、これほどまでに真剣に向き合っていただけたこと、誠に恐縮です。
更なる混乱を避ける為にも、拙いながら、手身近にお答えさせていただきます。
①
拙作の流れは、大まかに言って、ヤンデレそのものの定義から始まり、「ヤンデレキャラ」の行っていることを愛情表現としてではなく、文化資本として考え直しました。
その次に、「ヤンデレコンテンツ」の特徴はへと話は移行し、最後に、それらを享受している意味合い(個人的利益)について考察したのです。
②「ヤンデレが世間というかそれぞれの作品内でどのように捉えられ、どのような位置を与えられているかについて」
世間ではメンヘラやストーカーと同種のものとして扱う傾向にあり、また視覚的イメージ(例:メンヘラ→地雷系ファッション)としてのヤンデレ典型例も少ないため、一概には語り難い現状にあります。
『School Days』の世界と言葉に関しては、拙作『ヤンデレヒロインの数奇な過去』と題した、ヤンデレ前史的な拙考察でも少し触れましたが、
彼女たちは、狂気的な愛情表現である「ファムファタール(魔性の女)」という文脈から成立しており、ヤンデレ黎明期のキャラにあたると考えられます。
それ故に、おっしゃる通り、一種の「バッドエンド」として描かれるのみなのです。
また、本作でも書いたように、「ヤンデレコンテンツ市場」は未だマイナーであるため、世間のみならず、各コンテンツ内においても、視覚イメージ同様に、「ヤンデレ」というものが確立されていないと思われます。
本文だけでなく、このコメントもまた、分かりづらいかもしれませんが、
分からないからと唾棄するのではなく、こうして親切に各所、おっしゃっていただきましたことへ、私が非常に感銘を受けていることの、僅かながらも表れとして温かく目を通していただければ幸いです。
この度は非常に参考になりました。重ねてお礼申し上げます。
とても興味深い論考。
ヤンデレ趣味、ヤンデレ好き(?)を
文化資本として考えるというのは面白い。
私はこの文章で文化資本という概念を初めて知った。
趣味の表明というのは自分の持っている文化資本の開示になるので
自分の立ち位置を他者に明確化させると言う話。
しかし、ヤンデレは二人の世界のなのでそこに他者はいない。
他者のいない世界で文化資本の開示に一体どういう意味があるのか…。
すごく面白い話だった。
というか色々勉強になった。
作者からの返信
ありがとうございます!
非常に恐縮です。
様々な情報をお互いに取り入れ、コンテンツ化していきましょう!!
こんにちは。
自主企画「週刊カクヨム」企画主のとざきとおるです。
この度は自主企画「(週刊カクヨムコラム企画)「創作論」「評論」「エッセイ」「ノンフィクション」を募集!」にご参加ありがとうございました。
今回参加いただいたこの作品の情報を、企画内ピックアップ作品として、「週刊カクヨムNo.86」の目次に掲載させていただくことにしました。
万が一掲載を辞退したい場合は私に連絡をお願いいたします。
作者からの返信
こちらこそお読みいただきありがとうございます。大変光栄です!