<ヤンデレ>という文化資本
綾波 宗水
<ヤンデレ>という文化資本
What is “Yandere” ?
ヤンデレとは何か。
語源から言えば「病み」と「デレ」を合成した造語であって、主として誰かを慕うあまりに精神が病んだ状態を指している。
類似する言葉に「ツンデレ」があるが、ヤンデレの場合は上記にあるように、意中の相手(主人公)に対し、二律背反の感情や葛藤の慢性化、独占欲の不充足(フラストレーション)等により、理性や良心、常識を欠いた状態を愛好・鑑賞されるものである。
そういった状態を「オタク」産業ではヤンデレと呼称している訳だが、精神医学的観点から説明すると、「クレランボー症候群」を参考にしたい。
実際には全く恋愛対象とされていないのにもかかわらず、相手が自分に恋愛感情をもっており、それも相手の方が自分より強い真剣な感情をもっていると一方的に思い込む被愛妄想を指す専門用語だが、少なくとも私の感想としては、この状態は「ストーカー」であり、果たしてヤンデレであるかどうか怪しいと思う。
クレランボー症候群ないしはストーキングにおいて、相手から否定的な反応にあうと、それは相手の未熟な人格による歪んだ愛憎のせいだと妄想しつつフラストレーションを募らせ、自分が再び恋愛関係の優位に立てたつもりになれるよう、相手を打ち負かすことに執念を燃やし、中傷、脅迫、訴訟、暴力などによる攻撃を行なう点や、相手から強い異性感情をもたれているという妄想が消える事が少ないことも当てはまる。
ただし、ヤンデレにいたってはそれが作中において恋愛関係として成就することが様々なケースと要因があるにせよあり得る。この点がストーカーとの差異として挙げられるだろう。すなわち、一方的な(異常とも言うべき)恋愛感情を向けられた時、ストーカーは警察へ相談することとなるが、ヤンデレの場合、作品進行の都合とは言え、警察に届けられることは多くない。
したがって、定義上、「一方的な愛」と表現されているものの、実際はヤンデレキャラに対し、好意的な印象であるか、もしくは嫌悪感が無いことが前提として存在していることが分かる。
ではなぜ「ヤンデレ」というコンテンツ・キャラクター性が成長するに至ったのか。
ここで今度はヤンデレの持つ特異性を取り上げたい。
それは「二人だけの世界」という考えだ。
ストーカーが往々にして異物的に主人公の日常に介入することで不快感を強めていくのに対して、ヤンデレは他のキャラクターを排することで、「二人だけの世界」を形成しようとする。
しかしこれは、ヤンデレに限った話ではない。
戦後の日本では、マイホームやニュータウン建設によって、両親と夫婦一体となって一つの家に住居するのではなく、夫婦が都市部へ『巣立ち』、そこで新たな家庭を育むというブームが巻き起こった。
それはヤンデレが登場するはるか以前より行われていた事であり、それを疑うことの無い慣習として身についた頃合いと言っても過言でない時期に、ヤンデレは台頭した。
つまり、ヤンデレでなくとも、愛し合った男女(便宜上、ここではそう表現するが、昨今では同性キャラクター同士でのヤンデレ作品も存在する)が「二人きりの世界」を形成しているのである。
ヤンデレはこのように類似概念との差異はあれど、確固たる概念としては未熟と言えるだろう。
それなのにどうして、ヤンデレは淘汰されないのか。
私は功利主義的に考え、何かしらの利得、すなわち、他の『属性』からは得られないコンテンツ性があると推測し、それをささやかながら分析したい。
そしてこれを機に、より知見ある方々によって、更なる「ヤンデレ文化」興隆に努めていければ幸いである。
さて、表題にあるように、私はヤンデレをブルデュー社会学における【文化資本】として考えてみようと思う。
そもそも資本とは「交換が成立するシステム内において社会的関係として機能するもの」であり、それは「物質あるいは非物質といった区別なく、特定の社会的な枠組みにおいて追求する価値と希少性があることを示すもの」であれば、何であっても構わないのである。
それを踏まえた上で、文化資本とは、「資本として機能するものの中で、蓄積することで所有者に権力や社会的地位を与える文化的教養に類するもの」と定義される。
そしてその文化資本にしてもブルデューは三つの区分を設ける。
①「客体化された形態の文化資本」
絵画、ピアノなどの楽器、本、骨董品、蔵書等、客体化した形で存在する文化的財。
②「制度化された形態の文化資本」
学歴、各種「教育資格」、免状など、制度が保証した形態の文化資本。
③「身体化された形態の文化資本」
「ハビトゥス」: 慣習行動を生み出す諸性向、言語の使い方、振る舞い方、センス、美的性向など。
そしてこれらは密接に関わっており、例えば趣味などは「階層」に基づく文化資本によって決まると言う。
漠然とではあれ、クラシック音楽好きな者は、西洋美術にも少なからず関心がある、といったようなカテゴライズを我々は日々の中で自然と行っているが、それは階層意識と類似するものといえる。クラシック音楽を両親がたとえ聞かなかったにせよ、音楽を鑑賞する家庭・環境に属していた者だけが、そのように好きな音楽というものを持つことが可能となるのである。
とすると、ヤンデレにも文化資本による「階層」があると仮定できるのではないだろうか。
もう少し詳しく見ていこう。
ブルデューは『実践感覚』という著書の中でハビトゥスをこう定義している。
ハビトゥスとは、持続性をもち移調が可能な心的諸傾向のシステムであり、構造化する構造(structures structurantes)として、つまり実践と表象の産出・組織の原理として機能する素性をもった構造化された構造(structures structurées)である。
これをより簡単に説明すれば、「傾向性」と表現できる。我々の行為や価値判断には傾向性(ハビトゥス)が存在し、その傾向性に動かされてあるものを好きになったり、嫌いになったりする。
そして、我々は日常生活で感じ取った自他のハビトゥスによって、分類し、分類されるのである。
ここで更に興味深いブルデューの考えを提示しよう。
彼は趣味を「闘争」として捉えているのだ。
趣味(すなわち顕在化した選好)とは、避けることのできないひとつの差異の実際上の肯定である。
趣味が自分を正当化しなければならないときに、まったくネガティブなしかたで、つまり他のさまざまな趣味にたいして拒否をつきつけるというかたちで自らを肯定するのは、偶然ではない。
趣味に関しては、他のいかなる場合にもまして、あらゆる規定はすなわち否定である。
「好きの反対は無関心」という名言もあるが、ブルデュー社会学においてはより強烈な分析がなされている。
『趣味とはおそらく、何よりもまず嫌悪なのだ。つまり他の趣味、他人の趣味にたいする、厭らしさや内臓的な耐えがたさの反応なのである。』
「○○はいい/好き」という判断を下すということは、必然的に「○○はダメ/合わない」などのように判断を下す、すなわち差別化しているのだ。
芸術をめぐる闘争というものは、必ず同時にひとつの生き方を相手に押し付けようとするものである、とも言っている。
なかなかヤンデレキャラクターを考える上で参考になると私は思うのだが、これらはつまるところ、私たちの趣向とは実存を賭けた闘争であるという事なのである。
何かを愛しているという事は、何かを愛していないことであり、同時にまたそれは、自身の文化資本が何であるかを提示する資本家としての姿でもあるのだ。
自身の根拠とも言うべき趣向を開示することで、社会での居場所・立ち位置を明確化させる。
ヤンデレの文化的検証という点では、これらの社会学研究が大いに役立つだろう。
「オタク」産業という言葉を私は既に二度ほど使っているが、ここに括弧を設けたのは、既に昨今では特殊な市場とは言い難く、更には「○○推し」といったように、自身の趣向を宣言する風潮も多くみられる。
現今の経済資本と文化資本の両立によって、他者との優位性を図ったり、社会での立ち位置をより鮮明にするのみならず、ある種、ひとつの学会的に、交流もしくは敵対関係を結んでいく点では、身分階級のない現代社会と、教養主義の没落に伴う、新たな社会システム・文化人像であるようにも考えられる。
インターネット上での「炎上」もそういった視点で考えると興味深い。
このように、何かが好きという普段、何の気なしに下している判断には、およそ社会(界)での立場を見極めつつ公表する象徴闘争という側面がある。
では、「ヤンデレを愛好する」者に関してはどういった現象がみられるのだろうか。
ヤンデレキャラクター自体の行動原理は上記の通りだが、それをあえて好き・専門だとする消費者・生産者にはどのような関係性があるのだろうか。
これに関しては十分かつ広範囲でのフィールドワークを行う必要があるため、あくまでも仮説の提示という段階で考察を始めたいと思う。
ヤンデレであるのを、文脈からではなく、イラストのみで表現する際、多くのイラストレーターは「目のハイライトを消す」加工を行う。
これはどういうことなのだろうか。
一般に言われるのは、目が曇っていることにより、文字通り、視野が狭まっていることを表している。
目から鱗が落ちるという表現が明確なされた最初の物語はおそらく、神・ヤハウェを冒涜し、イエスの信徒を迫害していたが、回心してイエスの追随者となり、ヘレニズム世界に伝道を行った、『聖パウロの回心』を挙げる事ができるだろう。
同様に、キリスト教の布教に伴い、それを受け入れようとしなかった、改宗しなかった者はかつて、「悪魔に目を覆われている」と表現された。
恋は盲目という言葉もあるように、多くの場合、視野が狭まっているとするのは、精神性への批判として用いられるのである。
ヤンデレキャラクターは、その恋心もしくは特殊なバックボーン故に、正常に判断ができていない(病んでいる)と、消費者も含め、作中では暗に扱っているのだ。
となると、正常な判断とはどのようなものか。
それは単純に考えてみると、そのキャラクターには本来、これほどまでに好意は持たれないはず、と主人公(自分)は一種の卑下としても、また経験則として自認している根底が存在していなければならないのである。
ここで気を付けなければならないのは、主人公は少なくとも表面上は、そういったヤンデレキャラクターを疎ましく思い、そう行動する点である。
さもなければ、それは「バカップル」や「イチャイチャ」ラブコメの一部として創作・消費されてしまうからだ。
そうではなく、ヤンデレとして生産し、それを消費している人間は、ストーリーとして、もしくは現実の代替物として何かを求めている。
ではマーケティングやブランディング的な観点を少し利用し、市場的に考えてみる。
ブランディングとはブランド戦略の経済・経営科学のことを指し、ブランドをブランドたらしめ、そして成長させる為にはどのようにすればいいかを探求・調査する分野である。
ブランディングでは当然ではあるが、「客数」と「購買頻度」、そして「市場浸透」をまず分析する。
すなわち、客数が少なくとも、購買頻度が多ければ儲かるし、反対でもまた然り。
その関係が成り立つ、つまりはブランドであるには、何よりも市場浸透が要となってくるのだ。
ここで注目したいのは、未だ「ヤンデレ市場」はマイナーであるということだ。
昨今でよく用いられ、同時に類似的に解釈されている性格表現に「メンヘラ」がある。
メンヘラという表現そのものは、メンタルヘルス(精神衛生)を略して「メンヘル」と呼び、さらに英語の接尾辞「er」 を加えて「メンヘルな人」という意味を加えた言い方とされ、「病んでいる人」「心に何かしらの問題を抱えている人」という意味合いで用いられていることが多い。
心理的傾向や行動様式を指す表現として、「ヤンデレ」も「メンヘラ」と共通する部分が多いと言える。
どちらも「特定の人物に異常な愛情を抱くあまり相手や周辺の人間にまで危害を加えかねない者」として描かれることが多いという特徴があり、ヤンデレとメンヘラを同一視、もしくは違いを知らない人が大多数とさえ言えるだろう。
そして問題なのは、メンヘラとヤンデレの間に明瞭な違いがあると断言できない点である。
それらを創作・鑑賞する者の中では、
「ヤンデレ」はマンガやアニメなどの創作コンテンツに登場するキャラクター設定を指すことが多く、恋人絶対主義であり、他人(多くの場合、そういった人々は敵として認識される)に危害や迷惑を及ぼす要素が見受けられる。
一方で「メンヘラ」は実在の人について用いられることが多く、自身のメンタル状態と日常生活とが密接に関わっており、結果、自分自身へ攻撃が向かうことが多い傾向があるとされる。
このように、未だ成熟した概念とは言えず、「メンヘラ」の方が現実で用いる頻度が比較的多いために、ヤンデレへの導入も一般化されていない。
となると、具体的統計が存在しないにせよ、ブランディング的知識に基づき考えると、市場浸透がなされていないという事は、とりもなおさず、客数が少ないということである。そして市場浸透がなされていないという事は、購買頻度以前の問題として、そもそも最低限の需要分しか供給されていないという事が、容易に想像されるのである。
ここで冒頭に紹介した概念、「二人だけの世界」を思い出してほしい。
そう、そもそもヤンデレ市場こそが、ヤンデレの特異性を表現するものであり、それがより一般化した市場では、おそらく現今のヤンデレ消費者は、新たなジャンルへと移行することになるだろう。
それはつまり、マイナージャンルであり、そして自身もまた、社会的価値基準を想起した際に、ともすればマイナーの烙印を押されるという象徴闘争(これは『奴隷道徳』に似ている)を行う者が嗜好するキャラクター性と推測できるのだ。
ニーチェのキリスト教批判には多少の問題性が指摘されているものの、彼は、現世で太刀打ちできない「負け組」が、あの世というものを設定することで、精神的に優位に立とうとしたと考察している。
それを奴隷道徳や畜群などとして説明しており、ニーチェの目指す「超人」とは、そういった比較や遠近法的思考に基づかずに、自身の足で歩くことのできる人間像を意味する。
そういった意味では、ヤンデレ消費者は、現状の不満を、迷惑なほどに愛してくるキャラクターによって、解消しており、それが刹那的な快楽でないのは、そもそも市場スタイルとして、それを支持するものだからなのだ。
ブランドによって社会的ステータスを象徴するように、彼らもまた、ヤンデレを消費することによって、愛に対しての困惑を俯瞰的に鑑賞する立場を有するのである。
これは世に言う「草食化」を基にしない推論だ。なぜならば、草食化は往々にして、異性などに消極的な男性に用いられる表現であるが、少し触れたように、現在では女性消費者が多数を占める「BL」「オトメゲーム」産業においてもヤンデレキャラクターを確認することができるからだ。
むしろ自身の現状への葛藤を主人公に憑依させ、「不条理」に対し、結果的には屈し、「二人だけの世界」という共依存・病みの世界へ進んでしまうという性質にこそ、消費者は消費欲求を刺激される。
現代の高度情報通信社会や多様化社会によって、かつての宗教や科学のように、何かを断言的に正しいという自己性を個々人では維持するのが困難であり、その過渡期であるのは日本文化史上の関連性として『妖怪ウォッチ』の流行がある。幕末や海外で言えば19世紀末のロンドンのように、妖怪や心霊がブームとなるのは、文化上の過渡期・転換期であることが多く、価値基準が多様化し、もしくは通用しなくなることの前触れでもある。
そういった時代を経て、積極的困惑という嗜好性があると同時に病的な愛する者との結びつきもあるヤンデレが、曖昧ながらも現実的なユートピア像として見えつつあるのを歓迎し、それを文化資本として自身の資本を気づこうとする人々が現れるのも、不思議な事ではない。
それは
つまり、ヤンデレは来るべき時を民へと知らす、預言者的現象であり、強固に信ずる「何か」を欲する現れなのである。その到来に彼らは資本を賭け、闘争するのである。
言わばヤンデレは、我々の多くの「病み」を吸収し、それを「二人だけの世界」という現実に対する二元世界へと転じる。個々の病みは、ヤンデレのもたらす災難(病み)によって、誤魔化し的に解消され、そしてそれらに悩む必要のない、他者からの視線のない「二人だけの世界」へといざなう役目ことが、ヤンデレキャラクターに求められる、消費者の欲する資本的利益なのである。
アドラーは「すべての悩みは対人関係の悩みである」と言ったが、その悩みを、ヤンデレとの共依存によって、補い合う。文化資本の持つ効果が、他者との闘争であったのが、他者の消失によって、純粋なる好意へと変化(錯覚)することができる方法なのである。
最後に、個人的な私見を申し上げて結びとする。
思うに、SNSで公開されているようなヤンデレキャラクターではなく、商業としてプロが制作し、アニメなどのようにして享受するコンテンツに、あまり代表的なヤンデレがいないように思われる。
例えば「ツンデレと言えば○○」「クーデレは□□」といったように、固有キャラをその専門家でなしに一般で、誤解も含めてあげられることが多くないように思う。
これはヤンデレを主題としたプロによる作品がわずかであり、多くの場合、消費者が「ヤンデレっぽいな」といった具合に、感じ取ることによって、今日、ヤンデレは市場を維持・拡大している。
ヤンデレは現在、個々人のイマジナリー段階にあり、明確な、お手本としてのヤンデレ像が確立されていないがために、私のような一愛好者が自主的に評論と称して何とか考察せんとするのである。
つまり、ヤンデレの持つ性質と、それを享受する我々の状態を今回、拙いながらも分析した訳だが、ヤンデレの定義論をより確固たるものにすることが、ヤンデレキャラクターの持ちべき、強烈な自我を助けるものであると私は考える。
すなわちこれは、文化資本としての、階層としてのヤンデレをひとつのブランドとして向上させる手立てであると私は考えるのである。
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