ヤンデレが導く評価経済社会

階層にも、自由にも起因しない、徹底的な恋愛信用

 ヤンデレがいかなる存在かは、前回私が考察してみた拙論『<ヤンデレ>という文化資本』を参考にしていただきたい。

 それを前提として、今回は「評価経済」との関係を考察してみようと思う。

 そもそも「評価経済社会」とは、貨幣と商品を交換し合う「貨幣経済社会」に対して、評価と影響を交換しあう経済形態により現代社会を説明しようとする考え方である。

 縁故社会が貨幣経済においても残ったのと同様に、評価経済社会においても貨幣経済はそのまま残るとされる。つまり評価経済が貨幣経済の上に乗るという訳であり、お金で評価は買えないが、評価があればお金はいらなくなるという優越関係が成立するとされる。


 だが筆者は経済学研究者ではないため、上記にある基礎概念をもとに、歴史・社会的側面として用いるとともに、今一度、「ヤンデレ」を今世紀における評価経済的な愛情表現、つまりコンテンツとして消化するのみならず、令和以降の日本において実践される可能性があるか否かを問うものである。


 ここで評価と貨幣、そして広義の愛情における共通点を検討したい。それは「信用」である。


 経済的な意味での信用には二つの側面があり、一つが、たとえばA氏がB氏に貸し付けるというような取引関係そのものの意味で用いられる「取引としての信用(貸借的信用)」。

 そしてもう一つがに、そういう取引行為の結果生じる客観的実在としての債権・債務関係が、取引にとっての手段ないし対象とされることがあり、それを「貨幣的信用」という。

 またクレジットカードでは「信用取引」に関する(過去から現在までの)取引事実を客観的に表した情報が「信用情報」であり、その情報によって「信用力」が測られる。

 信用情報には、クレジットやローンなどを利用した際の契約内容や返済・支払状況(期日どおりに返済・支払したかなどの利用実績)、利用残高などに関する情報がある。


 こういった、言わば事実上の「信用」は、本稿をお読みになっている方の多くが、日常生活で自然と接し、求められてきたはずである。

 しかしながら、結婚は別にしても、こと恋愛においては、信用より「信頼」を求めるのが昨今の習わしであるように思われる。

 たとえば、自由恋愛ではなく、政略結婚や家柄などによる恋愛は、階層という社会的信用が必要不可欠となる。


 しかし、信頼はどうか。

 ややもすれば、私たちは信用と信頼を同一のものとしていつの間にか想定してはいないだろうか。


 言葉の意味の点から見てみると、「信用」は日本国語大辞典によれば

 ① 信じて任用すること。信任。

 ② 信じて疑わないこと。確かだと信ずること。

 ③ 人望があること。評判のよいこと。信望。

 ④ 将来、義務を履行することを推測して信認すること。

 ⑤ (credit の訳語) 一方の給付がなされたあと、一定期間後に必ず反対給付がなされるという経済上の信認。


 などの意味があり、「信頼」は同書ではなんと「信じてたよりとすること。信用してまかせること。」とだけ書かれているのである。ここで再び信用という表現が使用されているのが、やや厄介ではあるが、あえて抽象的に言うとすれば、より表現はやはり「信用」の方だろう。


 では、ここで恋愛に話を戻すと、信用の意味②から多くの場合、親密な関係となり、恋人として信用①(信任)するのである。

 そして、現代では②は自由恋愛であるため、必ずしも社会的身分だけを定規にされない。

 では何をもって信用するか。そこで浮上するのが、「評価」である。

 評論家・岡田斗司夫氏は評価経済社会において、一番ダメなのは「嫌われる人でも好かれる人でもなく、よくわからない人です」と答えている。


 なるほど、では恋愛面での評価はいかに下されてきたか、それは先ほど少し触れた、封建的束縛を伴う「(社会)階層」恋愛と、現在における「自由」恋愛の二元である。

 自由はデモクラシーの源として、言うなれば神格化されている。もちろん、筆者である私も自由への渇望などは毎晩感じている。

 だが、あえて神格化と明記したのは、未だ「多様化」と「グローバル」の矛盾が解決されていないからだ。

 その矛盾とは、私たちが言葉の上で想像する意味と、現実で効果を発揮する側面との差異である。

 ここ数十年で発覚したのは、多様化・グローバル化は推進すべきではあるものの、「コスモポリタニズム」や「自由」とは必ずしも同様の意義を持たない、という点である。

 これは信用と信頼の問題にも似ている。

 世界市民主義コスモポリタニズムとは、共同体・民族・国家などを媒介とせずに、諸個人が直接に世界と結合さるべきであるとする個人主義的にして普遍主義的な思想とあり、まさしく今現在、「グローバル」や「多様性」に抱かれているイメージそのものと言える。

 だが現実に、それを実践するコスモポリタンは少数派である。


 自由においても同じような事が言える。

 先述したように、多くの人々が自由を求め、それが得られない時、阻む者に抗議する。だがしかし、いわゆる先進国であっても、自由至上主義リバタリアニズムを掲げた政党が第一党である事はない。


 自由主義の先にあり、右派(保守)でも左派でもないというのに、どうして私たちは自由至上主義に傾かないのか。そこには確かにいくつかの未熟さや問題があるのは事実だが、それを解決するには、やはり自由を保障するための「規律」「束縛」が必要であるからではなかろうか。


 つまり、『人間は自由という刑に処されている』と言ったサルトルや、「畜群本能」として表したニーチェなどの実存哲学者の言うように、私たちは何かに束縛されていることを元来、求めているのである。なぜなら、その方が都合がいいからだ。

 ただそれは、信頼という極めて不合理な合理によって後押しされているがために、独身・破局・離婚をはじめとする社会問題が発生すると思われる。


 しかし、いかに地球温暖化とは言え、原始時代の生活には戻れないように、再び階層を容認し、封建的束縛世界とするのも許しがたい。それ故に私たちは自由という不自由を掲げた訳だが、歴史が極端を歩んできた今、ようやく中道を歩めるのでは。

 それが「ヤンデレ」の登場に示されていると私は考える。


 結婚には法的・倫理的拘束があるのに、恋愛には相互の自由と社会通念上の一般的モラルしか課されていない。

 だが、ヤンデレは階層は勿論、自由さえも起因・関係しない、徹底的な、むしろ宗教的な恋愛「信用」を実践する。


 つまり私が提唱したいのは、ヤンデレの愛情表現は、言わば社会における「高貴なる身分に伴う義務=ノブレス・オブリージュ」だ。

 階層は破綻し、自由も期待外れな現在、モデルとして見直すべきは、「階級」なのではないだろうか。

 信用と信頼がそうであったように、階層と階級は違う。

 階層は多くの場合、生まれ(血統)に基づくため、個人差が凄まじい為腐敗しやすく、フランス革命などの歴史的大事件によって崩壊しました。

 ですが、階級にはノブレス・オブリージュが求められる。

 これは何も貴族だけではなく、例えば「○○といえば△△」のようなブランドでもある訳で、恋愛したくない人は「付き合わない」と答える事からもうかがえる。


 だが、前回の評論でも述べたようにメンヘラ(昨今では地雷系としても台頭)とヤンデレは異なる意味を持ち、束縛の在り方も異なる。

 恋人至上主義がヤンデレなのであり、メンヘラは「病んだナルシシズム」であるため、混同は避けたい。


 そしてこれが冒頭に繋がる訳だが、階級として権利が行使される為に求められる義務というものは、他者からの「評価」に起因するのである。

 封建的束縛を脱し、にモノを見る事が出来るようになった私たちは、決して上から目線でなくとも、「○○な人は」という見方を行い、そこに文字通り、価値を見出す。

 そしてその価値は、自由などの例から分かるように、長らく宣伝文句のみで現状にはそぐわないことが多かった。

 そこで改めて私たちは、宗教や政治信条のように怪しくもなく、自由のように心から「信頼」できる事柄を求めており、それが一部の界隈・市場において、ヤンデレという「信頼性」が実験されたと考える。


 コスモポリタニズムもリバタリアニズムも未だ未熟であるが、人類の恒久平和には是非とも検討する価値があるように、ヤンデレの持つ「全幅の信頼」にこそ、私たちは学ぶ必要がある。

 そうしてこなかったがために、「隣人を愛する」のをいかなる宗教が語り、また道徳も普遍の鉄則としつつも、自由というフィルターによって、ヤンデレを「狂気的」と断じてきたのだ。

 一方向からは、確かに「束縛」ではあるが、そこに信用と信頼のような言い換えがなされていないだけで、封建的な意味はなく、まさにヤンデレは「メリーバッドエンド ※注」の賜物として、私たちは遠近法的思考をやめ、フラットに見つめ直す必要がある。

 現時点における、現実存在としてのヤンデレへの「評価」は芳しくなく、キャラクターに対してもマイナーな市場である。


 だがしかし、ある側面では理想的であるものの、異常ともされるヤンデレの愛情表現・生活は、未熟ながらもコンテンツ的・趣味嗜好的な部分が先行しているからであり、且つまたメンヘラとの混同等によるイメージ独走が原因であるためであると推測される。

 したがって、評価経済社会の訪れはヤンデレの特異性を再検討する機会であり、他者への「いいね」が最大の贈与物として、今一度、愛情表現の在り方が変容を迎える時代が訪れつつある。


 再びサルトルを引用するなら、「実存は本質に先立つ」のだ。

 すなわち人間の本質は決まっておらず、現実に存在すること(→実存)が先立つということであり、それ故に現実の中でして現実の中で意味を選び取らねばならないのである。

 まさに「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」ということで、オタクが一般化した今こそ、ヤンデレを踏襲した徹底的な信用に愛を委ねるべきなのだ。


 ある意味において私たちは、宗教的信仰を擁護し、その信仰をえるために不合理とは分かっていても自らの意志で不条理に跳び込む必要がある、というキルケゴールの『死に至る病』を思い出し、また、絶望から抜け出すためには宗教的信仰に頼るしかないとの内容を、ヤンデレのみせる貞潔(≒社会通念)とも異なる一途さ(≒超人)に見出すだろう。

 ましてや持続可能な社会が求められる現代である、ヤンデレの恒久的な愛のシステムを理解する姿勢は、一つのプロテスタンティズムとして現実に行われるべきである。


 <注>

 ※「メリーバッドエンド」

 物語を解釈する観点や受け取り方次第で意味が変化する結末のこと。

 一般的に物語の登場人物の誰か(多くの場合主要人物)にとっては幸福な結末だが、当人以外の周囲から見ると悲劇的な結末であるといったシチュエーションに対して用いられることが多い。

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