<霎・図書館・蒼玉>

その図書館には巨大なサファイヤが保管されている。大きさは一辺20cmほどの矢尻のような形で、照明に照らされたその色は透き通るような水色。まるで海のように表面は波打ち、端は可愛らしく丸まっている。昔の建物の模型やら江戸時代の農具やらのおとなしい色味のモノが並ぶ郷土資料室の中ではひときわ異様で目を引く存在だ。しかも他の展示物には何かしら概要の説明が書かれたパネルがついているのに、この宝石だけ「サファイヤ(蒼玉)」と書かれた板がガラスケースの隅に貼られているだけなのである。

幼い頃、私はよく図書館周囲の公園で遊んでいて、降雨のたび図書館に雨宿りしに入っていた。いつからか郷土資料室のそのサファイヤを見るために晴れた日も出入りするようになった。その頃の私にも展示の不自然さは理解されて、この美しい石がどこからきたものか不思議で仕方なかった。だが幼いゆえか、その目前に立つと輝きに圧倒されるばかりで、たとえば玄関脇のレセプションにいる司書の方へ由来を尋ねようなどと考えることもできなかった。中学校に入学する前には引っ越してしまって、その石を見に行くこともなかった。

ということを、実に十数年ぶりに故郷に帰ってきてようやく思い出したのである。


出張仕事の合間を縫って久しぶりに来た図書館は、あの時と変わりないように見えた。晴れた空に照り輝く煉瓦造り風の外壁と周囲の公園に茂る樹木は相変わらず威厳を保ってそこにあった。私は玄関からまっすぐ郷土資料室へ向かった。記憶通りその部屋は廊下の突き当たりに、左開きのガラス戸を開いて待ち構えていた。

「こんにちは」

扉をくぐった途端に声をかけられてドキリとしながら振り返ると、白いブラウスを着た女性が受付らしき卓の向こうに座っていた。こんにちは、と挨拶を返す時、右胸の名札に「司書 浜村」と書かれているのが見えた。

「あの……ここにサファイヤはまだ展示されてますか」

声が震えていたので自分でも驚いた。幼き日の疑問を解消できるかもしれないという期待が胸に渦巻いて出てきてしまったようだった。変な態度と思われるかもと心配したが、浜村さんは笑顔で、ありますよ、と答え立ち上がった。案内してくださるらしい。私は彼女の後ろにしたがって、部屋の隅に孤独に立つガラスケースにたどり着いた。その場所も石の様子も、昔と何の変わりもなくそこにあった。

「由来……とかの説明は書いてないんですね、まだ」

綺麗な結晶に心奪われそうになるのをこらえて私は尋ねた。浜村さんはうなずいて、果たしてこう言った。

「ええ、でも昔話はありますよ。よければ今話しましょうか」

「昔話?」

「このサファイヤの由来の話ですね」

私は少なからず混乱して、うなずいた。窓の外から雨の降り出す音が聞こえてきた。



——大昔、この地域には雨が降り続いていました。小雨つづきの期間もあれば、土砂降りつづきの期間もあり、とにかく雨が弱いか強いかの違いしかありませんでした。うんざりした人々はずっと洞窟にこもり、松明を燃やして暮らしていました。

しかしある日突然、空が嘘のように晴れ渡りました。いち早く気づいたある人は外へ飛び出し、太陽の光のあたたかさを思う存分味わいました。そして雨にかすんでよく見えなかった景色を見回しているうちに、はっと一点に目を止めました。恐ろしく波打ってとても近づけなかった海。その水が今や太陽に照らされ、非常に美しい色に輝いていたのです。その人は勇ましいことに海に飛び込んでその中をうっとり眺めました。そして海底に、まるで海の水が美しい色のまま固まったような宝石を見つけたのです。その人は感嘆して石を取ろうとしましたが、深々と刺さっていて抜けません。諦めきれないその人は海の水を集めて宝石を作ることにしました。再び降り出した雨を避け、海水を石の皿に集め、松明を煌々と燃やし続けて照らしました。

一人きりで石を作るその人を心配した親類がかれの住む洞窟をたずねた所、その人はすでに亡くなって倒れていました。その傍らには石の皿に乗った大きな青い石が、松明の光の中で美しく輝いておりました。——



「その石が、これというわけです」

浜村さんはサファイヤを示すように手を差し出した。私は彼女の話を頭の中でもう一度噛み砕きながら石を見つめた。一人のひとが命を賭して海水から作ったものと聞けば、妙に納得してしまいそうである。何にせよ幼き私の疑問はこれで解消されてしまったのだ。外はもう大雨のようだ。

「……ありがとうございます」

「納得がいってないような顔ですね」

不意に図星を突かれた。浜村さんは変わらずにこにこと私の方を見ている。

「いえ、ずっと知りたかったことがあっさり知れたので、驚いただけです」

「ただの雨宿りの与太話ですよ」

「え?」

横を見ると彼女はもういなかった。代わりに床に敷かれたカーペットに染みができていて、潮の香りが漂っていた。私は急に仕事のことを思い出して急いで図書館を飛び出した。あんなに激しく音を立てていた雨が嘘のように晴れていて、乾いた地面に照りつける太陽がまぶしかった。(完)

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三題噺 油女猫作 @Batter_cat

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