「人を殺してしまったかもしれない……?」

 目の前の監察官の細い瞳がすっと開いた。

「昨日からこのままです」

 あの後結局、冷静になった後で物凄く怖くなって家を飛び出してしまった。助けを求めるような手も払いのけて、遠く遠くへ走って行ってしまった。


 ごめんなさい、ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい!


 辿り着いた真っ暗な神社で泣き叫ぶ私に神主が気付いて、そこからは早かった。

「大丈夫だから、帰って来なさい」

 まず実家に帰った。乱れ切った生活習慣が明らかになって病院が手配された。この無機質社会に深夜のご迷惑など存在しない。すぐに診察室まで通された。そこで幾つか問診をする内に医者が私の同居人の事について興味を持ち始めた。そこから舞台は精神科に移る。

 何故かは分からないがそこから過去の追求が始まっていった。

 結局パニックを起こして途中で取り止めになってしまったが、それでも医者は家族にしか理由を話さなかった。

 母はショックを受けていた。

「元からあなたは問題児でしたけど」

「……」

「人を殺したかもしれないというのは、聞き捨てならないですね。一体どうしたんですか」

「……」

「『 』さん?」

「……舌、噛みちぎったかもしれなくて」

「舌? ベロの、あの?」

「ええ、タンの、あの」

「……それ位、今の技術なら大丈夫では?」

「でも怖くなって。助けもせずに飛び出してしまった。今頃遺体が見つかっていると思う」

「何故? あの部屋に訪れる人は少ないんでしょう? なら――」

「実家のはからいで」

「ああ、なるほどなるほど。はあ、はあ」

 言いながら納得した様子の監察官が何やらさらさらと書き込んでいく。

「とすると、矢張りガイシャはあなたの言う同居人ですか」

「そうです」

「じゃあ良かったじゃないですか」

 反射的に返された言葉に耳を疑った。にこやかに細められた目に怒りがふつふつと沸き上がった。思わず掴み掛かろうと立ち上がって周りの制止ロボットに冷たい手で腕を掴まれた。


「退院おめでとうございます。あなたはようやく幻覚から解放されたんですね、いやぁ、随分と苦労しました」


 は?


「あれ? ずっと言ってましたよね? そんなものは全て嘘だって。幻だって」


 は……?


「証拠だって幾つも提示したのに、まだ信じていたんですか? あんな馬鹿げた妄想を」


 え。


「良いですか。住民票も存在しない、名前も分からない、管理番号も分からない、無職、駄目人間、ヒモ」

「でも!」

「この要素のどこに社会の属性を感じます? もし本当ならもう殺処分の対象ですけどね」

「でもアイツは確かに存在して! ……あ、じゃあこれ見てくださいよ! この血痕に、首筋のこの痕に……!」

「馬鹿を言わないで。座りなさい。そんな物どこにも無いし見えない」


 ロボットに無理矢理座らされた後で、首に鎮静剤を打たれた。

 薄れゆく意識の中で監察官が無機的につらつらと述べていく言葉に、私は、私は。


「良いですか、繰り返しなさい。存在していません」


「有り得ません」


「あんなものは、私が自分勝手に作ってしまった幻覚です。妄想です」


「私は正常です」


「正常です」


 どうして。

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