最終話
「こんなもんか?」
達也が両手を叩いた時、窓の外には夕陽がのんびりと顔を覗かせていた。
部屋にあったものは粗方片がついた。段ボールに収まった不用品達は玄関に置かれ、一応母の判断を仰ぐ事となった。部屋に残ったのは、父のサンクチュアリである本棚と、この部屋の真の主であるグランドピアノだけである。
父の遺品を部屋から追い出した事により、部屋の中を色濃く占めていた父の匂いは、すっかりなりを潜めていた。呼吸がしやすく感じる。
「達也、結構力あるんだね」
私一人だったら、きっと今日一日では終わらなかっただろう。
「おう、普段本屋さんの納品の手伝いで、重い物運ぶのには慣れてるからな」
「編集なのに、本屋にも行くの?」
「市場調査と、まぁ、うちは弱小だからな、人出不足だから、営業も兼ねてるんだよ」
「ふぅん、世知辛いわねぇ」
「でも、本当に全部捨てちまうのか?」
広くなった部屋を見渡しながら、達也は残念そうに呟いた。
「置いといても仕方ないしね」
「そうかもしれないけど、やっぱりちょっと勿体無いな」
「だったら持ってったら? ほら、あの腕時計とか、達也に似合いそうだったし」
「お前の前でつけらんねぇなら意味ねぇだろ」
生真面目な婚約者に、思わず笑みが零れた。
「いいよ、何か片付けたら、すっきりしたし。そんなに気を付けなくても……」
「そうか?」
途端に小狡い顔に変わった。さては、ちょっと狙ってたな。
「それにしても、父さんの部屋片付けただけなのに、何だか、随分すっきりしたわ」
実際、心の中にあった父への蟠りも、少し薄れたような気がした。あんなに怒鳴ってばかりだった父だが、落ち着いて思い出すと、笑ってる顔の方が多く出てくる。
ふと、ピアノに触れてみる。
埃が積もっていない所を見ると、母か洋が、定期的に弾いているのだろう。弾かないにしても、メンテナンスはしているのかもしれない。私以上に、ピアノが好きな二人だ。
――琴。お前は良い音を出すな。それは才能だぞ。どれだけ練習しても、そんな良い音を出せる奴はなかなかいない。
「あ……」
「どうした?」
「ううん、なんでも無い」
不意に、父にピアノの音を褒められた時の事を思い出した。ずっとずっと小さかった頃。右手で一つの白鍵を叩くのがやっとだった頃。父の膝に乗りながら、父の弾くピアノを特等席で眺めていた頃。
どうしてだろう……。
あんなに言い争って、あんなに怒鳴り散らされて、大嫌いになったはずのピアノと父が、何だか、優しく柔らかく蘇って来る。
父の弾くピアノにも飽きて、地面に転がったスコアに落書きをしても、父が怒らずに、琴は絵が上手いなぁと褒めてくれた。
私がピアノを弾き始めた時も、上手くなるぞと褒めてくれた。
最初のアドバイスは、確か、そう、強いばかりでは無く、弱い部分が大事なのだと言う事だった。
フォルテッシモと、ピアニッシモの共存が大事なのだと……。
ピアノも、絵も、最初に好きになるきっかけをくれたのは、全部父だったのかもしれない。
じわりと視界が滲みそうになる。夕陽を浴びるグランドピアノは、主を亡くした所為か、部屋の真ん中で寂しそうに佇んでいるように見えた。
「ピアノ、久々に弾いてみようかな~」
顔を擦り、誤魔化すようにそう声に出した。
「お、本当か?」
私は今の声を、達也にかけたのだろうか? いや、ピアノにかけたのだ。でも、達也が嬉しそうな声を出したので、それはそれで良しとしよう。
「何弾こうかなぁ~」
頭の中で暗譜している物を色々思い返すが、特に良い物が思い付かない。
そこで、父の聖域に手を伸ばそうと思い立った。
「いいわよね、供養よ供養」
心にも思って無い事を呟きながら、本棚の開き戸を開ける。中から、僅かに生き延びていた父の匂いが、外へと逃げ出して来た。
父の聖域を荒らしてやろうと言う、悪戯心が湧き立ったのだ。
「何がいいかな~」
「俺も知ってる曲とかあるか?」
達也も興味深げに、後ろから覗いて来た。
「曲名は知らなくても、CMソングとかに使われたのが多分あるから、その辺とかいいかもね。バッハとかモーツァルトとか、有名所なら知ってるかもしれないしね」
達也に声を掛けながら、目線を動かす。
モーツァルト、ラフマニノフ、ドヴュッシー、シューベルト、バッハ、シューマン、リスト、ベートーヴェン、作曲者の名前を聞いただけで曲が流れて来るような、有名な作曲者達の中に、それは眠るようにポツンと並べられていた。
「え?」
それを引き出し、手に取る。
作曲者の書かれるべき所に書かれていた名前は、よく見知っている一文字。
「琴……?」
表紙に、私の名前の書かれたスコアブックだ。
「琴、どうした?」
達也が私を呼ぶ声が、ひどく遠くから聞こえた気がした。暫し茫然としながら、恐る恐る開く。
中から出て来たのは、私が小さい時、父の膝の上で落書きをした、あの楽譜。
その次も、その次も、そこにあったのは、私が父の膝の上で聞いた曲。そして、幼い私が退屈紛れに描いた落書きが、全て痛まないように処理が施され、保存されていたのだ。
「何これ?」
うっすら記憶に残っているそれらを捲り続けると、ふと、楽譜が終わった所から、スクラップ帳にされた五線譜ノートが顔を覗かせた。
そこに貼られていたのは、私が過去にしてきたイラストの仕事の切り抜きだった。
自分でも全く覚えていないようなほんの小さな仕事まで、そしてそれらのイラストの横に、父のコメントが細かく付けられていた。
『このアイドルの事は知らないが、琴らしくとても可愛く描けてると思う』
『百獣の王ライオンも、琴に掛れば肩無しだ』
『特に乙女座が秀逸だと思う。こんなに素敵なイラスト、滅多に無い』
「どういう事よ……」
スクラップノートは、何冊にも及んでいた。それらは全部、五線譜の上で父のコメントに喜び踊るように、並べられていたのだ。
「絵なんか、下らないって……」
柄にも無く、ペンの色まで変えられていた。
「私に、才能なんて、無いって……」
スクラップ帳に、ふと、雨が降る。
私は、止め処ない雨から、ノートを守る為、胸の中に抱きしめた。
「お父さん、私の事、嫌いだって……」
不意に、私を抱きしめる大きな腕があった。
幼い頃父に抱きしめられた思い出が蘇る。だけど、その腕は当然のように、父の物では無い。
「親父さん、きっと琴のこと大好きだったんだよ」
だって、
「でも、伝え方が不器用だったんだよ」
だって、
「琴もだけど」
もう……、
「親子で、よく似てたんだよ」
父はいないのだから……。
「達也、どうしよう、私……」
父の代わりに抱きしめてくれる温かい腕に、私はしがみついた。
「私、お父さんに、ごめんなさい、してないよぅ……」
達也の顔がぼやける。
声が湿り、上手く喋れない。
私は父に何を残せたのだろう。
今になって思う、私はどれだけ、自分の都合だけを並べて来たのだろう。
父は、こんなにも、私の軌跡を、追っていてくれたのに……。
こんなにも、こんなにも、愛してくれていたのに……。
私は、何も、素直に謝る事すら出来ていないじゃないか……。
「こうやって、お前が元気にしてるだけで、充分だと思うよ。ほら」
そう言って、達也は私の胸からノートをそっと取り、さっきまで私が捲っていたページを開いた。
私が初めて、イラストの仕事を貰った時のページだった。
『琴が認められた。我が事のように嬉しい』
「親父さん、琴が頑張って、認められて、ただそんだけで嬉しいって書いてんじゃん。難しく考えんなよ。そんだけでいいんだって」
「うん、うん、でも……、私、私……」
「なぁ、ピアノ、聞かせてくれよ」
達也の微笑んでくれる顔が、ふと、父の優しげな顔に重なった。
洟をすすり、「……うん」とだけ、言葉を放ち、立ち上がった。
琴と書かれたノートの、一番初めのスコアを取り出し、譜面台に置いた。
思い返せば、父に初めて弾いて貰った曲も、この曲だった。
バッハの『主よ、人の望みの喜びよ』
スコアなんか見なくても空で弾ける。だけど、父との思い出を確認するように、私は、スコアの上の音符を一つ一つ確認して、ゆっくりゆっくり、弾いた。
一小節、一小節、丁寧に音符を辿り、身体に音楽を流し込んでいく。ピアノを離れ、随分と日は経ってはいたが、私の指は幸いにも、軽やかに黒と白の大地を駆けていたあの日々を、忘れてはいなかった。
――そうだ、琴。もっと柔らかく、もっと軽やかに。
ふと、父の声が、白と黒を駆ける私の指に並走を始める。
――力を抜け。そこはもっと弱く、弱く、ピアニッシモ。
記憶の中の父が、まだ幼い私の指を褒める。
――ブラーヴォ、そうだ。覚えておけ、琴、そんなに強くなくていいんだ。弱くてもいいんだ。
途端に、涙が再び溢れ始める。
だけど、私はそのまま、目を閉じて弾き続けた。
目を閉じ、耳を澄ませると、父が、すぐそこに居てくれるような気がした。
まるで目が覚めたように、指がよく回る。今ピアノを弾いているのは、紛れも無い、父の記憶を色濃く覚えている、幼い頃の私だ。
フォルテッシモと、ピアニッシモ。
どうして私は、父の優しさと柔らかさを忘れてしまっていたのだろう。
父の強さばかりに目を奪われ、その温かさを忘れてしまっていたのだろう。
強さと弱さが共にあるべきだと、私に教えてくれたのは、他ならぬ父だったのに……。
――お父さん、ごめんなさい、ごめんなさい……。
ピアノの音で、そう問いかける。
父はもう何も言わずに、ただ微笑んでいるだけだった。
弾き終わり、指を離すと、そこには何故か泣いている達也の姿があった。
「なんであんたが泣いてんのよ」
「仕方ねぇだろ。すげぇよかったんだよ」
そう微笑む達也の顔は、もう父には重ならなかった。
夕闇が少しずつ部屋の中から消えていく。
夜が近くなるにつれ、父の匂いも薄れていくような気がした。
だけど、私の手元には、父が私を愛していたと言う事実が残ったのだ。
それだけで充分だった。
いや、それこそが、私が本当に欲しかったものだったのだ。
ピアニッシモ 泣村健汰 @nakimurarumikan
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