第4話
17の時、私は父の部屋に呼び付けられた。
「琴、今日、コンクールを辞退したそうじゃないか? 何か理由があるのか?」
言葉だけは尋ねるように、だけれども、そこに含まれた憤りを隠そうともしない。何かを咎める時の父の言い方が、私は大嫌いだった。
私はその日、父に優勝を命じられたコンクールをボイコットしたのだ
「……下らないと思ったから、出なかった」
「ふざけるんじゃない! 下らないとはなんだ!」
父はどれだけ激昂しても、絶対に直接手を上げたりしない。
私を傷つけたくないからじゃない。ピアノを弾く手を痛めたくないからだ。なので、時折物が飛んでくる事はある。
「もううんざりなのよ。毎日毎日ピアノピアノ。私は、ピアノなんか弾きたく無いの!」
父の鋭い眼光が私を睨む。心の底から怒りに震えてる姿に、思わずたじろぐが、ここで負けてはいけない。
「父さん、私、絵が描きたいの。この間、私、学校の写生大会で金賞取ったのよ。すっごく嬉しかったのよ。ピアノだけが全てじゃ無いの。皆、私の描いた絵をいいねって言ってくれたのよ」
そこで父は、机の上にあったパイプを私に向かって投げつけて来た。避けきれなかったパイプが、私の右頬に鈍い痛みを残す。
「そんなものが何になる!」
父は、顔を真っ赤にして私を怒鳴り散らした。
「才能の劣るお前は、洋の何倍も練習を積み重ねなければならんのだ! それなのに、絵だと? 下らない絵を描いてる暇があるなら、一秒でも長くピアノを弾け!」
父の怒号と、右頬の痛みが混ざり合った時、私の中で、何かがぷつりとキレた。
「こんな家、出てってやる……」
それだけ言って、私は踵を返し、部屋を後にしようとした。
「おい、まだ話は終わってないぞ! おい、琴!」
父の声を無視して、部屋を出た。自分の部屋から、鞄と財布と携帯だけを手に取って、階段を駆け下り、家を飛び出した。
玄関を飛び出した瞬間、洋に出くわした。
「どいてよ!」
泣いてる顔を見られないように、顔を背け、洋を突き飛ばすようにして走った。
若かったのだ。
幼かったのだ。
他者から見たら愚かに映るだろう。勿論、自分一人で何でも出来ると思い込んでいた訳では無い。ただ、ピアノに縛られたこの家から逃げ出したくて、飛び出したくて、そして、結局、ピアノに関しては洋ばかりで、私を顧みてくれなかった父を、何としても振り向かせたかったのだ。
その後、母と連絡を取ったが、父は私が謝るまで、頑として許さないと言っていたらしい。
そして、私は謝る気なんてサラサラ無かった。半ば意地になり、アルバイトと母の援助を得て、通っていた高校の近くで一人暮らしを始めた。
一人になった私は、油絵、水彩、イラスト、漫画、とにかくひたすらに絵を描き続けた。色んな絵に挑戦する事で、自分にはイラストが一番向いていると感じ、そのままイラストレ―ターを目指すに至る。
私が家を飛び出してからこちら、洋は時折逃げ場を求めるように、私のアジトに転がり込んで来た。
「琴はずるいなぁ」
「ごめーん」
「僕も一人暮らししたいなぁ」
「でも、ピアノ弾けなくなるんだよ?」
「そうなんだよなぁ、それはちょっときついんだよなぁ」
幸いにして双子の間には、変わらず軽口を叩けるような気楽な空気が流れていた。
きっと洋は、私に、自分がピアノを続けなかったらと言うイフの未来を見ていたのだろう。それは、私も洋に、もしもあのままピアノを続けていたらと言う未来を見ていたから、わかる。
私達は、洋と、琴の双子だから。
二人合わせて、洋琴、そう、ピアノになるのだ。
結局私は、自分の名前と、洋の存在の所為で、一生ピアノの呪縛から逃れる事は出来ないのだから。
そして、私が家を飛び出して六年後、あの日以来一度も顔を合わせる事も無く、父はあっさりと逝ってしまった。病院に駆け付けた時には、既に全てが終わってしまった後だったのだ。この一点においてだけは、未だに後悔しか残っていない。
勿論、父に許しを乞うつもりなんて毛頭無かった。だけど、もしそうだったとしても、喧嘩別れのままだなんて……。
きっと私には、そう思う資格すら、ありはしないのだろうけれど……。
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