epilogue.
…職員部屋で蹲る巨体を撫でる。
聴覚過敏のせいではなく…そこらじゅうから聞こえる言葉たちに苛まれ、頭がいっぱいになってしまったから。
それでも、この人は…乱れた呼吸の合間にも力強い声音で、青ざめた顔に無理矢理笑みを浮かべて、僕の手を握る。
「大丈夫だ。もう少ししたら、またあの子たちと話に行く…」
「いや…無理はしないでください。そろそろ休憩時間になるので、一旦、散歩にでも行きましょうよ」
「…なら、連れて行きたい子が居るんだ」
「…ええ。その子も一緒に」
「ああ。一緒に」
×
僕には彼らの言葉はわからない。
聞こえる鳴き声は、どの子も同じように、ただ痛々しく、哀しげだとしか感じない。
それでもこの人は、全ての声に区別がつく。
だからこうして、一匹、一匹、ゆっくりと心を解きほぐしていく。
…この仕事についてまだ一年と少ししか経っていないが、この人に救われた子は割と多い。
その分、この人の疲労は僕らよりも重症だが。
「へえ〜、初お散歩だね、マルちゃん」
「ですよね。最初はまったく僕らに触らせてもくれなかったのに…ほんと、助かってます」
「休憩時間にお散歩を任せちゃうのもなんだけど、よろしく頼むよ。みんなのお昼ご飯は俺ちゃんがあげとくから」
「噛まれないようにしてくださいね」
「こんなの甘噛みだよ。愛だね、愛!」
噛み跡だらけの腕をひらひらと振る同僚に、こちらも噛み跡と引っ掻き傷だらけの手を振り返し…僕らは外に出た。
×
昼間ともなるとかなり暑い。あまり暑いと、この子達を散歩に出すことも出来なくなる…ストレスが溜まれば、自分の尻尾を噛みちぎったり、ケージに身体を打ちつけたりなど、投げやりな行動をとってしまう。
「これからは…散歩させるなら、なるべく午前中にしませんとね」
「…マルは、それでも喜んでいるぞ」
「見りゃわかります…珍しいですね、すげえ尻尾振ってますもの」
「風が心地良いらしい」
夕立の予報がある…まだ弱い風だが、暑い気温に焼かれる身体を冷ましてくれるくらい、冷たく感じる。僕らの髪や、マルちゃんの白い毛をふわふわとゆらし、靡かせる。
そうだよな…ずっと、あんな狭い場所に閉じ込められていたら嫌だよな。
「…もっと自由にさせてやれませんかね、どうにか」
「…マルが警戒した」
「ん…はい?」
言われるより先に、マルちゃんが立ち止まる…じっと見据える先を確認すれば、若い母娘がこっちを見て、顔を綻ばせていた。
そしてこっちに寄ってくる。
警戒したマルちゃんが噛み付かないように、リードを強く持つ。
「可愛いですね」
「施設の…保護犬、ですか?」
「ええ、はい…今はまだ、人間に慣らす訓練の最中でして、今日初めて、こうしてお散歩させているんです」
「ええ〜、こんなに可愛いのに…」
「可哀想に…」
びく、と身体を強張らせたのはマルちゃんではなく、僕の隣のこの人だ。
わかってる。あんたが何を言いたいのかはわかっている…可愛いとか、可哀想とか、そういう言葉を簡単に使ってはいけない。この子達の傷はそんな生易しいものではない…そう言ってやりたいんだろう。
…でも、あんたはちゃんと人間になったから、ぐっとその言葉を飲み込んだんだ。よく耐えた。偉いよ。
「…私たち、先月…飼っていたわんちゃんが亡くなってしまって」
「…ええ」
「この子…娘は、最近まで元気がなかったんです。それで、また次の子を飼おうと決めていまして…」
「テレビで見ました。保護施設って、新しい飼い主さんを探しているんでしょ?」
…どこかまだ病んだ色を残した、およそ十三、四歳くらいの娘が、マルちゃんに手を伸ばしながら僕を見上げる。
「うちなら幸せにできるよ。お家も広いし、玩具もたくさんあるし。 ね、ママ!」
途端、マルちゃんが吠え、伸ばした娘の手に噛みつこうとする…僕はリードを強く引っ張り、それを止める。
同時に。
「座れ、マル」
…低い声を響かせ、僕の横で彼は制止の言葉を言い聞かせた。マルちゃんはぴたりと動きを止めた。
…母娘は呆然とする。
現実を見たと、驚いた顔をする。
僕は頭を下げ、マルを連れて数歩距離を取る。
「…すみません。まだ慣れていないもので」
「…こ、こちらこそすみません」
「や、やっぱり無理…」
娘が顔を歪めた。
「こんなんじゃ抱っこもできないし…一緒に遊べないじゃん。そんなの楽しくない…!」
…ほら見ろ、それが本性だろう。
マルちゃんが唸る…嫌悪をむき出しにするのは、マルちゃんの当然の反応なのに、むしろ娘の方が、忌避の目を向けて距離を取っていく。
「…行こう、ママ」
「あ…し、失礼しました」
「ええ…熱中症にお気をつけて」
…僕はこれ以上なく穏やかな作り笑顔を向けて、母娘に手を振った。
「…ふざけるな」
「ですよね…子供だからとか、まだ心に傷があるから、なんて言い訳もできませんよ」
僕らは施設への道を引き返す。
爪を噛みながら歩く隣の男は…以前に比べて感情が豊かになり、より複雑になった。前はそんなに怒ったりしなかったが、最近は苛立ちも抱くようになり、言葉がわかる保護ペットたちよりも、むしろ人間へのストレスが強くなっている気がする…まあ、当たり前か。
「…爪、なくなりますよ。また付け直しに行きませんと」
「…ああ、すまん」
「いや、あんたの怒りは当然の感情です。むしろせいせいしませんか…あんな人たちに、この子たちが連れて行かれなくて良かったと」
「ああ…だが、あんな人たちに、これから飼われてしまう子が居ると思うと…」
「…そうならないことを信じましょう。それを見極めるのも僕らの仕事です」
「……」
僕らが他人へ口出しをできる場所は限られている…道端で出会した、明らかに安易な考えを持ったその人たちへ、『あんたらには覚悟がない』と指摘することはできない。所詮は他人の戯れ言。聞き入れてくれるはずもない。
…責任も覚悟もない、身勝手な奴らがこの子達を傷つける。何年経っても施設の子達は減らない、むしろ増える一方で。
この人はその現実を受け入れて、必死に耐えている…自分と同じ境遇のちいさな命が、あまりにも多すぎることに怯えながら。
…もしかしたら、僕らの知らない場所で。
例えば、公園でブランコを漕がずに座っているだけの男の子は…例えば、横断歩道を母と手を繋いで、楽しげに歩く女の子は…。
例えば、どこかの大きな病院に隠された地下で、彼らと同じように、閉じ込められて…来るはずもない新しい飼い主を待つその人間は。
この人と同じものかもしれない。
「…難しいですね」
施設の郵便受けに、ゴミを捨てるように突っ込まれた広告の束の中には…『ビサイドペット』などとデカデカと書かれたチラシが混ざっていた。
…最近、公になってきた。
身勝手な奴らが増えてきたということだ。
彼らはそんなこと望んでいないのに。
…僕はゴミのような広告をまとめて郵便受けから引き抜き、八つ当たりのように握り潰す。
と、マルちゃんが不安げな目で僕らに振り返る…おっと、いけない。この子たちは人の感情に過敏だ。苛立ちは当然、悲しみも、楽しいという感情だってもちろん、簡単に伝わってしまうから。
僕は笑って見せる…伝わらないかもしれないけど、安心させるために「大丈夫」と付け加えて。
隣の男もまた微笑みを浮かべていた。ああ、あんたの笑顔なら伝わるだろう。
元々は、わんちゃんですものね。
「…そうだ。冷蔵庫にプリンが入ってましたよ。まだ休憩時間ありますし、一緒に食べませんか」
「三枝さん」
僕が問いかければ、きらりと青い瞳を輝かせ、三枝さんは大きく頷いた。
「ティラミスの味はあるか?」
「あったと思います。でも、早い者勝ちですよ」
きっと、三枝さんがもふもふだった頃のような、幸せな日は。
きっと、僕が三枝さんと出会う前のような、なんでもない日は。
きっと、二度と来ないかもしれないけど。
僕らが何も知らなかった頃には戻れないだろうけど。
それでも、日々、ささやかで新しい幸せなら、いくらでも見つかる。
散歩に行ったとか。
美味しいものを食べたとか。
晴れた日だとか。
…その分、もちろん悲しいこともあるけど。
でもきっと、まだ、必ず。
僕らの日常は続く。
悲しみと、楽しみと、小さな幸せを探して。
今日はいい日になる。
明日はもっと。
この先も、ずっと。
そう願って。
終.
colchicum. 四季ラチア @831_kuwan
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