第16話
後悔とも、寂しさとも、恐れともつかない異様な感情が胸の中で渦巻く…僕へ振り返った三枝さんの眼差しには、出会った頃の弱々しさもなければ、自分のことも理解できないような卑怯な問いかけさえ浮かべない。
それは確かな自分を得たような、心の芯から人間になってしまったかのような眼をしていた。
僕はそれを、少しだけ恐ろしく思い、寂しく思い…どうしてか後悔した。
×
「…お話ってのは、何です?」
午前の日差しで暖まる窓辺、日向ぼっこのように座る三枝さんの横に僕も座る。三枝さんが開けた窓から吹き込む風が、夏も近い蒸し暑さを吹き流し…涼しさを感じて心地が良い。
三枝さんは笑っている…穏やかに。柔らかく。吹っ切れたかのように。それとも、人間らしく…だろうか。緩やかに上がった口角と、眩しい日差しに目を細め。三十代の外見は、子供のような、澄んだ笑みを浮かべている。
「この前、あなたが言ったこと…」
「この前…」
「したいことがあったら言っていい、と…言ってくれただろう」
「……ああ」
僕はのんびりと相槌を返すが…内心は焦っていた。自分が言った言葉を忘れていたわけではないが、あれに深い意味を込めたつもりは一切なかったんだ。
単純に…三枝さんには自由でいてもらいたい。元々もふもふのわんちゃんだった…その生き方を、無理矢理人間の姿にされたことで、本来の『らしさ』を奪われ、束縛され、痛くて苦しい思いをして今まで生きてきたから…そんなことなんかもう忘れて、人間の姿でも本来のわんちゃんらしく、自由気ままに、のんびりと穏やかに過ごしてもらいたい…そういう意味で言った。
言ったのに。
…三枝さんの表情は、これから自分が伝えようとしている思いに自分で期待して、僕が肯定してくれると期待して、未来に想いを馳せる…夢を語る子供と同じだった。
…だから。
僕はそれを認めたくなくて。
「…どこかにお出かけでも行きたいんですか。どこへでもお付き合いしますよ」
なんて、必死にはぐらかす。
この人がもっと単純で、できればはじめから何も変わっていない、バカ以上のバカであってほしくて…三枝さんが考えている話から逸らしてやろうと、笑う。
「…散歩は午後がいい。そこの公園も…もう一度行ってみてもいいかもしれない」
「…また僕に置いていかれるかもしれませんよ」
「あなたは俺を置き去りにしない…信じている」
…強迫的に条件付いたそれさえ解き放ち、三枝さんは僕の目を見る。
「…やりたいことが見つかった」
三枝さんの青い瞳に映る僕が、偽物の笑みで硬直している。
今なら間に合う。三枝さんの言葉を止めてしまえば、この人は元の、わんちゃんに戻るはずだ。自由でいい。気ままでいい。何も傷つくこともなく、悲しむこともなく、ただ本能のままに眠って食べて遊んで眠る…許されなかった平穏な日常を過ごせばいい。
だから。
頼むから。
「…俺…俺は…」
「あなたがやっていたことと、同じことをしたい」
×
…だめだ。
あんたに人間らしさを求めた僕が間違いだ。
人間になんかなっちゃだめだ。
三枝さんは人間じゃない。
人間になんかならなくていい。
だから。
やめてくれ。
だめだ。
そんなこと言っちゃ、だめだって。
三枝さん。
三枝カイ。
カイ。
×
なんて、言えるわけがなく。
「…僕がやっていたことってのは、つまり」
「ん…よくわからないが、この前の…あなたの友達の家に行った時のような…」
三枝さんは首を傾げながら呟く。
「…保護ペットのお世話ってことですか」
「…あなたもやっていたことだろう?」
「…正確には、同僚がやっていたことになりますね。僕の仕事とは違います」
僕がやっていたことは、三枝さんのような境遇のもふもふたちを、無理矢理天国に送る仕事だ…なんて言えるわけがないが。
「……そうか」
「で…つまりあんたは、僕の同僚と同じ仕事をしたい、ということですか?」
「…そうなるのか?」
三枝さんは首を傾げる。
「そうなりますね」
「…なら、そういうことをしたい」
…三枝さんは頷いた。
…僕は、すぐには答えを返せなかった。
まさか、元々犬だった三枝さんが『就職したい』などと言い出すとは思いもしない、いや、誰がそんな思いを伝えてくると予想できる。この人の脳は本来犬で、僕は人間の思考を教えてもいなければ、ここへ来てからまともな躾なんかしたこともない。
なのに。
「…何が…きっかけですか」
「…きっかけ?」
僕はわざと現実と事実を突きつける。
「あんた…この前、僕の同僚の家に行った時、どうなりましたっけ。わんちゃんの鳴き声に苦しんで、まともに動くこともできなかったじゃないですか」
「……」
「実際にそういった仕事に就けば、もっと多くの声に苛まれます。聞いてて痛々しい、悲鳴のような声が四六時中…眠る時に、彼らの声の幻聴さえ患うほどに」
「……」
「苦しいですよ。人間の僕ですらそうなるんですから…僕が思うに、彼らの言葉がわかるあんたには、到底耐えられる現場ではありませんね」
「……」
沈黙し、俯く三枝さんを見れば、僕は少し安堵する…このまま引き下がってくれと祈る。安易な想像だったと理解して、自分の限界を思い知って、無知に戻ってほしかった。
…しかし。
「…それでもいい…俺はそれになりたい」
三枝さんはまた顔を上げて、僕をまっすぐ見つめ、決意を述べる…人間のように。
「俺にもできることがあるとわかったんだ。あなたの友達が言った…俺でも役に立てることがあるのかもしれない。い、犬…でも、人間じゃない俺でも…」
このバカ。バカ犬。バカ野郎。
「苦しいのは耐える…もう迷惑はかけない。悪いことはしない。俺は、俺にできることをやって、あなたと…」
「僕はあんたが苦しむところは二度と見たくない‼︎」
───…僕は吠えた。
弱虫のように。呼び止めるように。縋り付くように。全力で、全身で吠えた。
「あんたは、あんたは本来、犬なんですよ。もふもふで、大きくても小さくて、寝ることと遊ぶことがお仕事の、ちいさな生き物なんです」
過保護だとか、執着だとか、未練だとか…そういう身勝手な想いだとは自覚している。けれど、僕の言葉にだって偽りはない。
「なのにあんたは、そんな、犬らしい自由な生き方すら勝手に奪われて、ずっと苦しい思いをしてきた…それが、ついさっき、ようやく、完全に解放されたんです。だからあんたは、もう二度と苦しまなくていい。あんたがしたいことをすればいい」
僕はこの人の苦しむ姿を散々見てきた。雨の中で蹲り、僕に助けを求めた卑怯な目から始まって…寂しさから部屋を荒らされ、エレベーターで床に叩きつけられ、飼い主に怯え、心を失い…感覚過敏は消失することはない生まれながらの体質、傷を負えば自然治癒などせず、トラウマを刺激すれば、きっと三枝さんはまた投げやりな行動をするのではないか。そうだ、この前まではドアだって開けられなかったじゃないか。
「でもそれは、あんたが今言っている、そういう生き方ではないんです、絶対に!」
そんなこの人が…どうして人間と同じことができる、できるわけがない。ただ苦しむだけだ。追い込まれるだけだ。
「…頼むから、頼みますから…」
「…何だ?」
「…あんたは、人間になんかならないでください。あんたは自由に生きてください…もう二度と苦しまずに、何も嫌なものと出会うことなく…」
「……どうして?」
「……」
それ以上の言葉は吐けない…これ以上訴えれば、僕は惨めに涙をこぼす。それだけはしたくなかった。
でも今度は僕が項垂れて…暖かい陽が反射する眩しいフローリングの床を見つめて、三枝さんの言葉を待った…待っていたのは、三枝さんの気が変わることだったかもしれないが。
それがあり得ないことだとはわかっていながら。
…三枝さんは。
「…俺は」
風が吹く。
「…俺は、あなたに憧れたから、そうしたいと…そうなりたいと思ったんだ」
雀が鳴いている。
「あなたのように、優しい人になりたい。あなたのように、人を思いやる心を持てるようになりたい…人間だけじゃない。人間じゃないものにも、生き物にも…」
「……嫌な人にも」
「嫌なものにも、優しくなれるように」
口調は拙い…覚えたての言葉を無理して使うように、まるでその声に似つかわしくない喋り方で、ゆっくりと、しかし確かな意思を乗せて。
三枝さんは…。
「…もし、できるなら」
「あなたが居てくれれば、きっと俺は強くなれると思う…苦しいことも乗り越えられる。きっと」
…バカな人だ。
なんだ、何も変わっていないじゃないか。
三枝さんはひとりにはなれない…結局、僕が居なければならないことに変わりない。それはわかっていた。だから余計に、見たくないと訴えたのだが。
…バカな人だ。
自分を過信して、純粋に夢を見て、あれだけひどい目に遭ったというのに、まるで社会の悪意を知らない顔で、言葉を紡ぐ。それはある意味では強い決意なのだが。
…僕は、この人に置いていかれるような感覚になる。
変わらないその意思には、不安やら、後悔やら、寂しさやら…様々な感情を抱いて、胸の中で渦巻いて。
…したいことがあるなら言え、なんて言った自分に後悔して。
…三枝さんが本当に人間のようになってしまったことが、なんだか哀しくて。
止めたところで、きっともう聞かないのだとわかっているが…さっきも言ったように、僕は三枝さんが傷つくところなんて二度と見たくないから。
「…三枝さん」
「何だ」
未だ反射的な相槌を打つくせに。
「あんたは…」
「ああ」
「あんたは、それでいいんですか」
苦しいですよ。痛いですよ。つらいですよ。
逃げたくなった時にはもう手遅れで。
ずっと、嘆きや怒りや寂しさや悲しみの声が付き纏って、夢の中でも泣かれるんです。
身体にも傷をつけられます。
心にも傷がつきます。
それは治ることはありません。
背負い続けなければならないものです。
覚悟と責任が必要です。
「…それでも、いいんですか」
僕は顔を上げ、三枝さんの目を見た。
陽の光がきらきらと反射する青い瞳。
作り物の灰色の髪。
まだ傷が残る顔や身体。
元々犬だった男は、ふわりと僕へ微笑み。
「…それだけじゃないだろう?」
「そこには、優しさがあるだろう」
「そこには、慈しみがあるだろう」
「そこには、暖かさがあるだろう」
「俺を助けてくれたように、あなたはその子たちを助けてくれるだろう…だから、俺も、その子たちを助けてあげたい…そういうところでもあるんだろう?」
夢だ。
希望だ。
何もわかっていない。
そんな優しい場所じゃない…綺麗事と夢みがちな言葉ばかりでは彼らは救えないし、突きつけられる現実に苦しむのは、僕らも彼らも一緒だ。
同僚と話したように…人間の社会は生きづらい。人間ですら耐えられないのだから、元々犬だった三枝さんは、そもそも馴染めるだろうか。
人間ペットだとばれれば好奇の目で見られるだろう。感覚過敏の様子は煩わしいものとして、偏見の目を向けられるだろう。
三枝さんはそれに耐えられるか…ただ僕と一緒に居るだけで、その苦しみや痛みを、耐えられるか。
「…何があっても」
「…ああ」
「…あんたは、耐えられますか」
「…ああ」
「何があっても、あんたは生きられますか」
「ああ」
「何があっても生き続けられますか」
「…あなたが居れば」
甘いな…保証なんかできないのに。
何らかの事故があって、僕の方が先に死んでしまうかもしれないのに…なんて縁起でもないから言わないが。
…目の前の男が、強い眼差しで僕を見る。ゆるぎない意思で。少しだけ夢を見ながら、少しだけ僕に甘えるような表情で。
でも、もうどこにも、卑怯な目なんて残っていないんだ。
…変わってしまった。
いや、もしかしたら…この姿だから変わってしまったと思うだけで、そう錯覚するだけで…彼らは、本当は人間と同じ意思を持って、誰かを助けたいとか、同じことをしたいとか、誰かに憧れるとか、そういう感情を抱くのが普通なのだろうか。
介助犬とか。警察犬とか…そんな躾けられた子ばかりではなく、どの子も等しく、平等に、同じように、僕らと同じ、確かな意思が…。
ああ、あってもおかしくないんだろうな。
きっと、僕らの理解が足りないだけ。
「…約束します、三枝さん」
「何だ」
これ以上、僕に三枝さんの意思や希望、夢を否定する権利はない…元々が何だったから、あんたらしくないから、なんて言って止めるのは狡い科白だ。
受け入れよう。
受け入れて。
望まれたから。
僕に今できることは。
僕がこの人のためにできることは。
「…何があっても」
「…ああ」
何があっても、僕は三枝さんの側に居ます。
きっと。
ずっと。
側に居ると、約束します。
…見えない未来に、口約束なんて通用しないだろう。何かが起これば、その約束が破られてしまう時も来るだろうが…それでも僕は、硬く、強く、心の底から誓った。
薄く、脆い言葉だが。
言い放った直後には、どこにも残らず消えてなくなる声の音だろうが。
それでも三枝さんはしっかりと受け取ってくれて。
見えない未来に夢を見て、青い瞳を輝かせ。
笑う。
微笑む。
無邪気に。
そんな話をした。
雨の予報は当分ない。
夏が始まる。
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