第15話

三日後…朝食を終えて、軽く掃除を済ます。大して散らかしてもいないし、物が多いわけでもないので、棚の埃を払ったり、ベランダを掃き掃除したり、そんな程度だ。

三枝さんはやっぱり、どうしても犬の本能なのか体質なのか、やることがなくなればぼんやりと眠気を覚えるらしく…掃除が済むと、ローソファの上でぼうっとしていた。

「眠いんですか」

「……すまん」

「いいえ…寝てていいですよ。今朝は早かったですものね」

僕はゴミ袋にゴミをまとめて閉じる…ひとりの時よりも増えたゴミの量。それでも多くはない。

僕はそれを持ってリビングを出る…とその前に、一応声をかけて行かないと。

「ゴミ出しに行ってきますね。すぐ戻りますが、どうぞ、ゆっくりお休みください」

「ん…」

ごろんとソファに寝転がる姿を見届けて、僕はリビングを出て、玄関を出た。


×


ゴミステーションに袋を捨て…それだけで終わり。ものの二分もかからず、僕は部屋に引き返す予定だった。

…けど、外に出た時から妙に視線を感じ、それがずっと僕を追いかけていることに気づいていた。危機感などは覚えないが、その感覚ときたら薄気味悪い。それは今も僕の近くに居る。

…なんとなく察していた。名前はわからないが、

「…何のご用ですか」


「三枝さん」

…微かに気配がゆらぎ、カツ、と足音が聞こえた。

僕が振り返れば。

若干大きな鞄を肩から下げて、三枝さんの飼い主の女が、柱の陰から現れた。

「……どうも」

「…ええ、どうも。おはようございます」

前に見た時より、身なりは整っている。髪は乱れていないし、化粧も整っている。しかし前に見た時よりも、どこかやつれて見えた。だから薄気味悪さは変わらない。

…腹の底で苛立ちが湧く。

何をしに来たかはわからないが、この人が僕の住む場所へ現れたのなら、理由はひとつしかない。同じ苗字の人間。

三枝さん…飼っていた人間ペットの三枝カイに関係することで現れた。それは間違いないだろう。

僕は周囲を見回す…三枝さんを連れ戻しに来たのなら、どこかに警察を呼んでいてもおかしくない。或いは僕をここに足止めさせ、今頃部屋に突入されているか…。

「…警察は呼んでいません」

…ばれてたか。

「あー、そうですか」

前回よりも落ち着いた口調…この前は散々ヒステリックなため口で罵倒されたが、今回はきっちりと敬語を使う。ヒステリーも起こさない。

…だから。だから何だよ。

「なら、何しに来たんですか」

その身ひとつ、たったひとりで僕の元へやってきた…ということは、三枝カイを返せと直談判にやってきたか。

よく考えりゃそうか…警察を呼べば事態は大ごとになるだろう。僕は誘拐犯として。この女は虐待犯として。人間ペットという公にできない存在を被害者として中心に、お互いに裁判沙汰になる。とてつもなく面倒な事件になるだろう…それは確かに、嫌だろうな。僕も嫌だね。

沈黙が続く…日陰に居ても、まだ朝の早い午前でも、夏が近い気温は、寝起き数時間の身体には堪える。湿度もあって少し暑い。

それに僕は人を待たせているんだ…寝ているが。

「…黙ってちゃわかりませんね。何をしに来たと聞いているのですが」

「……」

「…三枝カイに関係するお話なのは承知しております」

「っ……」

飼い主の顔が少し引き攣る。

だから何だって話なんだよ。

「朝早くから、こんな場所で待ち伏してまで…三枝カイに何のご用があるんですか」

「…すみません」

前回とうって変わったその静かな声音が、逆に癪に触った。

謝罪だと…誰に。僕にか。三枝さんにか。

馬鹿馬鹿しい。無意味な謝罪だ。

「…先に言っておきますが」

寝起きの喉で声を張る。

「三枝カイはお返ししません。ある程度ご本人からお話は聞きましたが…どんな事情があれ、あんたはあの人を二度も傷つけた。ここであんたにあの人を返して、三度目がないとは思えない…あんたを信用できません。それは僕も、三枝カイも同じ気持ちです」

「……はい」

飼い主は身を縮め、若干ふるえる。

三枝さんの名を聞けば恐怖を思い出すとでもいうように…あの巨体にのし掛かられ、怒り任せにされた行動。しかしそれは単純に、この女が奪い取った物を取り返すための、わんちゃんとして当然の行動だったわけで…それを人間と判断したのはこの女の頭だ。三枝さんに、暴力という思考はなかった。

だから、その怯えた姿すら腹が立つ。

「…僕のお話にご指摘がなければ、お帰りください。蒸し暑い中、いつから僕を待っていたんですか…熱中症になりますよ」

「…すみません」

だから、何に対しての謝罪なんだって。

僕は深くため息をつき…これ以上は時間の無駄だと思い、マンションの中へ引き返す。

…だが。

「あの…!」

呼び止められる。

いい加減にしろ。

「お話があるなら、最初からちゃんと、はっきり言ってください!」

「こ、これ…を…‼︎」

僕の怒号に怯えながら、飼い主は僕へ、ファスナーで閉じられたぶ厚いファイルを差し出した。

数枚の書類と、一枚のカードが入っている…カードには三枝さんの写真。

「…何ですか」

「し…診察券と…あの子の…カイの身体についての…マニュアルと、それから…」

激しい吃り混じりの説明を聞けば、このファイルの中には、三枝さんの生存に関わる内容の書類やら何やらが全て入っているということだった。

「た、確か…私、あの子に…怪我をさせてしまったはずなんです」

「ええ、顔にまでありましたね」

「あの子の身体は…傷が自然に治ることはないので、こ、これで…この番号の病院に連絡して…ど、どうか、治してあげてください。その為のお金も同封してあります」

───…心臓が冷えていく。息が詰まって、口の中が干からびていく。自然と歯を食いしばる。

どうしようもない怒りが込み上げる。

この女は何を言っているんだ。

「…わ、私は…もう、カイと会う資格はありません。あなたの言う通り、二度もあの子を傷つけて…」

黙れ。

「きっと、もう…私には、あの子を愛することはできないのかもしれません…これ以上一緒に居ても…あ、あなたの言う通り、三度目が起こってしまうかもしれない。それではあの子は…本当に死んでしまうかもしれないから」

黙れってば。これ以上何も言うな。

「人間ペットが高度なサイボーグだと過信して…私は、カイを…カイの心を殺してしまうかもしれない。そうなるくらいなら…貴方のような、親切な人の元に居る方が…幸せなのでしょう」

「……三枝さん」

「あの子は…」


「カイはうちに来てはいけなかったんです。うちにいては、可哀想な子だったんです…」


…自分でも制御が効かなかった。

気がついたら、僕は女に迫り…怒りと低酸素に眩む視界で、だいぶ近くに女の青ざめた顔を見つめ、見つからない言葉を探し、歯を食いしばる。

気を抜けば脚の横で握りしめた拳を振り上げてしまいそうで、堪える。腹の底で煮えるやり場のない感情が吐き気に変わり、堪える。喉元で声が爆発し叫び出しそうで、堪える。

堪えて。堪えて。堪えて。堪えて。

ようやく見つかった言葉は…。

「…卑怯者…」

自分のものとは思えない声が耳に響いた。


×


どうしようもない怒りだとは理解している。

三枝さんの飼い主のこの女が何と言おうと、僕は怒りを爆発させていただろう。

想像していたように、『三枝カイを返せ』と言いにきたとしても。

こんな風に、『三枝カイを任せる』と言いにきたとしても。

僕はどちらにしろ、こうして苛立って、腹が立って、怒って、同じことを言い放っていただろう。

卑怯者。

どちらにしろ卑怯者なんだ。

三度目の暴力が目に見えていながら『返せ』と言いにきたのなら、それは世間的なことを考えた自己防衛と偽善の行動としか思えないから、僕は彼女を卑怯者と言っただろう。

けど、彼女がこうして『任せる』と言いにきたから…浅はかな押し付けとあまりの無責任に腹が立った。『うちに来たのが間違いだ』という科白は、彼女にとっては自己否定の言葉なのだろうが、どう聞いたって、仕方がなかったとか、運命の間違いだとか、責任逃れの身勝手な言葉にしか聞こえない。

覚悟がなさすぎだ。

安易だ。

この女がどれだけ自虐の言葉を吐こうと、それで三枝さんに負わせた傷が癒えるわけではない。それで三枝さんが全てを忘れるわけがない。

優しい記憶と痛い記憶は嫌でも繋がって、数年後に脳機能が衰えて停止するその時まで、三枝さんは絶対にこの女を忘れることはない。

自己否定の感情だとか、自分を卑下する言葉とか、そんなものは思い出を忘れるための人間の言い訳だ。罪悪感を背負ったふりして、自己嫌悪の苦痛から逃げたいだけだ。

それは僕が言えた話ではないけど…それでも、今僕の元に居る、あのバカなほど純粋な心を持つ、人間になった男の傷を思えば、吐かずにはいられなかった。

卑怯者。

卑怯者。

卑怯者。

どこに行ったって、何を言ったって、あんたに逃げ場なんかないってのに…。


×


「…簡単に言ってくれますね」

…続いた僕の声は、割と穏やかになった。

これ以上怒る気になれないとか、怒るに値する人ではないと思ったとか…そう言う感覚ではなく、ただ、すっと冷めて、覚めた。

腹の中で疼いていた不快感を、何度目かの深いため息に変えて大きく吐き出し、僕は女のふるえる手からファイルを受け取る…傾ければ、ファイルの中で、三枝さんの診察券らしき小さなカードがカタリと動く。

カードの写真の三枝さん…不安げな顔をした、まだ新しく綺麗な、三十代の外見の、中身七歳の元犬。

ビサイドペットの登録番号。

悍ましい生存証明書の束。

こんなものまで預ける捨てるのか。

「…わかりました。お引き受けします」

「…すみません」

本当に意味のわからない謝罪だ。

「僕はむしろ感謝します…あんたが、自分が行った仕打ちを見直し、三枝カイを手放すと決断してくれたことに。三度目なんて、あってはいけませんものね」

「……はい」

「ひとつお聞きしますが…あんた、今後、またペットを飼う気持ちはありますか」

「いいえ」

「…良かった。あんたは二度とペットを飼わない方がいい。あんたには、覚悟も責任感もなさすぎますから」

「……はい、すみません」

「僕に謝ってどうするですか」

「…すみません」

『はい』、『いいえ』、『すみません』…まるで反射的な相槌や返答。言葉を知らないかのような拙く弱い口調で。ペットが飼い主に似るとは思えないが、その弱い姿は、出会ったばかりの三枝さんに近い印象もある…しかしはっきり言って、今は三枝さんの方がよく喋ると思うな。

「三枝さん」

…同じ苗字の女を呼ぶ。

「誓ってください。街中…例えば偶然、三枝カイに遭遇してしまった際は仕方ないと思いますが…二度と彼と関わらないと」

「……」

「偶然出会しても他人になってください。三枝カイが近づいても離れてください。勿論、ここに訪れるのも、これで最期にしてください」

「……そ」

「それで三枝カイが傷ついたとしても…あんたがあの人と会う資格はもうないんです。それはさっき、あんたが自分で言ったことでしょ」

…向けられる眼差しは、どこかで僕に許されることを望む卑怯な目。隙さえあれば反論をする気力のある狡い目。まだ三枝さんを思っている、思っていると訴えてくる、不安定な目。

…ただ寂しい目だ。

寂しさの埋め合わせを求める、弱い目だ。

人間の瞳だ。

「…愛玩動物などと言いますが、彼らもまた僕らと変わりない、生き物です。あんたの心の穴を埋めるためのぬいぐるみじゃない」

「…はい」

「…二度と関わらないと、誓えますか」

「……」

飼い主は小さく頷くと…俯いたまま、持っていた大きな鞄に手をかける。

「…あの」

「はい」

「…これは、だめですか」

飼い主はリュックの中から、黄色の毛布を取り出した。

「……カイが、使っていたものです。きっとあの子の、自分のにおいが付いているので…安心できるかと思って…」

…安心ね。

考えられなかったのか、それとも作為か…三枝さんのにおいが付いているのなら、間違いなくこの女のにおいも付いているはずだ。果たして三枝さんはそれに気づいて、安心できるのか…それとも、嫌なことを思い出すのか。

…まったく、もう。

「…引き受けます」

だめだったら即捨てればいい。

僕は毛布を受け取った…中に違和感がある。

僕が受け取ると…飼い主は俯いたまま軽く会釈し、数歩後ずさる。話はこれで終わりか。

「…最後にもうひとつ」

「…はい」

顔を上げる飼い主へ。

僕はわざと、悪意を含んだいびつな笑みを浮かべてみせる。

「…あんたには、僕が親切な人に見えるんですね?」

飼い主は青ざめた。

そして。

「か、カイを傷つけたら‼︎ 許さないから‼︎」

どのクチが言ってんだか。

僕はからからと、午前の空を見上げて笑う。

「冗談ですよ…あー、そうそう」

僕は毛布を開き…三枝さんが取り返したかったピンクの派手なぬいぐるみと一緒に入っていたそれを、元飼い主の女へ差し出した。

「彼はもう、ネギ類もチョコレートも…僕らと同じも物が食べられるようになったんですよ」


…もふもふだった頃の三枝さんを抱きしめる小さな女の子の写真。

幸せだった頃の、ただの紙切れだ。


×


エレベーターを待ちながら封筒の中を少し読んでみれば…三枝さんが人間化された理由が書かれていた。

脚の関節が外れかけ、歩くのが困難になったから。

それは三枝さんの自由を取り戻すための手術だったのか…あの人の親が何を思って、三枝さんを人間にしたのか、その理由は、紙の束だけでは、答えには辿りつけなかった。

一種のアイだったのだろうか。

だとしても…一体どうして、三十代といういびつな外見にしたのだろう。不明だ。


×


…部屋に戻ると、三枝さんが起きていた。

閉めていたはずのベランダの窓が開かれ、三枝さんは窓辺で座っていた。

「目ぇ覚めちゃいましたか?」

「……ん」

三枝さんは振り返らずに相槌を打つ。

書類や毛布などは一旦、僕の部屋に置いてきた…いきなり見せたなら、パニックを起こすかもしれないと思ったから。

でも、それが無意味だとは承知していた。

僕の身体に移り、染み込んだそのにおいは、きっと三枝さんに伝わる。

「三枝さん…」

「遅かったな」

…やけにはっきりした声。

微睡んでいない。

僕は少し息が詰まった。とっくにばれているのかもしれない…そうとわかっていながら、僕は少しはぐらかす。

「…ちょっとしたトラブルがありまして」

「…人と会ったのか」

「人とは会いますよ。マンションですから」

「…そうだな」

三枝さんは淡々とした声で、時折、笑うような呼吸を吐きながら…それでも僕へ振り返らない。

何を考えている。

わからない。

「……三枝さん」

「声が聞こえたんだ」

ぞく、と…心臓に寒気がはしった。

たぶん、最後のヒステリックな声が届いてしまったんだ。残っていた愛のある声が。言葉が。

「…あの人は、まだ俺のことを…」

「三枝さん…」

嘆きでもなく、苦痛でもなく、泣き声でもなく…三枝さんは、ひどく穏やかな声で、窓の外を見つめて呟く。

そして、ようやく僕へ振り返り。

「ありがとう」


どうして笑う。


「…あなたに、お話がある」

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