第14話
帰宅し、お昼を食べてしばらく…三枝さんはソファで深く眠った。そりゃ眠るだろう。心身ともに疲労困憊だ。
僕は…ちゃんとした辞職願を書こうとしたが、こちらも頭が働かず。ソファは取られているので、自室の敷きっぱなしの布団に転がって仮眠を取った。
仮眠のつもりだったが。
…過眠した。
寝過ごしたと自覚すると、たとえ夢に微睡んでいても急な焦りとともに一気に覚醒するもので…豪雨の音が響く中で目を覚まし、慌てて身体を起こしてスマホを見る。勢いよく起きたせいで少し頭が痛い。
時刻夕方四時十分。二時間も寝ただと…バカか。ちゃんと仕事をしていた時はショートスリーパーだったというのに…無職になると怠けるのか。やばいやばい。
…というか僕が寝ている間、三枝さんは何をしていた。大丈夫だろうか。雨の音もすごいし。
「三枝さん」
まだ寝ている可能性もあるので、なるべく小声で呼び掛けながらリビングを覗くと…。
その巨体が洗濯物をぶちまけた中に立ち、カーテンを閉めようとしている姿と目があった…何してんだ。
「ああ、起きてたんですね」
「おはようございます…」
「その挨拶は今じゃないですね…てか何を」
また何かやらかしている…としか思えなかったが、僕の寝ぼけた頭はだんだんと冷静を取り戻し、状況をちゃんと把握し出す。
…洗濯物は、リビングから出られるベランダに干しっぱなしだった。雨が降るとわかっていながら、僕は取り込まずに寝た…仮眠だから、三十分程度の予定だったから。それが過眠になって…雨が降って。土砂降りの豪雨で。
…で、三枝さんは今、床に洗濯物をぶちまけた中に立ち、カーテンを閉めようとしていて。
もしかして。
「…取り込んでくれたんですか」
「…わ、わからなかったが…雨だから、また濡れてしまうと思った」
側に寄ってみれば…洗濯物の一部は、ベランダに出た時の三枝さんの、埃を踏んだ足跡がついてしまっているものもある。それは洗い直しだな。
けど…まあ、全然ましだ。
閉めかけのカーテンの間から覗く窓は、暴風に吹かれた雨粒でびっしゃびしゃに濡れている。この雨の中で干しっぱなしだったら、全部乾かし直さなきゃならなかった。
なら、一部の洗い直しくらい、なんてことない。
それに。
「…すまん。悪いことした」
「いいえ、全然悪いことじゃないですよ。むしろ助かりました」
僕は洗濯物を拾い集める…すると三枝さんも、ぎこちない動きで同じように拾う。
そして受け取り…僕は三枝さんに笑ってみせる。
「あんた…あー、上から目線ですみませんが…案外しっかりしてるじゃないですか」
「…ん…?」
「僕の方が寝坊助で…三枝さんだって、寝てたんでしょ」
「…雨の音で目が覚めた」
「それで」
「…服が外に吊るされていると思って」
「濡れてしまうと思って」
「片付けなければと思った」
「それに気がつけるのはすごいことです。ありがとうございます、三枝さん」
「……ん」
過保護だとか、過剰に褒めすぎだとか…きっと他人が見たらそう思うだろう。けど、三枝さんの場合は、当たり前のことではない。
いや、余程しつけられた賢いわんちゃんなら、飼い主と一緒になって洗濯物を取り込むという『芸』もできるだろう…でもこれは芸などではなく、三枝さんの思考だ。
三枝さんは気がついて、自分で判断して、ひとりで行った…元々はもふもふわんちゃんだったのに。
まるで人間のように。
…つうか、怠け者なら人間でもしない。
だから、三枝さんはしっかりしている。
「…汚れちゃったのだけ、もう一度洗濯します。三枝さんは、こっちの…」
ちゃんと乾いた綺麗な洗濯物を三枝さんに手渡す。三枝さんが受け取ったと同時…。
一瞬、窓の外が光った。
三枝さんには見えていない。
けど、次に何が来るかはわかっているので、僕は汚れた洗濯物を片手に抱え、三枝さんを引き寄せ、窓から離れさせる。
瞬間、空から轟音が鳴り響いた。
僕の腕の中で、三枝さんが大きく跳ねた。
「……だいぶ、近くに落ちましたね」
「……かみなり…かみなり、か…」
雷という言葉は覚えているのか。
「音、怖いですよねえ…まあ、家の中に居れば安全ですし、停電にさえならなきゃ困ることもありませんよ。大丈夫です」
「……は…あ、ああ」
反射的に「はい」と言いかけたが、すぐに相槌を変える…律儀だ。
次の雷鳴が来る前に、僕は窓辺に向かいカーテンを閉めた。これで気休め程度の防音にはなるだろう。
「待っててください。これ、洗濯機に放り込んでくるので…」
と、僕が洗面所に向かおうとすると…ぴったりと背後を追いかけられる。いや、本当にすぐそこなのに…たった数秒ひとりになるのさえ怖がるか。
雷を怯えるわんちゃんはよく居る。それこそ見ているこっちが不安になるほどふるえるわんちゃんとか…三枝さんは極度の雷嫌いらしい。
なるほど。雷が怖くて、こうして後ろをついて回る…わんちゃんならよくある行動だろう。
だが振り返れば、僕より大きな身体の三十代の男の姿。
…違和感しかない。
×
豪雨は夕立のようなものだ。夜になる頃にはきっと止むだろう。
雷は二、三度轟音を響かせたが、それ以降は遠くから聞こえる程度で、僕は気にならなくなった。聴覚過敏の三枝さんだけが怯えている。
「…テレビでもつけます?」
…首を横に振る。何の音でも嫌いなものは嫌いなのだろう。
静かな部屋で、少しずつ弱まる雨音と遠雷の音を聞く…僕にとっては落ち着く自然音だ。
…何か三枝さんの気を紛らすものはないだろうか。
「……ああ、プリン食べますか?」
「……ん?」
「ほら、さっき買ったでしょ。甘い物ですよ。夕食も作りますが、まだ時間はありますし…先に食べませんか?」
「……ああ」
耳を塞ぐのを緩めた三枝さんの返答を聞いて、僕は立ち上がり、冷蔵庫へ向かう。
コンビニではティラミスプリンは売っていなかったが、代わりにショコラプリンが売っていた。それと抹茶プリン。二つを持って戻る。
…この二つを購入する時、三枝さんは少し嫌そうな顔をした。「どちらも食べられない物だ」と呟いた。それはやはり、元々犬だった頃の名残りで、飼い主も、それが危険物だという判断を捨てきれなかったから…きっと三枝さんを人間にさせたその人も、チョコやネギなど…そういうものだけは許せなかったのだろう。
…確かに僕も抵抗はあるし、恐ろしくも思う。けど、以前玉ねぎを食べて異変は起こらなかったし、ビサイドペットの売り文句が事実なら、もふもふだった頃に食べられなかった物も、問題なく食べられるようになっているはずだ。
同じ物が食べられる。そのはずだ。
僕は三枝さんの前にショコラプリンを置いた。
「甘い方が好きでしょ? こっちの緑色はちょっと苦いと思うので、僕が頂きます」
「……俺は死なないか?」
「大丈夫です」
強張った表情を向ける三枝さんを宥め、スプーンを手渡す…僕が抹茶プリンの蓋を開けると、三枝さんもぎこちない動きでショコラプリンを開封する。噛んで開ける、という行為はしなくなった。成長だ。
スプーンでほんの少し掬い、三枝さんはチョコレートの香りを嗅ぐ…快とも不快ともとれない複雑な顔をして、意を決したようにゆっくりと口に運び、もくもくと咀嚼する。
そして…柔らかな表情に変わり、驚いたようにショコラプリンを見下ろした。
「……うま」
いつもの反応だ。
「甘いでしょ」
「ん…少し苦いが」
と言いながら、もう一口を口に運ぶ。
本能的な拒否反応でも起こすかと思っていたが、そんな様子は一切ない。嬉しそうにプリンを食べる。
前のバニラプリンの時とは違い、少しずつ掬ってゆっくり食べるのは、チョコレートを摂取する抵抗感というより、ゆっくり味わいたいという人間みたいな行動に見えた。
…なんか、変わったかな、この人。
人…ヒトか。
「人間になるってのも、悪いことばかりではないようですね」
「これは毒だと教わったが…羨ましいと思っていた。こんなに美味い物だとは思わなかった」
「毒って美味しいんですよねえ」
僕が多量に甘味を摂取したら一週間も経たずに肥満になるだろうが、作られた肉体の三枝さんは肥満とは無縁だ…けど、成分などはきっと脳に影響を及ぼす。だからどちらにしろ、取り過ぎは毒だ。
…三枝さんの脳は成長している。彼の体内や頭の中がどのような姿なのかはわからないが、思考は進化し続ける。だから、卑怯な目で見つめるばかりではなく、ついに自己判断を行えるようになった。
成長するのなら。
あの日、殺処分された人間ペットがそうされたように…いずれ、その機能が停止する日が来る。成長して、成長して、老化して、だんだんと思考は遅くなり、反応は鈍くなり、無反応になったその時、人間ペットにも寿命は来る。
人間ペットは人間と変わらず、そして元の姿、犬猫と変わらず、必ず死ぬ日が来る。その寿命は元の犬猫と変わらない齢で尽きる。
三枝さんは七歳…長くて、あと…───
「…どうした」
「……いえ」
じっと見つめる青い瞳には、出会った時よりも確かな意思が宿っていた…一度死にかけた心はしっかりと戻り、むしろその意思は強くなっている。少なくとも僕にはそう見える。
灰の髪に青い瞳、背が高く体格も良い美麗な壮年の外見…に作られた元わんちゃん。
三枝カイ…カイくんか。
「…あんたこそ…何か考えていますよね」
「……?」
「少し顔つきが変わりました。僕に縋り付くような、答えを求めるような、そんな目ではなくなりましたね…」
「……?」
三枝さんは首を傾げる。
理解しようとしているから。
思考するから。
「…何を考えているんです?」
ちょっとだけ寂しい気もするのは何でたか。
僕は三枝さんに何を求めているんだか。
思わずひとりで笑いをこぼせば、三枝さんは首が折れんばかりに深く深く傾ける。
そして、ぽつりと答える。
「…あなたの友達が」
「あー…あいつのことですか。あいつが?」
「俺を、カイと呼んでくれた。少し気持ち悪い感じもしたが…嬉しいとも思った」
…おやおや、僕よりも同僚の方が、三枝さんの信頼を勝ち取ってしまったか?
名前って大切なんだな。
「そうですか」
うーん…。
「…じゃあ、三枝さん」
「何だ」
「……カイさん」
「……?」
「…カイ」
「……」
まばたきを二、三度…三枝さんは不思議そうに僕をじっと見つめる。僕も見つめ返す。本当に綺麗な青い瞳…。
…やがて僕は、腹の底から言いようのない不快感が湧き上がるのを感じ、笑いかけて、やめて、ため息をつき…いつの間にか強張っていた肩の力を抜いた。
「…だめですね。気持ち悪いです」
「ああ…なんだか変だ」
三枝さんも眉間に皺を寄せ、斜め下を見るように僕から目を逸らし、ちょっと嫌がる素振りを見せる。
「名前で呼ばれたいとは思っていたが…あなたにカイと呼ばれるのは、変だった」
「三枝さんは三枝さんですね」
「ああ…」
カイと呼んでくれないか、『三枝さん』では呼ばれた気がしない…そう言われたことを思い出して、なんとなく呼んでみたが、こうも不自然で気色の悪い気持ちになるとは思わなかった。
わんちゃんは自分の名前を認識するし、賢い子は、与えられた名前に加えてニックネームも覚えて反応する…三枝さんはいつの間にか、『三枝さん』と僕に呼ばれることに慣れていたらしい。『三枝さん』でも良いということか。
うーん、同僚のようにはいかないな。僕は三枝さんのことになると、だいぶ不器用になってしまうらしい。不覚だ。
「…けど、あんたは三枝カイですよ。自分のお名前はちゃんと覚えておいてくださいね…そのお名前にだって、良い思い出はいっぱいあるでしょう?」
「っ…」
びく、と…三枝さんの身体が小さく跳ねたのは、未だ微かに、遠くから聞こえる雷鳴のせいではなく。
まだ傷はある。顔や腕に、消えずに残っているそれと同じように、心にも深く。
…以前ならば、僕はそこで話を切り替えるか、謝罪して宥めたりしただろうが…強くなった三枝さんには、少しその傷と向き合ってもらおうか。
「痛い、苦しい、つらい…人間と同じ姿になってからは、そんなことがたくさんありましたよね。でも、あんたの今までのすべてが、そうだったわけではないでしょ」
「……」
「もふもふだった頃はどうでした。多少は最初の躾で怒られもしたでしょうが…撫でてもらったり、抱きしめてもらったり…そんなことはありませんでしたか?」
「……フリスビー」
「とか」
「……寝床にも入れてくれた」
「あるじゃないですか。優しかった頃」
「……あの」
「何です?」
思い出す恐怖心と温かい記憶に挟まれ、忙しなく瞳を動かし俯く三枝さんは…さっきからずっと握っていたスプーンをようやくテーブルに置き…。
「…俺は…どうしてこんな姿になったんだ」
…どうして僕の胸が痛むのか。
僕がやったことじゃないのに。
「俺は…ちがう姿をしていた…はずなんだ。けど、いつの間にか…こんな風になっていて…」
「…難しい話ですが、あんたは今、人間です。けど、昔は…」
「人間とか…犬とか…よくわからない。俺は何なんだ…俺は、どうしたらいいんだ」
…吃りながら問いかける言葉は、僕に向けられているようには聞こえなかった。目線は向けられず、三枝さんは俯き、自分の身体を見下ろし、自分で答えを出そうと必死になっている。自問自答だ。
それが三枝さんの考えていることだ。
犬猫が自分を犬猫と自覚しているか…もしかしたら、人間と一緒に居ることで、自分を人間だと思っているかもしれない。そんな想像をしたことがあるが。
まあ、そうだよな。三枝さんは気がついたら人の姿になっていた。元の感覚が一瞬であやふやになり、新たな感覚に戸惑っている間に、周囲の対応はどんどん変わっていく。自分について考える時間なんて一瞬もなかったのだろう。
…色々あったが、今は僕と居ることで、それを改めて考える時間が得られた。だから三枝さんは思考する。自分が何者なのか。自分がこれからどうしていくべきなのか。まるで人間のように。
「…そんな難しい顔、しないでくださいよ」
そんなの、人間の僕らですら答えは見つけられないさ。
だから、元々もふもふで、たっぷり寝て過ごす生き物だった三枝さんが考えることじゃない。
「あんたは…今は、したいと思うことをやればいいんですよ。小難しいことではなく、もっと単純に…寝たいとか、遊びたいとか、食べたいとか、そういうことを考えていればいいんです」
「…そんなものなのか」
「まあ、おイタが過ぎれば躾けますが」
あまり人間らしすぎるのも哀れだ。
三枝さんには、もっと自由でいてもらいたい。
のびのびと、穏やかに。
だから。
三枝さんは。
「…何かしたいことがあったら、教えてください。僕はいつでも付き合いますよ」
僕には時間が有り余っているから。
…三枝さんは小さく頷いた。
雨音は静まり、カーテンの隙間から、僅かに夕の日差しが差し込んだ。
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